「アレクサンドル・ボルコフ (テニス選手)」の版間の差分
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'''アレクサンドル・ボルコフ'''('''Alexander Volkov''', {{Lang-ru|''Алекса́ндр Влади́мирович Во́лков''}}, [[1967年]][[3月3日]] - [[2019年]][[10月19日]] )は、[[ロシア]]・[[カリーニングラード]]出身の男子プロ[[テニス]]選手。主に[[1990年代]]前半に活動し、[[1993年]]の[[全米オープン (テニス)|全米オープン]]で男子シングルスのベスト4に入った選手である。シングルス自己最高ランキングは14位。[[男子プロテニス協会|ATP]]ツアーでシングルス3勝を挙げたが、準優勝が8度あった。男子テニス国別対抗戦・[[デビスカップ]]でも、[[ソビエト連邦]]時代から国の代表選手を務め、[[ソ連崩壊]]後はロシア代表として活躍した。身長187cm、体重79kg。左利きの選手。 |
'''アレクサンドル・ボルコフ'''('''Alexander Volkov''', {{Lang-ru|''Алекса́ндр Влади́мирович Во́лков''}}, [[1967年]][[3月3日]] - [[2019年]][[10月19日]] )は、[[ロシア]]・[[カリーニングラード]]出身の男子プロ[[テニス]]選手。主に[[1990年代]]前半に活動し、[[1993年]]の[[全米オープン (テニス)|全米オープン]]で男子シングルスのベスト4に入った選手である。シングルス自己最高ランキングは14位。[[男子プロテニス協会|ATP]]ツアーでシングルス3勝を挙げたが、準優勝が8度あった。男子テニス国別対抗戦・[[デビスカップ]]でも、[[ソビエト連邦]]時代から国の代表選手を務め、[[ソビエト連邦の崩壊]]後はロシア代表として活躍した。身長187cm、体重79kg。左利きの選手。 |
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ボルコフは10歳から[[テニス]]を始め、[[1986年]]に「ソビエト連邦選手権」(USSR National Championships)で準優勝したことがある。[[1987年]]の[[1987年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]で[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]にデビューした時、ボルコフは世界ランキング503位であったが、予選3試合を勝ち抜いた後、初めての本戦でいきなり[[アンダース・ヤリード]]との4回戦に進出した。翌[[1988年]]、ボルコフは[[オリンピックのソビエト連邦選手団|オリンピックのソ連代表選手]]として[[1988年ソウルオリンピックのテニス競技|1988年ソウル五輪]]出場を果たす。その後[[1991年]]に[[ソ連崩壊]]が起こり、カリーニングラード生まれのボルコフは「[[ロシア]]」国籍の選手になった。彼は[[1992年全米オープン (テニス)|1992年全米オープン]]で初めてのベスト8に勝ち上がったが、ここでは第3シードの[[ピート・サンプラス]]に 4-6, 1-6, 0-6 のストレートで完敗している。 |
ボルコフは10歳から[[テニス]]を始め、[[1986年]]に「ソビエト連邦選手権」(USSR National Championships)で準優勝したことがある。[[1987年]]の[[1987年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]で[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]にデビューした時、ボルコフは世界ランキング503位であったが、予選3試合を勝ち抜いた後、初めての本戦でいきなり[[アンダース・ヤリード]]との4回戦に進出した。翌[[1988年]]、ボルコフは[[オリンピックのソビエト連邦選手団|オリンピックのソ連代表選手]]として[[1988年ソウルオリンピックのテニス競技|1988年ソウル五輪]]出場を果たす。その後[[1991年]]に[[ソビエト連邦の崩壊]]が起こり、カリーニングラード生まれのボルコフは「[[ロシア]]」国籍の選手になった。彼は[[1992年全米オープン (テニス)|1992年全米オープン]]で初めてのベスト8に勝ち上がったが、ここでは第3シードの[[ピート・サンプラス]]に 4-6, 1-6, 0-6 のストレートで完敗している。 |
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[[1993年]]の[[1993年全米オープン (テニス)|全米オープン]]で、アレクサンドル・ボルコフは第14シードから勝ち進み、ロシア出身の男子テニス選手として史上初の全米4強進出を果たした。ボルコフは2年連続の進出となった準々決勝で、[[オーストリア]]の[[トーマス・ムスター]]を 7-6, 6-3, 3-6, 2-6, 7-5 のフルセットで破り、ロシア人選手としての初舞台に進んだが、準決勝でまたもや[[ピート・サンプラス]]に 4-6, 3-6, 2-6 のストレートで敗れ、決勝進出はならなかった。翌年の[[1994年全米オープン (テニス)|1994年全米オープン]]では1回戦で[[カレル・ノバチェク]]に敗れ、ボルコフは世界ランキングを大幅に落としてしまう。 |
