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「ノート:共産主義/過去ログ1」の版間の差分

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== 南米における急進左派政権の社会主義国証明 ==
== 南米における急進左派政権の社会主義国証明 ==
ベネズエラやボリビアでは国有化が始まっており、社会主義といえるだろう。
ベネズエラやボリビアでは国有化が始まっており、社会主義といえるだろう。
ベネズエラは大統領の任期を増やし、与党独裁を達成した。ボリビアのモラレス氏も憲法改正をし独裁国家にしようとしている。{{unsigned|211.1.185.129}}
ベネズエラは大統領の任期を増やし、与党独裁を達成した。ボリビアのモラレス氏も憲法改正をし独裁国家にしようとしている。--<span class="autosigned" style="font-size: smaller">以上の[[Wikipedia:署名|署名]]の無いコメントは、[[利用者:211.1.185.129|211.1.185.129]]([[利用者‐会話:211.1.185.129|会話]]・[[Special:Contributions/211.1.185.129|投稿記録]])さんによるものです。</span>


>財産の国有化は魅力的な言葉だが、それ自体は方法に過ぎない。理想主義者の出した資本主義社会の究極の形。共産国の誕生は、「世界が同時に共産国にはならない。」と言う100年前の結論だ。{{unsigned|218.251.102.7}}
>財産の国有化は魅力的な言葉だが、それ自体は方法に過ぎない。理想主義者の出した資本主義社会の究極の形。共産国の誕生は、「世界が同時に共産国にはならない。」と言う100年前の結論だ。--<span class="autosigned" style="font-size: smaller">以上の[[Wikipedia:署名|署名]]の無いコメントは、[[利用者:218.251.102.7|218.251.102.7]]([[利用者‐会話:218.251.102.7|会話]]・[[Special:Contributions/218.251.102.7|投稿記録]])さんによるものです。</span>


世界が同時に共産国になっても無意味ではないでしょうか?
世界が同時に共産国になっても無意味ではないでしょうか?

2020年12月24日 (木) 09:27時点における最新版

>資本主義社会においてよく言われる私有財産の廃止でなく、社会的生産手段(工場、土地など)の私有の廃止がその核心であり、個人的な必要に使用される財産は逆に社会主義社会において再建されるとされる。

この部分ですけどまさしく北朝鮮において国家が生産手段を握った結果、国民の私有財産を後回しにしたという決定的な実例がありますね。生産手段ってのは言ってみれば砂漠の井戸、幾ら水は個人の物であるといっても水を配分する井戸さえ国家が抑えたら個人のものじゃなくなるわけだ。——以上の署名の無いコメントは、210.147.22.27ノート/Whois)さんが 2006年5月18日 (木) 03:31 (UTC) に投稿したものです。

 上のコメントで生産手段が共有化されたら、生産物も共有化されると言っているがこれはおかしい。 それは別のものであり、北朝鮮の例は政治制度が独裁で配分が独裁者の意思が大きく反映するという点を軽視している。経済制度としての共産主義の定義と実際に行われている経済政策は分けなければいけない。

>生産手段ってのは言ってみれば砂漠の井戸、幾ら水は個人の物であるといっても水を配分する井戸さえ国家が抑えたら個人のものじゃなくなるわけだ。

 この理屈は論理的ではない。あくまで水は配分された個人のものであるので私有財産と言える。 動産については私有財産制度はもちろんあるし、通貨もある以上私有財産制度は制限はされていても否定はされていない。相続税制度がソビエトでもあったというところにも同様の意味がある。 「北朝鮮」という個別例を一般例化する政治的に偏った見方ではないだろうか?——以上の署名の無いコメントは、124.97.248.90ノート/Whois)さんが 2011年10月31日 (月) 06:38 (UTC) に投稿したものです。

"共産主義国家の実態"の項が「~でるという摩訶不思議な大変危険な思想である。」など、著者の主観が入りすぎているように思うのですが如何でしょうか——以上の署名の無いコメントは、Shnノート履歴)さんが 2005年5月29日 (日) 14:59 (UTC) に投稿したものです。

極端に偏りがある内容だと感じます。そもそも、百科事典である以上中立的な見方で見なくてはいけません。 中立的にかけないのであれば、概要(説明)以外すべて削除するべきだと考えます。——以上の署名の無いコメントは、219.127.227.204ノート/Whois)さんが 2005年6月4日 (土) 05:06 (UTC) に投稿したものです。

明らかに中立的な内容ではなかったので、大幅に削除させていただきました。これから編集される方はできるだけ中立的なものにしましょう。——以上の署名の無いコメントは、219.127.227.204ノート/Whois)さんが 2005年6月4日 (土) 07:23 (UTC) に投稿したものです。

別に全て削除せずとも、中立的な内容に我々が書き直せばいいような気もしますが・・・まあ、前文はひどすぎたような気もするので削除が妥当でしょう。——以上の署名の無いコメントは、219.97.38.3ノート/Whois)さんが 2005年6月10日 (金) 05:24 (UTC) に投稿したものです。

