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[[フランシス・スペンサー (初代チャーチル男爵)|フランシス・スペンサー卿]]と、その妻フランセスの間に三男として生まれる。父フランシス卿は第4代[[マールバラ公爵]][[ジョージ・スペンサー (第4代マールバラ公)|ジョージ・スペンサー]]の次男であり、1815年に初代[[チャーチル男爵]]に叙された。母フランセスは[[イギリスの首相|首相]]を務めた第3代[[グラフトン公爵]][[オーガスタス・フィッツロイ (第3代グラフトン公)|オーガスタス・フィッツロイ]]の五女である。


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2020年12月27日 (日) 05:24時点における版

オーガスタス・スペンサー
Augustus Spencer
チャールズ・ウィリアム・ウォルトンによるリトグラフ
生誕 1807年3月25日
イギリスの旗 イギリスイングランドオックスフォードシャーウッドストック英語版ブレナム宮殿
死没 1893年8月28日 (86歳)
イギリスの旗 イギリスイングランドロンドン
所属組織 イギリス陸軍
軍歴 1825年 - 1875年
最終階級 陸軍大将
墓所 ロンドン、ブロンプトン墓地[1]
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サー・オーガスタス・アルメリック・スペンサー閣下英語: The Hon. Sir Augustus Almeric Spencer, GCB[2] 1807年3月25日 - 1893年8月28日)は、イギリス軍人。最終階級は陸軍大将(General)。名門貴族・スペンサー家の一員。

略歴

フランシス・スペンサー卿と、その妻フランセスの間に三男として生まれる。父フランシス卿は第4代マールバラ公爵ジョージ・スペンサーの次男であり、1815年に初代チャーチル男爵に叙された。母フランセスは首相を務めた第3代グラフトン公爵オーガスタス・フィッツロイの五女である。

1825年4月8日、第43(モンマスシャー)歩兵連隊(軽歩兵)英語版に入隊し、陸軍少尉に任官される。その後中尉(1827年7月5日)、大尉(1831年4月6日)、少佐(1843年7月21日)と順調に進級[3][4]クリミア戦争に参加し、アルマの戦い英語版インカーマンの戦い英語版セヴァストーポリ包囲戦で連隊を指揮した[3][4]。1856年、アルダーショット駐屯の1個旅団の旅団長となる。1860年2月13日、少将に昇進する。同年インド帝国に赴任し、マドラス軍英語版隷下の師団指揮官に着任。1866年に本国に戻り、西部軍管区英語版司令官に就任した[4]。1868年5月9日に中将となり、翌年に再びインドでボンベイ軍英語版司令官に任じられた。

1875年9月14日、陸軍大将となった[5]。同年退役[4]

勲章

家族

1836年、英緬戦争で活躍した陸軍軍人である初代準男爵サー・アーチボルド・キャンベル英語版の次女、ヘレン・マリア嬢と結婚[8][9]。一男五女をもうける[10]。ひ孫の一人が、ジョージ6世エリザベス2世の聖職者を務めたヘンリー・スペンサー・スティーブンソン英語版である[11]

脚注

  1. ^ “Funeral of Augustus Almeric Spencer”. The Times Newspaper, London, UK: p. 3. (5 September 1893) 
  2. ^ "No. 24213". The London Gazette (英語). 29 May 1875. p. 2851.
  3. ^ a b Hart, H. G. (1880). The New Army List Militia List and Indian Civil Service List. John Murray. https://books.google.com/books?id=UP8NAAAAQAAJ&pg=PA187&dq=%22Sir+Augustus+Almeric+Spencer%22&hl=en&sa=X&ei=ngDsUu_YCIPeoASE_IGwBA&ved=0CDAQ6AEwAQ#v=onepage&q=%22Sir%20Augustus%20Almeric%20Spencer%22&f=false 12 June 2016閲覧。 
  4. ^ a b c d Augustus Spencer”. Oxford Dictionary of National Biography. 12 June 2016閲覧。
  5. ^ {{London Gazette}}を使用する場合、|issue=|date=は必須です。
  6. ^ "No. 6620". The London Gazette (英語). 5 August 1856. p. 684.
  7. ^ "No. 6785". The London Gazette (英語). 5 March 1858. p. 486.
  8. ^ Lodge, Edmund (1849). The Peerage of the British Empire as at present existing. Saunders and Otley, London, England. https://books.google.com/books?id=GvNBAAAAcAAJ&pg=PA122&dq=helen+campbell+spencer+churchill&hl=en&sa=X&ei=HPPrUujoA8rtoASB-4KIBg&ved=0CDwQ6AEwBDge#v=onepage&q=helen%20campbell%20spencer%20churchill&f=false 31 January 2014閲覧。 
  9. ^ Debrett's Peerage, Baronetage, Knightage, and Companionage. Dean & Son Limited, Great Britain. (1902). p. 182. https://books.google.com/books?id=cLc7AQAAMAAJ&pg=PA182&dq=%22Augustus+Almeric%22+spencer+churchill+campbell&hl=en&sa=X&ei=ZfjrUsT_FpKEoQTFmYDoAw&ved=0CCkQ6AEwAA#v=onepage&q&f=false 31 January 2014閲覧。 
  10. ^ Fox-Davies, Arthur Charles (1895). Armorial Families: A Complete Peerage, Baronetage, and Knightage, and a Directory of Some Gentlemen of Coat-armour, and Being the First Attempt to Show which Arms in Use at the Moment are Borne by Legal Authority, Part 1. Jack, Great Britain. p. 919. https://books.google.com/books?id=KDw6AQAAMAAJ&pg=PA919&dq=%22augustus+almeric+spencer%22&hl=en&sa=X&ei=LaLUUuTnJ9L1oASXm4CABw&ved=0CC8Q6AEwAA#v=onepage&q=%22augustus%20almeric%20spencer%22&f=false 14 January 2014閲覧. "Under Dame Helen Maria Spencer, Widow of Augustus Almeric Spencer" 
  11. ^ Walford, Edward (1893). The Windsor Peerage for 1890-1894. Chatto & Windus, Piccadilly, London, England. p. 118. https://books.google.com/books?id=ick-AAAAYAAJ&pg=PA118&dq=%22augusta+melita%22+spencer&hl=en&sa=X&ei=HU2TU-6mNca0yATJk4CgAQ&ved=0CCwQ6AEwAQ#v=onepage&q=%22augusta%20melita%22%20spencer&f=false 7 June 2014閲覧. "See entry for Churchill, 3rd Baron" 

外部リンク

軍職
先代
第3代テンプルタウン子爵英語版
西部軍管区英語版司令官
1866年–1869年
次代
サー・チャールズ・ステーブリー英語版
先代
サー・ロバート・ネイピア英語版
ボンベイ軍英語版司令官
1869年–1874年
次代
サー・チャールズ・ステーブリー英語版
先代
ロバート・ギャレット英語版
第43歩兵連隊英語版連隊長
1869年–1881年
次代
連隊廃止
連隊はオックスフォードシャー・バッキンガムシャー軽歩兵連隊英語版となる
先代
サー・チャールズ・ウォレン
第96歩兵連隊英語版連隊長
1866年–1869年
次代
ジョージ・トマス・コノリー・ネイピア