「東ベルリン」の版間の差分
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== 略史 == |
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2020年12月25日 (金) 23:31時点における版
東ベルリン Ost-Berlin |
← 1949年-1990年 → |
市旗(左)と市章(右) |
東ベルリンの行政区 |
ベルリンの占領区分 |
変遷 |
成立 : 1949年 |
ドイツ再統一 : 1990年10月3日 |
面積 : 409km² |
人口(1989年) : 1,279,212人 |
人口密度 : 3,127.7/km² |
東ベルリン(ひがしベルリン、ドイツ語: Ost-Berlin)は、1949年の東西ドイツ分裂から1990年の東西ドイツ統一まで、ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)の首都だった都市。第二次世界大戦の終戦後にソビエト連邦が占領したベルリン東部の地域で、ベルリン誕生以来の伝統的な都心部はほとんどが東ベルリンに属した。
概要
1961年8月13日から1989年11月9日まで、ベルリンの壁によって西ベルリンと分断されていて、東西冷戦の最前線だった。東ベルリンは、東ドイツの正式な首都であると同時にソ連の占領下でもあり、市内には赤軍(後にソ連軍)も駐留していた。東ドイツ側では、東ベルリンは単に「ベルリン」、又は「ドイツ民主共和国の首都、ベルリン」(Berlin Hauptstadt der DDR)と呼ばれていた。東ドイツで発行されていた東ベルリンの地図には西ベルリンは描かれておらず空白であった。ソ連軍はソビエト崩壊によりロシア軍に変わったが、東西ドイツ統一後もしばらく旧東ドイツ領内に駐留していた。
略史
- 1949年10月7日 - ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)が成立。
- 1953年6月17日 - 6月17日事件。
- 1961年8月13日 - ベルリンの壁の建設が始まる。
- 1989年11月9日 - ベルリンの壁崩壊。
- 1990年10月3日 - 東西ドイツ統一によって東ベルリンは正式に消滅。
行政区
東ベルリンは、以下の行政区によって構成されていた。
- フリードリヒスハイン (Friedrichshain)
- ヘラースドルフ (Hellersdorf)
- ホーエンシェーンハウゼン (Hohenschönhausen)
- ケーペニック (Köpenick)
- リヒテンベルク (Lichtenberg)
- マルツァーン (Marzahn)
- ミッテ (Mitte)
- パンコウ (Pankow)
- プレンツラウアー・ベルク (Prenzlauer Berg)
- トレプトウ (Treptow)
- ヴァイセンゼー (Weißensee)
歴代市長
- フリードリヒ・エーベルト (Friedrich Ebert (Sohn)) (1948年 – 1967年)ヴァイマル共和国初代大統領フリードリヒ・エーベルトの息子。
- ヘルベルト・フェヒナー (Herbert Fechner) (1967年 – 1974年)
- エアハルト・クラック (Erhard Krack) (1974年 – 1990年)
東ドイツ時代に建てられた主な建造物
- 共和国宮殿
- ベルリンテレビ塔
- キノ・インターナショナル
- カール・マルクス・アレー(旧名称:スターリン・アレー)
- アレクサンダー広場のウーラニアー世界時計
- 旧クルトゥアパーク・プレンターヴァルト - 東ベルリン市内のみならず東ドイツ国内において唯一建設・運営されていた常設型遊園地テーマパーク。1969年、(ナチス時代には世界首都ゲルマニア構想(ベルリン改造計画)によりドーム型集会ホール「フォルクス・ハレ(邦訳:国民会議場)」建設予定地にもなっていた)シュプレー川・ノルトハーフェン川がT字状に繋がる地点近隣(トレプトウ地区内)にて開園し、往時には年間170万人も集客していたが、1990年に旧西ドイツ実業家により民営化され、名称も「シュプレーパーク」に改名。1990年代後半には年間40万人まで集客が激減し、2001年に閉園(経営者はペルーに逃亡)。2011年5月下旬、ドイツ演劇団体「ヘッベル劇場」主催イベント「ルナパーク・ベルリン」の一貫として4日間期間限定で復活している。解説HP1、。解説HP2、。解説HP3
- フォルクスビューネ(人民劇場)
- ナーレパー通り放送会館 (DDRラジオ放送局)
- 国際貿易センター (ベルリン) - 日本の鹿島建設によって建設された高層ビル
東ベルリンの歴史的建造物・名所
ギャラリー
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ウンターデンリンデン(1985年8月)
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ブランデンブルク門、東ベルリン側より(1985年8月)
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東ベルリンの街並みとアパート群(1985年8月)
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ウンターデンリンデン(1985年8月)
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パラストホテル(1985年8月)
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アルキサンダー広場とTV塔待ち行列(1985年8月)
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カール・マルクス・アレー(2004年)
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カール・マルクス・アレー(1967年)
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カール・マルクス・アレーのスターリン様式のアパート(2006年)
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カール・マルクス・アレーの映画館「キーノ・インターナショナル」
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フォルクスビューネ(2008年)
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夜のカール・リープクネヒト通り(1975年)
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アレクサンダー広場と高層集合住宅(プラッテンバウ)(1976年)
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カール・リープクネヒト通りからアレクサンダー広場方向。中央の高架橋にはインターフルークの広告がある。(1983年)
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国際貿易センター
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ベルリン国立歌劇場(1979年)
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ドイツ社会主義統一党中央委員会本部(1967年)現在は、外務省の庁舎となっている。
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ノイエ・ヴァッヘで行われていた国家人民軍のフリードリヒ・エンゲルス衛兵連隊による衛兵交代式(1989年)
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ライトアップされた共和国宮殿と東ベルリンの夜景(1976年)
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巨大なレーニン像(1970年)
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東ベルリン地下鉄の車両(1989年)
外部リンク
- 共産主義時代を旅して-ソ連・東欧1985年夏
- 世界の街角から-海外旅行・出張と街歩きメモ
- アーバン・ダイアリー
- 東京外国語大学 公式サイト
- aisthesis index main - 山口裕之
- 宇都宮大学 国際学部 行政学(中村祐司)研究室
- あほるの欧州大好き!
- 東と西 < ドイツ統一から10年 >(PDF文書) - ウェイバックマシン(2016年3月4日アーカイブ分)
- ベルリン中央駅
- 地下鉄クロステル街駅
- 変貌するフリードリヒ・シュトラーセ駅周辺 - 壁建設の日に -
- アレクサンダー広場のいま - Sバーンのホームから -
- ベルリン・オストクロイツ駅
- プレンツラウアーベルクの"Malzcafe"
- 東ベルリン廃墟めぐり
- 1986年3月東ベルリンにて - ある日本人の回想 -
- カール・マルクス・アレーでビール三昧
- アレックスに巨大ショッピングセンター
- アレクサンダー広場の「駅ギャラリー」
- 輝きを取り戻した「赤の市庁舎」
- カール・マルクス通りを歩く (1) (2) (3)
- 大変貌するアレクサンダー広場 (1) (2) (3) (4) -Sバーンの車窓から-
- 東駅周辺のいま (2) (3)
- フリードリヒスハイン散策 (1) (2)-再びオスト・クロイツ駅へ-