「小柴保人」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
加筆調整 |
m Bot作業依頼: 文部大臣の改名に伴うリンク修正依頼 - log |
||
4行目: | 4行目: | ||
1859年、現在の[[千葉県]]で生まれる<ref name=doboku/>。1880年(明治13年)、東京大学理学部(土木)工学科を卒業し<ref name=doboku/>、同年、[[内務省 (日本)|内務省]]土木局に入局し、[[宮城県]]、[[岩手県]]で[[北上川]]改修工事に従事した<ref name=doboku/>。 |
1859年、現在の[[千葉県]]で生まれる<ref name=doboku/>。1880年(明治13年)、東京大学理学部(土木)工学科を卒業し<ref name=doboku/>、同年、[[内務省 (日本)|内務省]]土木局に入局し、[[宮城県]]、[[岩手県]]で[[北上川]]改修工事に従事した<ref name=doboku/>。 |
||
1886年(明治19年)、第二区(仙台)土木監督署の巡視となり、[[沖野忠雄]]巡視長の代理を務める<ref name=doboku/>。1890年(明治23年)、第二高等中学校教授を兼任した<ref name=doboku/>。1891年(明治24年)、第三区(新潟)土木監督署長に転じた<ref name=doboku/>。1901年(明治34年)8月8日、[[ |
1886年(明治19年)、第二区(仙台)土木監督署の巡視となり、[[沖野忠雄]]巡視長の代理を務める<ref name=doboku/>。1890年(明治23年)、第二高等中学校教授を兼任した<ref name=doboku/>。1891年(明治24年)、第三区(新潟)土木監督署長に転じた<ref name=doboku/>。1901年(明治34年)8月8日、[[文部大臣]]より工学博士の学位を授与された<ref>『官報』第5431号、明治34年8月9日。</ref>。1905年(明治38年)、官制改正により新潟土木出張所長となる<ref name=doboku/>。1911年(明治44年)、本省に転じ土木局調査課長に就任<ref name=doboku/>。1913年(大正2年)に退官した<ref name=doboku/>。 |
||
娘梅子は、22歳で、1923年の第六回国際労働会議に、政府代表婦人問題顧問石原きよの随員として出席{{要出典|date=2019年10月7日 (月) 14:27 (UTC)}}。 |
娘梅子は、22歳で、1923年の第六回国際労働会議に、政府代表婦人問題顧問石原きよの随員として出席{{要出典|date=2019年10月7日 (月) 14:27 (UTC)}}。 |
2020年12月30日 (水) 08:58時点における最新版
小柴 保人(こしば やすと、安政6年1月2日[1](1859年2月4日) - 1924年(大正13年)5月9日[1])は、日本の工学博士。第二高等中学校(現東北大学教養部)教授。旧制鹿山中学校[要出典](現在の千葉県立佐倉高等学校)を経て東京大学理学部卒。土木学会会員[要出典]。
経歴
[編集]1859年、現在の千葉県で生まれる[1]。1880年(明治13年)、東京大学理学部(土木)工学科を卒業し[1]、同年、内務省土木局に入局し、宮城県、岩手県で北上川改修工事に従事した[1]。
1886年(明治19年)、第二区(仙台)土木監督署の巡視となり、沖野忠雄巡視長の代理を務める[1]。1890年(明治23年)、第二高等中学校教授を兼任した[1]。1891年(明治24年)、第三区(新潟)土木監督署長に転じた[1]。1901年(明治34年)8月8日、文部大臣より工学博士の学位を授与された[2]。1905年(明治38年)、官制改正により新潟土木出張所長となる[1]。1911年(明治44年)、本省に転じ土木局調査課長に就任[1]。1913年(大正2年)に退官した[1]。
娘梅子は、22歳で、1923年の第六回国際労働会議に、政府代表婦人問題顧問石原きよの随員として出席[要出典]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章
- 1896年(明治29年)12月25日 - 勲六等瑞宝章[6]
- 1900年(明治33年)12月20日 - 勲四等瑞宝章[7]
- 1904年(明治37年)12月27日 - 勲三等瑞宝章[8]
- 1912年(大正元年)12月18日 - 勲二等瑞宝章[9]
主な著作
[編集]- 新潟港改修と港口の浚渫(1915年)
- 内務省直轄河川計画概要(1917年)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 高橋裕、藤井肇男共著『近代日本土木人物事典:国土を築いた人々』鹿島出版会、2013年。