「ML主義」というのはマルクス・レーニン主義の略として既に定着しているもので、毛沢東・林彪の略ではありません。かつて、ごく一部の者があるセクトの人間が毛沢東に傾倒していたことからMLは毛沢東・林彪だと揶揄するのに使っただけの話でしょう。——以上の署名の無いコメントは、210.147.66.4ノート/Whois)さんが 2006年2月11日 (土) 01:48 (UTC) に投稿したものです。

"日本が世界で唯一成功した共産主義国"というのは一種のレトリック的な表現で、実態も思想も共産主義とはかけ離れています。コメントアウトしておきました218.225.39.62 2006年3月11日 (土) 07:51 (UTC)

この加筆によって「共産主義の現在」というセクションが設けられましたが、一節まるごと「論評」もしくは(誰のものかわからない)「解釈」になっていないでしょうか? とりわけ「そのため逆に21世紀を迎えた今日こそ共産主義革命の好機だと主張する」という記述は、誰がそう主張したのか書いていないので、セクション自体の「評論」感を強めていると思うんですが....。--Iosif 2006年9月5日 (火) 01:03 (UTC)

「日本=共産主義国家」論の項は、少しですが中立性に難があるような気がします。——以上の署名の無いコメントは、211.1.193.179ノート/Whois)さんが 2007年3月15日 (木) 12:42 (UTC) に投稿したものです。

フリーソフトウェア運動と共産主義の部分

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既存の記述をこの項目に移動した上で大幅に加筆したのは自分ですが、その後書き換えられた部分で意味が大幅に曖昧なものとなり、180度ひっくり返されてしまっている部分さえあるのですが、このあたりの説明を求めたいです。

まず

>LinuxカーネルをGPL(GNUパブリックライセンス)のもとで公開したリーナス・トーバルズ(本人の両親が共産主義者であり、その影響があったことは認めている)などのコピーレフトによって構築され、事実上その根幹の多くをこれらフリーソフトウェアに依存するまでに至った現在のインターネットの性質や環境を、「共産主義(ドット・コミュニズム)である」と指摘するケースがある。

このコピーレフトの部分を自分は「成果」と書いていたのですが、現在のインターネットを構築するソフトウェアの多くが広義のフリーソフトウェア運動の成果にあることにはもはや疑いの余地はないものの、それらが一律にGNUやGNUパブリックライセンスというフリーソフトウェア運動の一部に過ぎないものの下にあるかのような現在の改変は、現実に即していない(フリーソフトの全てがGPLを採用しているわけではない。これらをコピーレフトと形容することは明確に誤りである)と指摘せざるを得ません。
またこれら広義のフリーソフト運動をドット・コミュニズムと指摘する文脈は、言い換えれば共産主義の対極といえる資本主義の支持者が一方的に揶揄する文脈で用いるレッテルであり、こういった背景(特定のイデオロギーの支持者が論敵を一方的に揶揄しているに過ぎない)を説明せずに彼らの主張を代弁することは、公平性を欠き百科事典としても望ましいものとは言えません。また

>このような、指摘が出現した背景としては、フリーソフトウェア運動側に肯定する人々がかなりいることが原因とされる。

自分の記述がここでも中途半端に改変されてこれらの文脈を補強する形にされてしまっていますが、フリーソフトウェア運動の参加者や支持者に共産主義者が「かなりいる」とミスリードを誘うような記述も典型的なFUDに過ぎず、そもそも政治運動とはかけ離れた広義のフリーソフトウェア運動に対して共産主義のレッテルを貼ることは妥当ではなく穏当を欠くといった記述も全て削除されてしまっています。そもそも「かなりいる」とする根拠が提示されておらず、また「かなり」という曖昧な記述も妥当とは言えません。

>その理念の根幹は「free(このfreeは、無料ではなく自由という意味)」であり、ひとえに「ソフトウェアの配布と使用の自由」を永続的に守るために厳格なライセンスの適用と履行を行うことにあるとされるが、これで共産主義ではないとするには共産主義の位置付けからして無理であり、資本論の第3巻の存在への無理解からマルクス主義者側が反応しつつある。

この段落も、後半が改変され全く意味不明なものとなっています。

>ブラジルでは、「共産主義」と公然に主張する共有ソフトが流通している

これなどは典型的なFUDであり、共産主義を標榜する人々が作成したソフトウェアを流通させる際にフリーソフトウェアであることを保証するライセンスを採用することをもって採用されたライセンスが共産主義であるとするには飛躍が大きすぎます。共産主義者がほんの僅かなフリーソフトウェアを供給することを針小棒大に問題視するのであれば、大資本が参画し大量のコードをもってフリーソフトに貢献しているという現実は問題視しないのでしょうか?

