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ところが、明治17年([[1884年]])[[2月4日]]に[[大炊御門家]]を廃嫡になる(家督は弟の[[大炊御門幾麿|幾麿]]が継承)。公式の届出は病気を理由とするが、実子・[[一条実孝]]によれば[[祇園]]での放蕩による2,000円の借財問題と[[五辻安仲]]に陥れられたことによるという<ref name=ichijyou>『公家・将軍・大名』「公家長屋」による一条実孝の証言。</ref>。 |
ところが、明治17年([[1884年]])[[2月4日]]に[[大炊御門家]]を廃嫡になる(家督は弟の[[大炊御門幾麿|幾麿]]が継承)。公式の届出は病気を理由とするが、実子・[[一条実孝]]によれば[[祇園]]での放蕩による2,000円の借財問題と[[五辻安仲]]に陥れられたことによるという<ref name=ichijyou>『公家・将軍・大名』「公家長屋」による一条実孝の証言。</ref>。 |
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廃嫡後の師前は[[皇后]]・[[昭憲皇太后|一条美子]]の計らい<ref name=小倉>『山岡鉄舟先生正伝』による小倉の証言。</ref>によって子・実孝と共に[[山岡鉄舟]]に剣術を学んでいたが、その腕前を評価した山岡が[[三島通庸]]に推挙して[[警視庁 (内務省)|警視庁]]に採用され、明治21年([[1888年]])には[[築地警察署|京橋警察署]]の外勤警部としてその名が記されている。廃嫡後も従三位の[[位階]]はそのままであったため、当時の警察では最も位階が高い人物になっていた<ref>松田、2008年、P49-50</ref>。その後、間もなく警視庁を辞任しているが、師前が[[ |
廃嫡後の師前は[[皇后]]・[[昭憲皇太后|一条美子]]の計らい<ref name=小倉>『山岡鉄舟先生正伝』による小倉の証言。</ref>によって子・実孝と共に[[山岡鉄舟]]に剣術を学んでいたが、その腕前を評価した山岡が[[三島通庸]]に推挙して[[警視庁 (内務省)|警視庁]]に採用され、明治21年([[1888年]])には[[築地警察署|京橋警察署]]の外勤警部としてその名が記されている。廃嫡後も従三位の[[位階]]はそのままであったため、当時の警察では最も位階が高い人物になっていた<ref>松田、2008年、P49-50</ref>。その後、間もなく警視庁を辞任しているが、師前が[[文部大臣]][[森有礼]]の担当警護官であったことが知られている<ref name=ichijyou/><ref name=小倉/>ため、松田敬之は明治22年([[1889年]])に森が暗殺された責任を取ったのではないか、と推測している<ref>松田、2008年、P51</ref>。 |
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その後は大炊御門家の庇護を受け、大正4年([[1915年]])の[[大正天皇]]の[[即位の礼|即位の大礼]]に際して、典儀官に任じられている。 |
その後は大炊御門家の庇護を受け、大正4年([[1915年]])の[[大正天皇]]の[[即位の礼|即位の大礼]]に際して、典儀官に任じられている。 |
2020年12月30日 (水) 09:34時点における版
大正天皇即位大礼の典儀官時の大炊御門師前(1915年) | |
時代 | 江戸時代後期 - 大正時代 |
生誕 | 嘉永6年10月25日(1853年11月25日) |
死没 | 大正15年(1925年)5月18日 |
官位 | 従三位、右近衛権中将 |
主君 | 孝明天皇→明治天皇 |
氏族 | 大炊御門家 |
父母 | 父:大炊御門家信、母:不詳 |
兄弟 | 経宣、師前、幾麿、綾小路家政、吉子ら |
子 | 一条実孝 |
大炊御門 師前(おおいのみかど もろさき)は、幕末・明治期の公家・官吏。右大臣・大炊御門家信の長男。官位は従三位・右近衛権中将。
経歴
安政3年12月22日(1857年1月17日)に叙爵を受け、明治2年3月6日(1869年4月17日)に右近衛権中将、同年7月13日(8月20日)に従三位に叙せられる。
ところが、明治17年(1884年)2月4日に大炊御門家を廃嫡になる(家督は弟の幾麿が継承)。公式の届出は病気を理由とするが、実子・一条実孝によれば祇園での放蕩による2,000円の借財問題と五辻安仲に陥れられたことによるという[1]。
廃嫡後の師前は皇后・一条美子の計らい[2]によって子・実孝と共に山岡鉄舟に剣術を学んでいたが、その腕前を評価した山岡が三島通庸に推挙して警視庁に採用され、明治21年(1888年)には京橋警察署の外勤警部としてその名が記されている。廃嫡後も従三位の位階はそのままであったため、当時の警察では最も位階が高い人物になっていた[3]。その後、間もなく警視庁を辞任しているが、師前が文部大臣森有礼の担当警護官であったことが知られている[1][2]ため、松田敬之は明治22年(1889年)に森が暗殺された責任を取ったのではないか、と推測している[4]。
その後は大炊御門家の庇護を受け、大正4年(1915年)の大正天皇の即位の大礼に際して、典儀官に任じられている。
脚注
参考文献
- 松田敬之『次男坊たちの江戸時代-公家社会の〈厄介者〉-』(吉川弘文館・歴史文化ライブラリー246、2008年) ISBN 978-4-642-05646-5 P39-53 「「公卿剣客」として再起した厄介」
- 有馬頼寧他『公家・将軍・大名』東西文明社、1958年。
- 小倉鉄樹『山岡鉄舟先生正伝 おれの師匠』春風館、1937年(初版)。