「鈴木正文 (編集者)」の版間の差分
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「[[共産主義者]]」を自称し<ref>[http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/lcc/20100121/1030836/?P=6 「日経トレンディネット」2010年01月21日]</ref>、紙上では「[[毛語録]]」を引用した記事を書いたり、[[フランス]]が[[核実験]]を実施すれば誌上で[[フランス車]]ユーザーを募って[[駐日フランス大使館|フランス大使館]]ヘフランス車を連ねたデモを行い、1991年の[[湾岸戦争]]勃発時にもやはり誌上にて[[反戦デモ]]([[クウェート]]を侵略した[[イラク]]に対しての「反戦」ではなく、クウェートを助ける[[アメリカ軍]]や[[イギリス軍]]、[[サウジアラビア軍]]などの多国籍軍に向けたもの)への参加を呼びかけ<ref>『NAVI』 1991年2月号 (二玄社)</ref>、同3月には[[明治公園]]で「反戦集会」(事実上の[[反米]]集会)を実施したり、[[ダニエル・コーン=ベンディット]]への[[インタビュー]]記事を掲載するなど、編集長時代には、既存の自動車雑誌にはない「鈴木らしさ」を全面的に出した言動を展開した。 |
「[[共産主義者]]」を自称し<ref>[http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/lcc/20100121/1030836/?P=6 「日経トレンディネット」2010年01月21日]</ref>、紙上では「[[毛語録]]」を引用した記事を書いたり、[[フランス]]が[[核実験]]を実施すれば誌上で[[フランス車]]ユーザーを募って[[駐日フランス大使館|フランス大使館]]ヘフランス車を連ねたデモを行い、1991年の[[湾岸戦争]]勃発時にもやはり誌上にて[[反戦デモ]]([[クウェート]]を侵略した[[イラク]]に対しての「反戦」ではなく、クウェートを助ける[[アメリカ軍]]や[[イギリス軍]]、[[サウジアラビア軍]]などの多国籍軍に向けたもの)への参加を呼びかけ<ref>『NAVI』 1991年2月号 (二玄社)</ref>、同3月には[[明治公園]]で「反戦集会」(事実上の[[反米]]集会)を実施したり、[[ダニエル・コーン=ベンディット]]への[[インタビュー]]記事を掲載するなど、編集長時代には、既存の自動車雑誌にはない「鈴木らしさ」を全面的に出した言動を展開した。 |
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なお、[[1991年]]の[[ソ連崩壊]]後には、「共産主義者」を自称することはなくなった上、プチブル的なものに対するあこがれを隠さなくなったことから「裏切り者」と呼ばれるようになった。 |
なお、[[1991年]]の[[ソビエト連邦の崩壊]]後には、「共産主義者」を自称することはなくなった上、プチブル的なものに対するあこがれを隠さなくなったことから「裏切り者」と呼ばれるようになった。 |
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また、[[1993年]]初頭には、鈴木の編集部運営に反発した編集部員10人程度が二玄社経営陣に対し鈴木の編集長解任を求め、抗議行動を起こし大量に離脱するという事件を起こした。なおこの際、副編集長だった小川文夫(現・小川フミオ)と今尾直樹は鈴木側に立ち、また陶山拓、 岡小百合、青木陽子らも編集部に残留した。なお、抗議行動を起こした編集部員らを支援した[[ノンフィクション]]作家で自動車評論家の[[中部博]]、写真家の[[守屋裕司]]などは同誌編集部から出入り禁止になった。しかし、経営陣は鈴木の編集長時代に「NAVI」の部数が上がったことなど編集長としての手腕を認め、その後も鈴木を編集長に留めることになる。 |
