「チェーカー」の版間の差分
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[[ソビエト連邦|ソ連]]では、チェーカー勤務者や一般に国家保安機関に勤務する者のことを'''チェキスト'''({{lang|ru|чекист}} {{smaller|チキースト}}・非常委員)と呼んだ。[[西側諸国]]ではチェキストという名称は「[[反革命]]の血で汚れた人物」のことを指す侮蔑語として用いられた。また、チェーカーに限らず、チェーカーの系譜に繋がる[[ゲーペーウー|GPU]]や[[ソ連国家保安委員会|KGB]]の構成員もこう呼ばれた。 |
[[ソビエト連邦|ソ連]]では、チェーカー勤務者や一般に国家保安機関に勤務する者のことを'''チェキスト'''({{lang|ru|чекист}} {{smaller|チキースト}}・非常委員)と呼んだ。[[西側諸国]]ではチェキストという名称は「[[反革命]]の血で汚れた人物」のことを指す侮蔑語として用いられた。また、チェーカーに限らず、チェーカーの系譜に繋がる[[ゲーペーウー|GPU]]や[[ソ連国家保安委員会|KGB]]の構成員もこう呼ばれた。 |
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以上のような用法はソ連でも使われていたが、言葉の意味合いはかなり異なっていた。チェキストの呼び名は祖国を保衛する重責を担う人々への尊称とみなされており、チェーカーを設立したレーニンも「よきコミュニストはよきチェキストでもある」という言葉を残している。なお[[ソ連崩壊]]後の[[ロシア]]でも、ある情報関係者が自分たちを「チェーカーに属している者」と表現し、その場の少なからぬ関係者の同意を得るという一幕があった。 |
以上のような用法はソ連でも使われていたが、言葉の意味合いはかなり異なっていた。チェキストの呼び名は祖国を保衛する重責を担う人々への尊称とみなされており、チェーカーを設立したレーニンも「よきコミュニストはよきチェキストでもある」という言葉を残している。なお[[ソビエト連邦の崩壊]]後の[[ロシア]]でも、ある情報関係者が自分たちを「チェーカーに属している者」と表現し、その場の少なからぬ関係者の同意を得るという一幕があった。 |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
2020年12月25日 (金) 23:35時点における版
この記事のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。 (2019年10月) |
ヴェチェカー(ВЧК)) | |
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Всероссийская чрезвычайная комиссия Vserossiyskaya chrezvychaynaya komissiya | |
OGPU時代のマーク | |
組織の概要 | |
設立年月日 | 1917年12月20日 |
継承前組織 | |
解散年月日 | 1922年(再編成)[1] |
継承後組織 | |
種類 | 秘密警察 |
本部所在地 | モスクワ・ルビャンカ広場 |
監督大臣 | |
行政官 |
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上位組織 | 人民委員会議 |
チェーカーまたはチェカー(ロシア語: Чека, ラテン文字転写: Cheka[1]、英: Cheka, 独: Tscheka)は、ウラジーミル・レーニンによって十月革命直後の1917年12月20日に人民委員会議直属の機関として設立された秘密警察組織の通称である。
概要
ロシア語での正式名称は反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会(Всероссийская чрезвычайная комиссия по борьбе с контрреволюцией и саботажем)で、略称はヴェーチェーカー(ВЧК ヴェチェカー)となる。「チェーカー」と呼んだ場合にはこの名称から「全ロシア」が取れることとなる。その管轄がロシア共和国に留まらなかったことからこう呼ばれる場合もあるが、「ヴェー」抜きで呼んだ場合は「全ロシア非常委員会」の各都市の支部を指す可能性もあり、正式名称に沿って「ヴェーチェーカー」と呼ぶ事が好まれる。
ソ連では、チェーカー勤務者や一般に国家保安機関に勤務する者のことをチェキスト(чекист チキースト・非常委員)と呼んだ。西側諸国ではチェキストという名称は「反革命の血で汚れた人物」のことを指す侮蔑語として用いられた。また、チェーカーに限らず、チェーカーの系譜に繋がるGPUやKGBの構成員もこう呼ばれた。
以上のような用法はソ連でも使われていたが、言葉の意味合いはかなり異なっていた。チェキストの呼び名は祖国を保衛する重責を担う人々への尊称とみなされており、チェーカーを設立したレーニンも「よきコミュニストはよきチェキストでもある」という言葉を残している。なおソビエト連邦の崩壊後のロシアでも、ある情報関係者が自分たちを「チェーカーに属している者」と表現し、その場の少なからぬ関係者の同意を得るという一幕があった。
歴史
