「ミハイル・ショーロホフ」の版間の差分
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1969年以降は著作活動をほぼ休止し、ビョーシェンスカヤに住み続けた。ただ、1973年にはソ連共産党宣伝部の第一副部長だった[[アレクサンドル・ヤコブレフ]]が行ったロシアナショナリズム批判に対する強い反論者の一人となり、結果としてヤコブレフを駐カナダ大使へと左遷させることになった。 |
1969年以降は著作活動をほぼ休止し、ビョーシェンスカヤに住み続けた。ただ、1973年にはソ連共産党宣伝部の第一副部長だった[[アレクサンドル・ヤコブレフ]]が行ったロシアナショナリズム批判に対する強い反論者の一人となり、結果としてヤコブレフを駐カナダ大使へと左遷させることになった。 |
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そのヤコブレフが理論面で活躍することになる[[ペレストロイカ]]政策を行った[[ミハイル・ゴルバチョフ]]政権が登場する前年の1984年、咽頭がんにより死去。その年のうちに、ビョーシェンスカヤの町を含む地区名が「ビョーシェンスカヤ」から彼の名の「ショーロホフ」へと変えられ、[[ソ連崩壊]]でこの地域がロシア連邦となった後も使い続けられている。 |
そのヤコブレフが理論面で活躍することになる[[ペレストロイカ]]政策を行った[[ミハイル・ゴルバチョフ]]政権が登場する前年の1984年、咽頭がんにより死去。その年のうちに、ビョーシェンスカヤの町を含む地区名が「ビョーシェンスカヤ」から彼の名の「ショーロホフ」へと変えられ、[[ソビエト連邦の崩壊]]でこの地域がロシア連邦となった後も使い続けられている。 |
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==邦訳== |
==邦訳== |
2020年12月25日 (金) 23:51時点における版
Mikhail Aleksandrovich Sholokhov ミハイル・アレクサンドロヴィチ・ショーロホフ Михаил Александрович Шолохов | |
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誕生 |
Mikhail Aleksandrovich Sholokhov 1905年5月24日 ロシア帝国、ドン軍管州 |
死没 |
1984年2月21日 (78歳没) ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、ロストフ州 |
国籍 | ソビエト連邦 |
主な受賞歴 | ノーベル文学賞(1965) |
署名 | |
ウィキポータル 文学 |
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ミハイル・アレクサンドロヴィチ・ショーロホフ(ロシア語: Михаил Александрович Шолохов, ラテン文字転写: Mikhail Aleksandrovich Sholokhov, 1905年5月24日 (当時ロシアで用いられていたユリウス暦では5月11日)- 1984年2月21日)はロシアの小説家である。トルストイにつながるロシア文学の伝統を受け継ぎ、ソビエト文学を代表する作家としての地位を占めている。
生涯
南ロシア・ドン地方のドン川河畔のコサックの村、ビョーシェンスカヤの商人の家庭に生れ、15世紀から自治と自由を守り続けたコサック社会に、強い影響を受ける。中学に在学中、ロシア革命が起こり、赤衛軍に加わり、革命委員会の食糧調達係としてドン地方を転戦。その体験を文学作品として表現するために作家になろうと決意。モスクワに出て、石工や人夫などになって働くかたわら文学の勉強をし、1924年『ほくろ』で文壇にデビュー。その後、短編集『ドン物語』と『るり色の曠野』を刊行し、作家としての地位を確立。
1925年、帰郷後はほとんどドンの地を離れずに創作活動を続け、ロシア革命前後を背景にコサック社会の移り変わりを雄大なスケールで描いた代表作の4部大長編『静かなドン』(露: Тихий Дон)の執筆に専念(1925年~1940年)。描写が中立的なため、発表当時にソ連内で政治的曖昧さを指摘されたが、スターリン賞を受賞。世界的な名声を獲得した。同作はソビエト文学の最高傑作のひとつといわれる。また、この長編と並行して、農業集団化政策の実行過程で、さまざまな矛盾と困難をはらみつつ進行する1930年代の農村の改造を主題とした長編『開かれた処女地』(露: Поднятая целина)を書き、第1部を1932年に発表、第二次世界大戦中の中断を経て第2部は1960年に完結。ほかに長編『彼ら祖国のために戦えり』(未完)、戦争によって何もかも失った兵士の人生を描いた短編『人間の運命』(露: Судьба человека)や『子馬』などがある。
