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[[明治]]14年([[1881年]])旧[[久留米藩]]主家の[[伯爵]][[有馬頼萬]]に嫁いだ。同16年(1883年)に長女・禎子を、翌17年(1884年)に長男・[[有馬頼寧|頼寧]]を産んだ。しかし、翌18年([[1885年]])2月、実家[[岩倉家]]に帰りそのまま離婚した。 |
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明治19年([[1886年]])、当時[[文部大臣]]の[[森有礼]]と再婚し、先妻の常の残した二児の母となる。[[森明|明]](有礼にとっては三男)を産んだ。同22年([[1889年]])2月に有礼が暗殺され、有礼と共に過ごしたのはわずか1年7か月であった。 |
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明治36年([[1904年]])[[日本基督教会]][[富士見町教会]]で次男、三男と共に[[植村正久]]から受洗した<ref>『近代日本のキリスト者たち』201頁</ref>。 |
明治36年([[1904年]])[[日本基督教会]][[富士見町教会]]で次男、三男と共に[[植村正久]]から受洗した<ref>『近代日本のキリスト者たち』201頁</ref>。 |
2020年12月30日 (水) 09:26時点における版
森 寛子(もり ひろこ、元治元年3月15日(1864年4月20日) - 昭和18年(1943年)11月2日)は、岩倉具視の五女。フランス文学者の森有正は孫にあたる。初名は恒子。
生涯
明治14年(1881年)旧久留米藩主家の伯爵有馬頼萬に嫁いだ。同16年(1883年)に長女・禎子を、翌17年(1884年)に長男・頼寧を産んだ。しかし、翌18年(1885年)2月、実家岩倉家に帰りそのまま離婚した。
明治19年(1886年)、当時文部大臣の森有礼と再婚し、先妻の常の残した二児の母となる。明(有礼にとっては三男)を産んだ。同22年(1889年)2月に有礼が暗殺され、有礼と共に過ごしたのはわずか1年7か月であった。
明治36年(1904年)日本基督教会富士見町教会で次男、三男と共に植村正久から受洗した[1]。
昭和18年(1943年)、80歳で死没。
脚注
- ^ 『近代日本のキリスト者たち』201頁