>「コピーレフトのレフトは左翼だ」など、この種の意見も現実味を帯びつつある。

私が少なくない文章量を費やして記述した「フリーソフト運動の理念や個々のライセンスの具体的な条件などについて正しく理解しておらず、またその気もない人々によって興味本位に中途半端にその一部のみが取り上げられ的外れな批判にさらされている」といった論旨を全て削除し、代わりに削除された部分に書かれていた通りのものが書かれてしまうあたり、もはや確信犯と見なして良いということでしょうか。

>なお、日本の肯定派にはストールマンの初来日講演で司会を務めている池田信夫や山形浩生などがいる。

彼らが共産主義者であったとは初耳です。根拠があれば是非提示していただきたいところです。

上記引用部の改編者には上記の説明を全て滞りなく済ませてから本文の記述にあたることを要求します。また現在の度し難い記述はリバートしておきます。210.149.190.143 2006年9月27日 (水) 01:11 (UTC)


南米における急進左派政権の社会主義国証明

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ベネズエラやボリビアでは国有化が始まっており、社会主義といえるだろう。 ベネズエラは大統領の任期を増やし、与党独裁を達成した。ボリビアのモラレス氏も憲法改正をし独裁国家にしようとしている。--以上の署名の無いコメントは、211.1.185.129会話投稿記録)さんによるものです。

>財産の国有化は魅力的な言葉だが、それ自体は方法に過ぎない。理想主義者の出した資本主義社会の究極の形。共産国の誕生は、「世界が同時に共産国にはならない。」と言う100年前の結論だ。--以上の署名の無いコメントは、218.251.102.7会話投稿記録)さんによるものです。

世界が同時に共産国になっても無意味ではないでしょうか? 国家もまた所有の一プレーヤーに過ぎず、必ずしも信頼できるものではないと思います。 複雑化した社会に置いてはその運営に無数の知恵と工夫が必要であり、一部指導者に知恵を集中し他の意見を採用しないというあきらかな非効率は、共産主義に特有のものである。 人口のぶんだけ社会は複雑になるのに、それに対して小さな中央で対処するというのは全く計算が合わない。 また拒否権を他のプレーヤーから奪い取る国有化は独裁化への一本道といわざる終えない。 奪い取る権利に何の正当性もないのである。 一律に搾取するために資産を上手に使える人の元に資産をもたらすということが行われなくなる。 また運営に失敗した時の責任を取らなくてもすむという大問題もある。 文献から浮かび上がる最低限成功してる、しそうな共産主義は。 「外との交流が確保され、他との比較が自由に出来ること。 そのために風通しの良い小規模に抑える。 気に入らなければ脱退する自由があり共産的運営を捨てる投票を簡単に行える。 文化によって運営方法が全く変わるので一律にはしない。 極めて血族主義や家族主義と相性が良いのでその単位で行うとスムーズに行く。 個別の契約によって資産の運用を委託。」 ってこれじゃあ資本主義と変わらないですね。 ここで考えた内容に反しているのは、悪用しやすい共産的手法を悪用する搾取カルト教団です。 血族主義の家族主義の互助組織を共産主義とみなすのは間違っているかも、財閥とか華僑とかなんか全然違いそうだし。 結局組織運用のバリエーションと分類のグラデーションを考えたら線引きなんてできないような気もします。——以上の署名の無いコメントは、125.194.170.29ノート/Whois)さんが 2007年9月6日 (木) 11:21 (UTC) に投稿したものです。

再構成しました

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とくに思想にかかわる記述を中心に大きく修正しました。初歩的な間違いが多かったためです。章立ても変えました。理由も書かずに元に戻そうとする人がいますが、具体的な点を指摘してくれないと改善できません。--Kazhik 2007年2月19日 (月) 14:20 (UTC)

学術的な見方をも抹消するのは論外です。初歩的云々よりも過大な修正です。あなた一人の個人的見解だけでここまで変えるのはいかがかと。--219.108.14.30 2007年2月20日 (火) 15:30 (UTC)

ですから、具体的な箇所を指摘してくれと言っているのです。--Kazhik 2007年2月20日 (火) 21:27 (UTC)

あまりにも多岐に渡っているんですが、まずは「共産主義とは財産の共有を目指す思想」と要約してしまっていいのかどうか説明をお願いします。--Powership 2007年2月22日 (木) 04:03 (UTC)
私の修正前には生産手段の社会的所有や「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という原則によって共産主義が説明されていました。これはマルクスやエンゲルスの共産主義論の説明です。それ以外の共産主義思想を考慮するならもっと曖昧に「財産の共有」と言っておくのが適切だと思います。ついでに言えば、マルクスやエンゲルス以前にも社会主義と共産主義の区別がなかったかのような記述は誤解を招くものですし、レーニンの「共産主義とはソビエト権力プラス電化だ」という言葉を当時のソ連の状況から切り離して引用するのもおかしいので、削除しました。--Kazhik 2007年2月22日 (木) 12:57 (UTC)
それなら「マルクス・エンゲルスによる共産主義」とそれ以外を分けて説明すれば済むことだと思います。また、マルクスの説明が「財産の共有を目指す思想」に当てはまらないのであれば、マルクスによる説明はこの「要約」から除外されることを説明しておかなければ虚偽の記述になると思いますが。 -- NiKe 2007年2月26日 (月) 06:28 (UTC)
マルクスとエンゲルスの共産主義も「財産の共有を目指す思想」と言って間違いないと思います。彼らの場合、「財産」が狭く厳密に生産手段と規定されているということです。彼ら以外の共産主義思想については、私の修正では完全に抜けています。修正前の記述は間違っていたので削除しましたが、改めて記述すべきなのは確かです。--Kazhik 2007年2月26日 (月) 12:54 (UTC)

人物の項についてですが、ナセルは外すべきではないですか?——以上の署名の無いコメントは、58.88.124.218ノート/Whois)さんが 2007年3月21日 (水) 05:59 (UTC) に投稿したものです。

共産党宣言は誰のもの?