[[1993年]]の[[1993年全米オープン (テニス)|全米オープン]]で、アレクサンドル・ボルコフは第14シードから勝ち進み、ロシア出身の男子テニス選手として史上初の全米4強進出を果たした。ボルコフは2年連続の進出となった準々決勝で、[[オーストリア]]の[[トーマス・ムスター]]を 7-6, 6-3, 3-6, 2-6, 7-5 のフルセットで破り、ロシア人選手としての初舞台に進んだが、準決勝でまたもや[[ピート・サンプラス]]に 4-6, 3-6, 2-6 のストレートで敗れ、決勝進出はならなかった。翌年の[[1994年全米オープン (テニス)|1994年全米オープン]]では1回戦で[[カレル・ノバチェク]]に敗れ、ボルコフは世界ランキングを大幅に落としてしまう。 |
2020年12月26日 (土) 00:04時点における版
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アレクサンドル・ボルコフ | ||||
基本情報 | ||||
フルネーム |
Alexander Vladimirovich Volkov | |||
国籍 | ロシア | |||
出身地 | 同・カリーニングラード | |||
生年月日 | 1967年3月3日 | |||
没年月日 | 2019年10月19日(52歳没) | |||
身長 | 187cm | |||
体重 | 79kg | |||
利き手 | 左 | |||
バックハンド | 両手打ち | |||
ツアー経歴 | ||||
デビュー年 | 1986年 | |||
引退年 | 1997年 | |||
ツアー通算 | 3勝 | |||
シングルス | 3勝 | |||
ダブルス | 0勝 | |||
生涯通算成績 | 338勝313敗 | |||
シングルス | 304勝256敗 | |||
ダブルス | 34勝57敗 | |||
生涯獲得賞金 | $3,362,786 | |||
4大大会最高成績・シングルス | ||||
全豪 | 4回戦(1994) | |||
全仏 | 3回戦(1990・92) | |||
全英 | 4回戦(1987・90・91・94) | |||
全米 | ベスト4(1993) | |||
4大大会最高成績・ダブルス | ||||
全英 | 2回戦(1988) | |||
全米 | 1回戦(1989) | |||
キャリア自己最高ランキング | ||||
シングルス | 14位(1993年8月23日) | |||
ダブルス | 136位(1989年10月9日) | |||
アレクサンドル・ボルコフ(Alexander Volkov, ロシア語: Алекса́ндр Влади́мирович Во́лков, 1967年3月3日 - 2019年10月19日 )は、ロシア・カリーニングラード出身の男子プロテニス選手。主に1990年代前半に活動し、1993年の全米オープンで男子シングルスのベスト4に入った選手である。シングルス自己最高ランキングは14位。ATPツアーでシングルス3勝を挙げたが、準優勝が8度あった。男子テニス国別対抗戦・デビスカップでも、ソビエト連邦時代から国の代表選手を務め、ソビエト連邦の崩壊後はロシア代表として活躍した。身長187cm、体重79kg。左利きの選手。
来歴
ボルコフは10歳からテニスを始め、1986年に「ソビエト連邦選手権」(USSR National Championships)で準優勝したことがある。1987年のウィンブルドンで4大大会にデビューした時、ボルコフは世界ランキング503位であったが、予選3試合を勝ち抜いた後、初めての本戦でいきなりアンダース・ヤリードとの4回戦に進出した。翌1988年、ボルコフはオリンピックのソ連代表選手として1988年ソウル五輪出場を果たす。その後1991年にソビエト連邦の崩壊が起こり、カリーニングラード生まれのボルコフは「ロシア」国籍の選手になった。彼は1992年全米オープンで初めてのベスト8に勝ち上がったが、ここでは第3シードのピート・サンプラスに 4-6, 1-6, 0-6 のストレートで完敗している。
1993年の全米オープンで、アレクサンドル・ボルコフは第14シードから勝ち進み、ロシア出身の男子テニス選手として史上初の全米4強進出を果たした。ボルコフは2年連続の進出となった準々決勝で、オーストリアのトーマス・ムスターを 7-6, 6-3, 3-6, 2-6, 7-5 のフルセットで破り、ロシア人選手としての初舞台に進んだが、準決勝でまたもやピート・サンプラスに 4-6, 3-6, 2-6 のストレートで敗れ、決勝進出はならなかった。翌年の1994年全米オープンでは1回戦でカレル・ノバチェクに敗れ、ボルコフは世界ランキングを大幅に落としてしまう。
ボルコフはキャリアを通じて、男子ツアーでシングルス3勝を挙げたが、8度の準優勝がある。最後の決勝進出は、1997年1月の中国・上海大会であった。彼の最後の男子ツアー大会出場は、同年にモスクワで開催された「クレムリン・カップ」で、シングルス・ダブルスとも1回戦敗退に終わった。現役最後の試合は1998年デビスカップの「ワールドグループ・プレーオフ」対日本戦(9月25日-27日、大阪・うつぼ公園で開催)であったが、ロシアが日本を「3勝1敗」で退けた後、ボルコフは勝敗決定後の最終第5試合で、本村剛一との試合を 3-6 (第1セット終了)のみで棄権している。
引退後は指導者として活動、マラト・サフィンのコーチを務めたこともある。
参考文献
- ATPツアー発行「プレーヤーズ・ガイド」1995年版 (ツアーの公式ガイドブック。サイト内の“Career Highlights/Bio”欄から伝記情報が消滅したため)
- ^ “Alexander Volkov: 1967-2019”. ATP. (2019年10月19日)
外部リンク
- アレクサンドル・ボルコフ - ATPツアーのプロフィール
- アレクサンドル・ボルコフ - デビスカップのプロフィール
- アレクサンドル・ボルコフ - 国際テニス連盟