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[[1924年]]([[大正]]13年)、[[第15回衆議院議員総選挙]]に出馬し、当選。以後、6回の当選を重ねた。その間、浜松市会議員を兼ね、[[文部大臣]]秘書官を務め、[[平沼内閣]]では[[司法省|司法]][[政務次官]]に就任した。 |
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[[1939年]](昭和14年)の政友会分裂に際しては[[中島知久平]]総裁が率いる政友会革新同盟に所属し、政党解消後は[[翼賛議員同盟]]に加わらず興亜議員同盟に所属。1942年(昭和17年)の[[第21回衆議院議員総選挙|翼賛選挙]]では、非推薦候補として出馬したが落選した<ref>『翼賛選挙大観』朝日新聞社、1942年(昭和17年)。</ref>。 |
2020年12月30日 (水) 09:28時点における版
倉元 要一 くらもと よういち | |
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倉元要一 | |
生年月日 | 1879年12月17日 |
出生地 | 福岡県宗像郡上西郷村(現・福岡県福津市) |
没年月日 | 1942年11月12日(62歳没) |
出身校 | 明治大学法科専門部 |
所属政党 |
立憲政友会 立憲政友会革新同盟 興亜議員同盟 |
倉元 要一(くらもと よういち、1879年(明治12年)12月17日[1] - 1942年(昭和17年)11月12日)は、日本の政治家、立憲政友会所属の衆議院議員。
経歴
福岡県宗像郡上西郷村(現・福津市)出身。明治大学法科専門部卒業。大阪府属、滋賀県警部、鳥取県警部、福井県今立郡長、坂井郡長、福井県理事官、静岡県浜名郡長、静岡県理事官・産業課長を歴任した。
1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、6回の当選を重ねた。その間、浜松市会議員を兼ね、文部大臣秘書官を務め、平沼内閣では司法政務次官に就任した。
1939年(昭和14年)の政友会分裂に際しては中島知久平総裁が率いる政友会革新同盟に所属し、政党解消後は翼賛議員同盟に加わらず興亜議員同盟に所属。1942年(昭和17年)の翼賛選挙では、非推薦候補として出馬したが落選した[2]。
脚注
参考文献
- 『衆議院要覧(乙)昭和十二年十一月』衆議院事務局、1937年。