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今日(2007/04/06)の編集で、「共産党宣言」はマルクスとエンゲルスの共著ではなく共産主義者同盟の綱領的文書だ、という趣旨の加筆がなされました。間違っているとは言えませんが、説明としてわかりにくくなってしまったように思います。「共産党宣言」はマルクスとエンゲルスが共産主義者同盟の綱領的文書として書いたものです。その後彼らが「共産党宣言」に盛りこまれた原則を否定したことはありません(1872年ドイツ語版序文を参照)。--Kazhik 2007年4月6日 (金) 12:31 (UTC)

共産党宣言の成立史に関する記述が非常に詳しくなりましたが、共産主義の項としては細かすぎるので削除しました。共産党宣言の項に移したほうがよいと思います。--Kazhik 2007年4月18日 (水) 12:43 (UTC)

まことのその通りだと想います。しかしながら『共産党宣言』そのものがマルクスとエンゲルスの純粋な著作と呼べないことは、現在国際マルクス=エンゲルス財団によって刊行中の、新MEGA(Zweite Marx-Engels-Gesamtausgabe)編集に携わる研究者でのほぼ一致した見解ですし、『共産党宣言』のみを基にしてマルクスとエンゲルスの“共産主義”を語ることは2007年の現在ではほとんど意味をなしません。そのため『共産党宣言』の文献学的考証、新MEGAの編集作業を議論の前提に考えずに、『共産党宣言』という綱領文書のみから、マルクスの“共産主義”を考えることは現代では不可能でありますし、また『宣言』の文献考証を経た上での記述でなければ客観的とは言い難いのではないでしょうか。したがって、ここでの記述には一定の評価の留保をつけることが学術的には誠実な態度であると思います。 なおよろしければKazhikさんの『宣言』の草稿の文献学的考証に対する態度を示していただき、現在の新MEGAの編集状況とあわせ、どのように考えるかを明示していただければ幸いです。なお新MEGAの編集状況とそれに対する評価を明示せずに、『宣言』を一つの著作のように扱い、そこからマルクスとエンゲルスの共産主義を論ずることは2007年の現在、文献学的考証に耐える客観的な記述とは言えないでしょう。マルクスの全集が未だに完成していないという現実において、完成されたマルクスの思想があるとするのは、若干学問的な誠実な態度に欠けるのはないでしょうか。新MEGA編集作業の過程と、草稿の文献学的考証が今後の課題であるとするのが、現時点での妥当な判断であると思います。我々は未だにマルクスの文献学的に正しく考証された全集を誰も見てないというのが現実であります。 2007年4月19日 1:12——以上の署名の無いコメントは、219.161.238.105ノート/Whois)さんが 2007年4月18日 (水) 17:05 (UTC) に投稿したものです。

「共産党宣言」はマルクス・エンゲルスによって書かれたもので、その後彼らが「共産党宣言」に盛りこまれた原則を否定したことはない、という点はあなたも認めますよね? そうであるかぎり、「共産党宣言」によって彼らの共産主義論を説明するのは間違いではないでしょう。マルクスとエンゲルスは「共産党宣言」の序文を何度も書いていて、この著作を彼ら自身のものとして扱っています。それと、「共産党宣言」に関する詳しい成立史に関しては、この項に注をつけるより共産党宣言の項の参照を求めたほうがよいと思います。--Kazhik 2007年4月18日 (水) 21:35 (UTC)

基本的に返答のコメントの中には新MEGAの文献考証に関する記述は見られませんでした。的場昭弘氏、またリュドミラ・ヴァシーナ女史、テレル・カーヴァー氏などの研究や編集作業についてどのような見解を持っているのか、また石塚正英氏や、大村泉氏や大藪龍介氏の研究もどのように思っているのかもコメントを読む限りでは私は申し訳ないのですが、わかりませんでした。基礎的な文献考証が明記されず、1次文献の厳密な初稿の確定手続きを踏まずに、現在の段階で客観的な結論を出すことはできないというのが私の立場です。共産党宣言には明らかにマルクス、エンゲルス以外の思想が混入されています。それに対しての厳密な考証を抜きにして、宣言のみでマルクス、エンゲルスの共産主義を語ることはできません。できるとすればきちんと的場昭弘氏、篠原敏昭氏、また石塚正英氏の論考を検証し、Kazhikさんなりの反駁と検証を行わなければ、確かな客観性を持ち得ないと個人的には思います。Kazhikさんの中での厳密な資料分析、1次文献の精査とUrtextの確定等がされ、それが学術的な検討が耐えれば問題はないでしょう。 ただここで、Kazhikさんは、私の文章提供がこの箇所に相応しいと考えてはおられないと推察します。そのようなわけで、私は今後自分の持つ知識を提供することを致しません。不快な思いをさせてしまったとしたら申し訳ありません。Kazhikさんの立場で思うことをどうぞ書かれてくださいませ。私は自分の思索に返ろうと思います。いろいろご指摘ありがとうございました。——以上の署名の無いコメントは、219.161.238.105ノート/Whois)さんが 2007年4月19日 (木) 04:50 (UTC) に投稿したものです。


