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* 明治21年([[1888年]])3月 - ハーグ公使館勤務。
* 明治21年([[1888年]])3月 - ハーグ公使館勤務。
* 明治22年([[1889年]]) - [[サンクトペテルブルク]]勤務。[[ライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボン|ボン大学]]卒業(ドクトルユーリス学位取得)。オーストリア皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世]]より叙勲。
* 明治22年([[1889年]]) - [[サンクトペテルブルク]]勤務。[[ライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボン|ボン大学]]卒業(ドクトルユーリス学位取得)。オーストリア皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世]]より叙勲。
* 明治25年([[1892年]]) - 帰国。翌年[[東京大学|東京帝国大学]]法学科教師、[[井上毅]][[文部大臣 (日本)|文部大臣]]秘書官兼参事官(京城領事館土地問題解決に尽くす)。
* 明治25年([[1892年]]) - 帰国。翌年[[東京大学|東京帝国大学]]法学科教師、[[井上毅]][[文部大臣]]秘書官兼参事官(京城領事館土地問題解決に尽くす)。
* 明治27年([[1894年]]) - [[第三高等学校 (旧制)|京都第三高等学校]]教授([[国際法]])法学部主事。同志社教師。
* 明治27年([[1894年]]) - [[第三高等学校 (旧制)|京都第三高等学校]]教授([[国際法]])法学部主事。同志社教師。
* 明治29年([[1896年]]) - 結婚(妻 栄子)。
* 明治29年([[1896年]]) - 結婚(妻 栄子)。

2020年12月30日 (水) 09:20時点における版

吉田作弥の肖像写真。撮影年は不明。

吉田 作弥(よしだ さくや、安政5年(1859年5月13日 - 昭和4年(1929年12月26日)は、日本の外交官

略歴

(以上、作弥の孫の榊原美穂子榊原英資夫人)がまとめた作弥年譜から抜粋)

栄典

位階
勲章
外国勲章佩用允許

人物

ことに吉田作彌の入信は、彼が反キリスト教派の急先鋒であったため、結盟の人々をビックリさせた。学校休業が間近に迫ったある夜、吉田はジェーンズを訪ねて、「先生、私は信仰にはいります。神は確かにあります」と自分が種子をまいて育てた朝顔が、成長して花を咲かせたのを見て、有神論を肯定したと告白した。ジェーンズは喜んで励まして帰した。(中略)。キリスト教を信ずると公表して、吉田は間もなく養家にま呼びつけられた。彼の父は非常に激怒して、絶対に思い止まらせようと、ありと汎ゆる手段を尽くしたが、頑として服従せず、効果が無かった。遂に父親は白刃を閃かせて手打ちにすると威嚇した。吉田作彌は養家に帰る直前、ジェーンズから「行け!殺されよ」と励まされていたので、白刃を何とも思わず、死を決して頭を静かに差し伸ばして、お父上の手で死ぬのは本望の至りです」と言って従容としていた。父は一層面憎く思ったが愛する自分の息子、ことに教えのために死をも恐れず平然として殉教の態度を示す殊勝な作彌を殺すことは出来ない。「馬鹿者!」と大喝一声、サッと刃を振って刀背で彼の頸筋を強か叩いた。実に偉大な魂胆ではないか。これが20歳にも満たぬ少年の奉教顛末であった[4]

家族

妻の榮子は明治42年(1910年)閑院宮御用取扱い仰せ付けられ、大正4年(1929年)従6位、同12年正6位、昭和20年(1945年)依願により閑院宮御用取扱いを免ぜられた。

脚注

  1. ^ 『官報』第584号「叙任及辞令」1914年7月11日。
  2. ^ 『官報』第5848号「叙任及辞令」1902年12月29日。
  3. ^ a b 『官報』第6819号、「叙任及辞令」1906年03月27日。
  4. ^ 潮谷総一郎著「熊本洋学校とジェーンズ」181頁。

参考文献

関連項目


先代
原田助
同志社校友会会長
1897年 - 1898年
次代
安部磯雄