1917年の十月革命翌日以降、官僚によるゼネラル・ストライキが拡大した。これに対してボリシェヴィキは恐怖し、ストライキの拡大を食い止める必要に迫られた。12月に入ると、権力の混乱防止のためにボリシェヴィキは十月革命前夜に設立した軍事革命委員会の解体を決めた。いかにこの危機を乗り切るかが焦点となった。
レーニンはフランス革命時の革命裁判所検事であるアントワーヌ・フーキエ=タンヴィルのような人物が必要だと感じていた。12月2日に軍事革命委員会のトップだったフェリックス・ジェルジンスキーを「断固たるプロレタリア的ジャコバン」に指名し、12月6日に彼に反ゼネストのための特別委員会の設立を任せた。レーニンは「サボタージュと反革命と闘うための『例外的な手段』」を取るよう文書で指示した。そして12月20日、ジェルジンスキーは特別委員会設立の草案を人民委員会議に提出・承認を受けた。内容はメンバーの1人マルティン・ラーツィス(Martin Latsis)が1922年2月10日に『イズベスチヤ』で公開した。その内容は以下の通りである。
- 同委員会を反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会と命名し、ここにそれを承認する。委員会の任務は:
- 誰が引き起こそうとも、全ロシアのすべての反革命運動とサボタージュの企てと行動を監視し、これを撲滅すること。
- 全てのサボタージュ分子と反革命分子を革命裁判にかけ、またその撲滅対策を作成すること。
- 委員会は犯罪阻止に必要な限りの予備審理のみを行う。委員会は以下の三部に分かれる:
- 情報部
- 組織部(全ロシアの反革命分子撲滅闘争の組織のため)と支局部
- 取締部
- 委員会は明日正式に発足する。それまでは軍事革命委員会清算委員会が活動する。委員会は印刷物、サボタージュその他、右翼エスエル、サボタージュ参加者、ストライキ参加者に注意する。必要措置として、押収、強制立ち退き、食糧配給券の支給停止、人民の敵のリスト公表などが講じられる。
- 全露非常委員会参与会の議長とメンバーは、人民委員会議により任命される。
レーニンは1918年6月に一時期廃止された死刑を復活させた。
十月革命後に反ボリシェヴィキの西側諸国の干渉によるロシア内戦勃発後、チェーカーはレーニンにより、裁判所の決定なしに、即座に容疑者の逮捕、投獄、処刑などを行う権限を与えられた。これが粛清の引き金となる。1919年5月15日、労農国防会議の決定により、チェキストには赤軍兵士と同等の最上級の食糧配給券が支給されるようになった。粛清に反対していた左翼エスエル出身の司法人民委員イサーク・シテインベルク(Isaac Steinberg)はチェーカーを自身の監督下に置くよう要求したが、ジェルジンスキーはチェーカーの威信に傷がつくとして拒否し、チェーカーはあくまで党の監督下にあると主張した。
このように、チェキストに政治的な配慮がなされ、レーニンは常にチェーカーを擁護していた。チェーカーは建前上、あくまで党に所属するものとされていたが、実質的にはレーニン個人の直属であったといっても過言ではない。実際、レーニンがチェーカーに反革命に対する具体的な鎮圧方法や監禁・監視の詳細などを指示した文書が多数残されている。
活動
当初チェーカーは組織的体系も整っておらず人数も100人足らずの少数であったが、次第に組織も整備され人員も増やされてゆく。1918年4月11日から12日の深夜にかけてチェーカーはモスクワのアナーキストが立てこもる20軒の住居を襲撃し520人を拘束、25人を処刑した。これがチェーカーによる最初の計画的な行動とされている。
その後も、チェーカーは赤色テロの先鋒となった。ロシア皇帝ニコライ2世一家の殺害にはヤコフ・ユロフスキーら3人のチェキストが関与していたとされ、亡命できた者を除いてミハイル大公ら皇帝の親族や従者に至るまで全員が惨殺された。チェーカーにより帝政時代の富裕層は「人民の敵」「反革命分子」となり、貴族・地主・聖職者・軍人・コサック兵は証拠も無く無制限に逮捕され処刑されていった。民間人も対象となり、中には「外国人に道を教えた」という理由だけでスパイ活動を行ったとされ処刑される者もいた。さらに粛清はエスカレートし、チェーカーのメンバーの処刑まで行われるようになり、内部告発にまで至ることもあった。1921年3月、トルキスタン戦線のチェキストグループは中央委員会宛てでメンバーの処刑を非難するとともに、処刑の恐怖があるためにメンバーは人間ではなくなってロボットになってしまう、と報告している。
チェーカーの任務は、前述した以外にも、反革命勢力の地盤としてのロシア民族主義を根絶することにも向けられていたため、構成員は可能な限り、ロシア人以外の民族(特にポーランド人とユダヤ人)から補充するようにしていた。
内戦が終結した1922年2月8日、チェーカーはGPUと改名し、1934年にNKVDの一部局となる。スターリンの死後は1954年、再び独立してKGBとして存続する。KGBおよび共産圏の秘密警察はチェーカーを手本としており、残虐な尋問・拷問・処刑などの手法が受け継がれた。
脚注
- ^ a b c 木村英亮. “チェカー ちぇかー Чека Cheka ロシア語”. コトバンク. 日本大百科全書(ニッポニカ). 2019年10月12日閲覧。
関連項目
関連文献
- アレクサンドル・ソルジェニーツィン 『収容所群島』
- ブライアン・フリーマントル『KGB』 新潮社、1983年 ISBN 4-10-600246-9
- ドミトリー・ヴォルコゴーノフ『レーニンの秘密』上・下 白須英子訳、日本放送出版協会、1995年 ISBN 4-14-080238-3 / ISBN 4-14-080239-1