Kazhikさんの返答がないようなので、続けてノート記入することをお許しください。“マルクスとエンゲルスの共産主義”を語る前提として、共産党宣言(共産主義者宣言)の文献学的考証、および成立史的研究は必須と思われます。いちおう共産党宣言の項目を拡充して書いておきましたので、参考になるようでしたらお読みください。またこちらの“共産主義”の項目中、私の方で書き加えた部分で成立史的または客観的記述に問題がある部分はKazhikさんの方でご自由に訂正くださって結構です。 また共産党宣言の成立の経緯からして、以下の項目の参照が必要になると思い、新たに拡充し、存在しなかった項目については私の方で新たに作成しました。良かったらご覧ください。

——以上の署名の無いコメントは、219.161.238.105ノート/Whois)さんが 2007年4月20日 (金) 00:45 (UTC) に投稿したものです。

Wikipediaはあなたのものでも私のものでもありません。私個人に対して文献考証を要求するのは筋違いです。私は新MEGAにも共産党宣言の成立史にもほとんど関心がなく、それらが「マルクスとエンゲルスの共産主義」を理解する上で決定的に重要だとも考えていません。あれを読めこれを読め、新MEGAの完結を待て、などと逃げ回るのではなく、私の疑問(マルクスやエンゲルスが共産党宣言の原則を否定したのか?)に答えてくれませんか。--Kazhik 2007年4月20日 (金) 10:46 (UTC)


文献考証がされずにマルクスに何かを語ることができるというのは学問的に誠実な態度とは言えません。あくまで客観的な記述を記載するのであれば、現在のマルクス学の研究成果を真摯に希求し、その上で初稿の確定をすべきなのではないでしょうか。それができないのであれば学問的にこれを記述する資格はないでしょう。誰もマルクスと会ったこともないのですから、真摯に歴史学的な再構成をまず読み、そこに批判をするのであればきちんとその議論を前提として議論をすべきであると思います。知らないことについては「知らない」と名言されるのであれば、その点については真摯に認めていただいたほうがよいかと思います。 それからマルクス『共産党宣言』の論点を否定したのかそうでないのかという質問がありますが、問題はまさにそこでして、共産党宣言の原則のどこがマルクスの思想であるのかをきちんと把握する必要があるんです。実際に宣言の中にはシュタインの文章のほぼ丸ごと引用の一文も含まれていますし、カール・シャッパーも校閲をしたうえで出版をしています。また当時の秘密結社・共産主義者同盟ではマルクスは主導的な役割を果たしてはいません。それにも関わらず、マルクスの著作としてこれを扱うのは現代で問題があるとされているのが、21世紀現在のマルクス学の常識であります。したがってこれをきちんと摂取したうえで、批判をしなければKazhikさんの論拠は客観性を持ち得ません。 まず新MEGAの進行状況についてご存知ないのであれば、現在のマルクス学の状況を把握していないということですので、客観性を持つことはできません。その前提でマルクスを語ることができるという自覚があるとすれば、それは真摯な学問的態度とは言えないと思います。まず的場昭弘氏、大村泉氏、またオランダ、アムステルダム現代史文書保管国際センター等の結論をまず学問的に否定するところから議論を始めなければならないでしょう。それが文献考証という作業なのであり、主観的な思い入れを一切排してあくまで学問的に追及する真摯な姿勢であると思います。新MEGAについて知らないということは、マルクスを学問的に研究・調査をしていないということとほぼ同義です。 とはいえ、私は先の書き込みで、この項目に対する書き込みの権利を自ら放棄し、Kazhikさんに裁定を委ねています。Kazhikさんがどのような論拠において草稿研究の前提を覆すことができるのかわかりませんけど、それについてはあえてゆだねようと思います。どちらが学問的に誠実な態度であるかは今後、これを読む読者が判断すべき問題であると考えます。——以上の署名の無いコメントは、219.161.238.105ノート/Whois)さんが 2007年4月20日 (金) 16:03 (UTC) に投稿したものです。


また別の角度から語れば、例えば『宣言』の中のマルクス思想の再検討という作業をしている研究者で篠原敏昭氏の論考があります(もちろんKazhikさんも読んでいらっしゃると思いますが)。この中で篠原氏はマルクスの「私的所有」概念と、『宣言』に見られる「個人的所有」概念が違う概念であるとして、『宣言』に盛り込まれた「個人的所有概念」を再検討することで『宣言』という著作に込められたマルクスの意図を浮き彫りにし、『宣言』をマルクス読解の非常に重要な著作として再評価しています。 『宣言』を“マルクスの著作”として評価し、論評し、一定の客観性ある文章を執筆するためには、篠原氏のように学術的な研究前提をきちんと踏まえた上で、どの部分にマルクスの思想を読み込むのかということが重要な案件になります。 ですからそれを前提とすることもできますよね。 Kazhikさんが『宣言』の中にマルクスの思想を読み取り、それを客観的に叙述するのは全く自由です。ただしそれは学問的な現代までのマルクス研究の堆積を大前提にしなければ、どんな論考もミッシェル・フーコーの言う意味での“ドクサ”に堕してしまいますよね。