第二次世界大戦中は従軍作家として前線に行き、プラウダ紙などに多数のルポルタージュを発表していた。さらにナチスの残虐さを描いた短編『憎しみの科学』を発表する。1937年に最高会議代議員に選ばれ、1939年からソ連科学アカデミー会員。1941年には第1回スターリン賞(文学部門)を受け、1965年にはノーベル文学賞を受けた。ショーロホフはこれらの受賞で得た賞金を使って地元に学校を建て、1966年には日本訪問も行った。
1969年以降は著作活動をほぼ休止し、ビョーシェンスカヤに住み続けた。ただ、1973年にはソ連共産党宣伝部の第一副部長だったアレクサンドル・ヤコブレフが行ったロシアナショナリズム批判に対する強い反論者の一人となり、結果としてヤコブレフを駐カナダ大使へと左遷させることになった。
そのヤコブレフが理論面で活躍することになるペレストロイカ政策を行ったミハイル・ゴルバチョフ政権が登場する前年の1984年、咽頭がんにより死去。その年のうちに、ビョーシェンスカヤの町を含む地区名が「ビョーシェンスカヤ」から彼の名の「ショーロホフ」へと変えられ、ソビエト連邦の崩壊でこの地域がロシア連邦となった後も使い続けられている。
邦訳
- 静かなるドン 外村史郎訳 鉄塔書院, 1931
- ひらかれた処女地 上田進訳 ナウカ社, 1933-34
- 静かなドン 上田進訳 ナウカ社, 1935
- 開かれた処女地 米川正夫訳 三笠書房、1935 のち角川文庫
- 静かなるドン 樹下節,江川卓訳 角川文庫 1955-58
- 静かなドン 横田瑞穂訳 河出文庫, 1956 のち岩波文庫
- 開かれた処女地 樹下節訳 青木書店 1956
- 祖国のために 昇曙夢訳 角川文庫, 1956
- 静かなドン 原久一郎,原卓也訳 新潮文庫 1956
- ひらかれた処女地 横田瑞穂訳 岩波文庫 1957
- 人間の運命 米川正夫,漆原隆子訳 角川文庫 1960
- 開かれた処女地 原卓也訳 新潮文庫 1960
- 静かなドン 水野忠夫訳 中央公論社 新集 世界の文学, 1970
- でしゃばりっ子 宮川やすえ訳 旺文社 1970
- ひらかれた処女地 井上満訳 筑摩書房 1978
- ショーロホフ短編集 小野理子訳 光和堂 1981
外部リンク
- nobel-winners.com's article on Michail Sholokhov
- Mikhail Sholokhov - IMDb
- On-line Sholokhov texts (Russian)
- Politicians Praise Soviet-Era Writer Mikhail Sholokhov’s Contribution to World Literature
- Sholokhov Moscow State University for Humanities
- Stremya Tihogo Dona: Solzhenitsyn's accusations of plagiarism
- And Quiet Does not Flow the Don: Statistical Analysis of a Quarrel between Nobel Laureates
- 『祖国のために』(監督:セルゲイ・ボンダルチュク/1975年 ※2020年9月18日(金)〜10月8日(木)<セルゲイ・ボンダルチュク生誕100周年記念特集>で上映)
- 『人間の運命』(監督:セルゲイ・ボンダルチュク/1959年 ※2020年9月18日(金)〜10月8日(木)<セルゲイ・ボンダルチュク生誕100周年記念特集>で上映)
- ソビエト連邦の小説家
- 20世紀の小説家
- ソビエト連邦作家同盟の人物
- ノーベル文学賞受賞者
- ロシアのノーベル賞受賞者
- 社会主義労働英雄
- レーニン勲章受章者
- 十月革命勲章受章者
- 祖国戦争勲章受章者
- ソビエト連邦科学アカデミー正会員
- レーニン賞受賞者
- スターリン賞受賞者
- ゲオルギ・ディミトロフ勲章受章者
- スフバートル勲章受章者
- ソビエト連邦共産党中央委員会の人物
- 第1回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 第2回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 第3回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 第4回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 第6回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 第7回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 第8回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 第9回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 第10回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 盗作論争に関する人物
- ドン軍管州出身の人物
- 1905年生
- 1984年没