また、[[1993年]]初頭には、鈴木の編集部運営に反発した編集部員10人程度が二玄社経営陣に対し鈴木の編集長解任を求め、抗議行動を起こし大量に離脱するという事件を起こした。なおこの際、副編集長だった小川文夫(現・小川フミオ)と今尾直樹は鈴木側に立ち、また陶山拓、 岡小百合、青木陽子らも編集部に残留した。なお、抗議行動を起こした編集部員らを支援した[[ノンフィクション]]作家で自動車評論家の[[中部博]]、写真家の[[守屋裕司]]などは同誌編集部から出入り禁止になった。しかし、経営陣は鈴木の編集長時代に「NAVI」の部数が上がったことなど編集長としての手腕を認め、その後も鈴木を編集長に留めることになる。 |
2020年12月26日 (土) 00:32時点における版
鈴木 正文(すずき まさふみ、1949年-)は、日本の雑誌編集者であり、自動車評論家。「GQ Japan」(コンデナスト・ジャパン)編集長、インターネット関連事業を行う七洋株式会社(東京都目黒区)顧問[1]。
プロフィール
学生時代
東京都出身、慶應義塾大学文学部入学[2]後に学生運動(全共闘、学園紛争)に傾倒し、1969年には東大安田講堂事件に加わり[注釈 1]、違法活動により逮捕されている[3]。その後同大学を中退する。
二玄社時代
その後雑誌の編集者などを経て、1983年には、「カーグラフィック」などを出版する二玄社に入社。1984年には自動車雑誌「NAVI」(2010年2月休刊)の創刊に携わり、1989年には同誌二代目編集長に就任した[4]。
「共産主義者」を自称し[5]、紙上では「毛語録」を引用した記事を書いたり、フランスが核実験を実施すれば誌上でフランス車ユーザーを募ってフランス大使館ヘフランス車を連ねたデモを行い、1991年の湾岸戦争勃発時にもやはり誌上にて反戦デモ(クウェートを侵略したイラクに対しての「反戦」ではなく、クウェートを助けるアメリカ軍やイギリス軍、サウジアラビア軍などの多国籍軍に向けたもの)への参加を呼びかけ[6]、同3月には明治公園で「反戦集会」(事実上の反米集会)を実施したり、ダニエル・コーン=ベンディットへのインタビュー記事を掲載するなど、編集長時代には、既存の自動車雑誌にはない「鈴木らしさ」を全面的に出した言動を展開した。
なお、1991年のソビエト連邦の崩壊後には、「共産主義者」を自称することはなくなった上、プチブル的なものに対するあこがれを隠さなくなったことから「裏切り者」と呼ばれるようになった。
また、1993年初頭には、鈴木の編集部運営に反発した編集部員10人程度が二玄社経営陣に対し鈴木の編集長解任を求め、抗議行動を起こし大量に離脱するという事件を起こした。なおこの際、副編集長だった小川文夫(現・小川フミオ)と今尾直樹は鈴木側に立ち、また陶山拓、 岡小百合、青木陽子らも編集部に残留した。なお、抗議行動を起こした編集部員らを支援したノンフィクション作家で自動車評論家の中部博、写真家の守屋裕司などは同誌編集部から出入り禁止になった。しかし、経営陣は鈴木の編集長時代に「NAVI」の部数が上がったことなど編集長としての手腕を認め、その後も鈴木を編集長に留めることになる。
「ENGINE」創刊
その後1999年に独立し、自動車雑誌「ENGINE(エンジン)」(新潮社)を新たに立ち上げるとともに初代編集長となる。その後同誌は、鈴木が編集長を務めていた末期の「NAVI」同様にファッションに関する記事を取り入れるとともに、ファッション関連の広告主を獲得し収益を安定させ現在に至る。
現在
2012年1月より「GQ Japan」(コンデナスト・ジャパン)編集長に就任。「NAVI」と「ENGINE」の副編集長を務めた今尾直樹をシニア・エディターに、自身の「NAVI」後任編集長であった小川フミオをコントリビューティング・エディターに起用。現在も編集長を務める。
著書
- まるくす(二玄社、1985年)
出典
- ^ http://www.nanayou.co.jp/
- ^ 鈴木正文 プロフィール
- ^ 車への熱き思い -小林彰太郎 Vitalite インタビュー
- ^ 鈴木正文 オウプナーズ 七洋株式会社 2008年7月
- ^ 「日経トレンディネット」2010年01月21日
- ^ 『NAVI』 1991年2月号 (二玄社)
注釈
- ^ 『東大落城』(文春文庫、佐々淳行著)に対する書評のなかで自ら明らかにしている
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