客観的な叙述ということは、非常に重要なことです。私自身は石塚正英氏の研究、テレル・カーヴァーの研究を前提とし、また服部文男氏の論考なども参照しながら、それでもなお2000年の『新マルクス学事典』(弘文堂)の項目の前提を客観的に書くようにつとめました。その前提において「『宣言』はマルクスの著作とも、エンゲルスの著作とも言うことはできない」という結論が学会において出されていると判断せざるを得ませんでした(個人的には反論したい気持ちもあるのですけどね・笑)。ですからその前提をきちんと検証し、学術的に見て公平な叙述ができればそれで良いのだと思うんです。私が「今後執筆をしない」と上に書いた理由は一つにはKazhikさんの心情を害してしまった可能性もあると考えたからですが、もう一つには自分の持っている文献で検証可能なことはだいたい書いてしまったというところにもあるわけです。——以上の署名の無いコメントは、219.161.238.105ノート/Whois)さんが 2007年4月22日 (日) 23:52 (UTC) に投稿したものです。

日本人研究者だけをあげるならば向坂逸郎、大内兵衛、田中吉六、古在由重、杉原四郎、望月清司、平田清明、宇野弘藏、廣松渉、花崎皋平、鈴木亨、竹内良知、良知力、梅本克己、田畑稔、山之内靖、今村仁司、佐藤金三郎、小林昌人、篠原敏昭、柴田隆行、的場明弘、石塚正英、田中ひかる、植村邦彦、大藪龍介、岡本充弘などの諸論考は必読ですよね。それらの文献もちゃんと読みましたし、また置塩信雄、森嶋通夫、大村泉、大谷禎之介、村上俊介、伊藤誠なども読んでいますけど、まだまだ私自身の学術的な検証作業及び基礎知識が不足していることは自覚をしているつもりです。 「本格的なマルクス研究がいまやっとはじまった」と杉原四郎氏が述べたのは1999年のことですが、そこから現在までなおマルクスの読解は端緒についたばかりです。マルクス研究の最新動向をきちんと捉えるためにも、新MEGA編集に携わる研究者たちの論述はある程度客観的な普遍妥当性を有していますし、それに対し反論するためには、それらの研究の諸前提を知った上で反証しなければ、やはり反駁そのものも一定の普遍妥当性を持ち得ないと思います。

上記の文章に対し、しばらくしてからもKazhikさんのご意見やご高見がこのノートに見られない場合には、原則として私は私自身の叙述の前提に対する文献的な反証と調査の作業がKazhikさん自身に不充分であると自らお認めになったと判断致します。学問的に自身の研究作業が未完成で不充分であることを認めることは学問的に誠実な態度であると考えますので、できればKazhikさんご自身が21世紀現在のマルクス学に関する研究・文献精査の作業が不充分であることをここでお認めになられることを期待します。もちろん私自身もまた、新MEGA研究の過程である学問的堆積を覆せるほどの研究・調査が不充分であることは認めます。未だ私もなおマルクス学の研究調査過程の途上にあると言えるでしょう。個人的に関心があるのは、Kazhikさんがどのような学問的堆積を持ち、どのような論述・研究を自身の論の前提にしているのかという部分ですので、それをご教示いただければ幸いです。 2007年4月23日(月)17:50 ——以上の署名の無いコメントは、219.161.238.105ノート/Whois)さんが 2007年4月23日 (月) 08:52 (UTC) に投稿したものです。


2007年5月25日現在においてKazhikさんの学問的立論の論拠が提示されていませんが、学問的にどのような立論の根拠で「共産党宣言がマルクスの著作である」と考えているのか、その1次・2次文献の考証と典拠を示していただきたいと思います。学問的に客観的な批判で、一定の普遍妥当性を持ちうるものならば真摯に受け止めたいと思っております。典拠を示し、学問的に実のある議論をしたいと切に願っております。もちろん邦語文献のみに限らずMEW、旧MEGA等の研究、海外の諸研究でも構いません。典拠及び文献考証は学術的研究の基礎となるものですので、それを示して学術的にどのような立場をとるのかを教えてください。真摯に検討して客観的な叙述を心がけるべきだと考えます。——以上の署名の無いコメントは、219.161.86.26ノート/Whois)さんが 2007年5月17日 (木) 02:39 (UTC) に投稿したものです。

「日本=共産主義国家」論について

[編集]

日本は世界で唯一成功した社会主義国家、という説についてのセクションはまるごと削除したほうがよさそうです。三つの段落のうち二つに「要出典」が付き、百科事典の記述として残す意味がほとんどなくなりました。もともと荒唐無稽な俗説なので、なくてもいいと思います。--Kazhik 2007年4月23日 (月) 11:40 (UTC)

一ヶ月以上待っても異論が出なかったので削除しました。--Kazhik 2007年5月25日 (金) 13:53 (UTC)
「世界で唯一成功した社会主義国家」ってゴルバチョフが言ったことだっけ?--経済準学士 2007年5月25日 (金) 15:07 (UTC)
ゴルバチョフが言ったことがあるとしても、彼が最初ではないでしょうね。私が削除した部分を最初に書いた人は、日本の誰かの説に依拠したはずです。--Kazhik 2007年5月27日 (日) 00:05 (UTC)
この(噴飯ものの)表現はゴルバチョフが第一書記になる前からありました。それを踏襲してゴルバチョフが発言したとしたらまったく悲しいことです(これは単なる感想です)。--Boomy 2008年4月25日 (金) 23:27 (UTC)

もっと古い歴史

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歴史を紐解けば偶々共産主義と似たようなシステムや思想、面々と続いているシステムもあるようですが。 18世紀以前から存在する、または存続している共産主義的システムの側面はかける人いませんかね? 19世紀生まれの共産主義は現状失敗しましたがもっと古いのもあるようですし。——以上の署名の無いコメントは、125.194.170.29ノート/Whois)さんが 2007年9月6日 (木) 10:56 (UTC) に投稿したものです。

 『ゴータ綱領批判』における「共産主義二段階論」について

 「マルクス、エンゲルスの共産主義論」において、「マルクスは『ゴータ綱領批判』の中で共産主義社会を低い段階と高い段階に区別し、低い段階では「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」、高い段階では「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という基準が実現するという見解を述べた。」とされています。

 『ゴータ綱領批判』は「ブラッケあての添え書と綱領草案の批判と ー は、一八七五年、ゴータ合同大会の少しまえに、ガイプ、アウアー、ベーベル、リープクネヒトに見せたうえ送りかえすように、と言ってマルクスがブラッケに送ったものである。ハレの党大会がゴータ綱領の審議を党の議題にした以上、この審議に関係のあるこの重要なーおそらく最も重要なー文書を私がこれ以上公表せずにおいたら、一種の横領罪をおかすことになるだろう。」「一八九一年一月六日」「Fr・エンゲルス」(序文 国民文庫10ページ『ディ・ノイエ・ツァイト』第九年次、第一巻、第一八号)  以上のように記されているように、マルクスがゴータ綱領草案について非公式の見解を述べたものです。そして、この見解が公表されるまで、15年の歳月を要しています。

 『ゴータ綱領批判』において問題にされているのは、「いわゆる分配のことで大さわぎをしてそれに主要な力点をおいたのは、全体として誤りであった。」(『ゴータ綱領草案批判』同28ページ)ということであり、「ラサールの影響で、綱領は偏狭にも『分配』だけしか眼中においていない」(同24ページ)ことにマルクスの批判の眼目がおかれています。

 マルクスは具体的には「ここで問題にしているのは、それ(生産手段の共有を土台とする協同組合的社会)自身の土台の上に発展した共産主義社会ではなくて、反対にいまようやく資本主義から生まれたばかりの共産主義社会である。したがって、この共産主義社会は、あらゆる点で、~旧社会の母斑をまだおびている。」と述べています。ここでマルクスは共産主義の「低い段階」とは明らかに述べておらず、資本主義から脱け出た段階の社会の特徴について述べているわけです。そして、「共産主義のより高度の段階で、すなわち諸個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、それとともに精神労働と肉体労働の対立がなくなったのち、~そのときはじめてブルジョア的権利の狭い視界を完全に踏みこえることができ、社会はその旗の上にこう書くことができるー各人はその能力におうじて、各人はその必要におうじて!」(同28ページ)

 このように『ゴータ綱領批判』におけるマルクスの具体的な記述を検証してみるならば、マルクスが述べた真意は分配問題に関するラサール派の見解にたいする批判であり、共産主義社会を二段階あるいは「低い段階」「高い段階」と定式化したものではないということがわかると思います。そしてマルクスがこのような見解を述べたのは『ゴータ綱領批判』の他には見受けられません。——以上の署名の無いコメントは、218.133.155.119ノート/Whois)さんが 2007年10月14日 (日) 11:28 (UTC) に投稿したものです。

 したがって、共産主義社会論について『ゴータ綱領批判』におけるマルクスが「共産主義社会を低い段階と高い段階に区別し」たという記述は事実と異なり、適切な記述ではないといえます。                                                 2007年10月14日 荊冠旗——以上の署名の無いコメントは、218.133.155.119ノート/Whois)さんが 2007年10月14日 (日) 11:39 (UTC) に投稿したものです。

『ゴータ綱領批判』はマルクス自身が発表した文書ではない、というのはご指摘の通りです。そこに書かれた見解はマルクス自身が世に問うた見解ではありませんから、無視してもいいものです。しかし、レーニンをはじめ様々な論者がこの文書に言及していますので、今となっては全く無視することもできません。
二段階論という整理は適切ではない、というご指摘に対しては、あなた自身が引用したマルクスの文章が回答になっています。マルクスは「それ自身の土台の上に発展した共産主義社会」と「いまようやく資本主義から生まれたばかりの共産主義社会」を区別しています。--Kazhik 2007年10月15日 (月) 12:54 (UTC)

「共産主義に対する批判」という節について

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ロッテルダムの旅人さんにより、「理論的批判」という節が「共産主義に対する批判」という名前に修正され、以下の二つの段落が追加されました。

「イギリスの経済学者・ジョン・メイナード・ケインズは、有効需要の概念を説き、減税や財政出動による公共事業などの実施によって失業問題を解決し、資本主義を危機に陥れるような大恐慌を克服することが可能であると主張した。(ケインズ革命)」

「イギリスの政治家・ウィンストン・チャーチルは「20歳までに共産主義に傾倒しない者は情熱が足りない。 20歳を過ぎて共産主義に傾倒している者は知能が足りない」と指摘している。」

ケインズのほうはどこが共産主義に対する批判なのか分かりませんし、チャーチルのほうは理論的な中身がありません。このレベルの言葉を追加していたら節の内容が際限なく増えてしまいます。

そもそも共産主義に対する批判的な見解ばかりが歴史的な文脈を無視して紹介されていることもおかしいのですが、ロッテルダムの旅人さんの編集はその傾向に拍車をかけるものです。私が「雑多な内容を箇条書きした節を避けるというWikipediaの方針に反しています」と理由を示して削除したら、「雑多だと思うのなら、あなたが一連の文脈になるようにまとめては?」と言って復活させました。このような無責任な居直りはWikipediaにふさわしくないものです。

まずは上記の二つの段落を削除した上で、あらためて節の内容について議論すべきかと思います。--Kazhik 2008年4月25日 (金) 13:11 (UTC)

ケインズは探せば理論的批判がありそうですね。しかし著作では見つからないかもしれません。チャーチルは問題外で、「理論的批判」と「その他の共産主義批判」に分けたうえで後者に分類してはどうでしょう。--Boomy 2008年4月25日 (金) 23:21 (UTC)
雑多というよりも、単純にひとつの節としては情報量が多すぎるのでしょう。削除するよりも、「マルクス主義批判」という別の項を作って独立させたほうがいいのではないでしょうか?マルクス主義批判は多様で膨大なのですから、そちらのほうがまとめやすいでしょう。--ブラックモンブランアント 2008年4月28日 (月) 02:15 (UTC)
せっかく書き加えられた情報をただ削除するのはWikipediaの趣旨に反するでしょう。情報を生かす形で、一連の文脈になるようにまとめなおすほうがいいと思います。出典主義にこだわりすぎて、研究者ごとに箇条書きにするので雑多な印象を受けるのでは? 研究者別にではなく、分野ごとに「唯物史観批判」「マルクス経済学批判」「共産主義体制批判」などにわけて、まとめ直してみましょう。しかし、そうなると共産主義批判というよりも、マルクス主義批判となるので、マルクス主義の項へ移動させたほうがいいかもしれません。私がまとめなおしてみましたので、こんな感じでどうでしょうか?--マイケル・トム 2008年4月29日 (火) 23:15 (UTC)
節全体をマルクス主義に移すこと、項目を分野ごとに分けることについては賛成します。ただ、出典は明示すべきだと思います。人名だけでなく文献名も。そうしないと独自研究になってしまいます。--Kazhik 2008年5月2日 (金) 14:54 (UTC)

「現在の共産主義圏」という地図画像について

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この地図画像ですが変更履歴を見ると2009年6月4日にモルドバが共産主義国として加えられています。しかし、wiki内の「社会主義国」の項目を見るとモルドバは社会主義国とはいえないという事になっていますし、この項目内でもモルドバの国名が提示されていません。他にもリビアが示されていない事にも疑問を感じます。修正の必要があると思われますがいかがでしょうか。——以上の署名の無いコメントは、219.126.164.125ノート/Whois)さんが 2010年2月6日 (土) 07:31 (UTC) に投稿したものです。

冒頭部分の記述について

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冒頭部分についてMiki08さんとRabit gtiさんが編集を繰り返しています。履歴をみても何が争点なのか今ひとつ理解できません。ノートで議論してから本文を修正していただきたいです。

現時点での記述はこうなっています。

共産主義(きょうさんしゅぎ、英: Communism、露: Коммунизм)は、生産手段の共有化や、私的所有と賃金労働の廃止によって階級のない社会を目指す政治思想や運動のこと[1][2][3][4]。

共産主義の正確な定義は多数あり、しばしば社会主義と同義語として使用される。しかしレーニン主義者の理論では、社会主義(社会)とは単に共産主義(社会)へと移行する途中の1段階である[5]。

私からみると、この記述にはいくつか問題があります。(1) 生産手段の共有化や賃労働の廃止などの目標を掲げるのはマルクス主義の系譜に属する共産主義思想です。それ以外の共産主義思想も含めて一般的に書く場合は「財産の共有」としておくのが妥当だと思います。(2) 出典として辞書を挙げるのは適切とは思えません。それを書いたのはおそらく専門的な研究者ではないからです。(3) 共産主義と社会主義の違いについて書く場合、思想・運動・体制の三面に分けて書く必要があると思います。思想としては、『共産党宣言』や『空想から科学へ』をみれば共産主義と社会主義は別の系譜に属していることがわかります。運動としては、『空想から科学へ』以来、共産主義と科学的社会主義はほとんどイコールです。体制としては、社会主義と共産主義をはっきり区別し、後者を前者より高い段階と位置づけるのがレーニン主義者の一般的な用法になっています。-Kazhik 2010年11月5日 (金) 23:31 (UTC)


Rabit gtiです。まず私の趣旨は、世界的観点では昔も今も「共産主義 = マルクス主義(だけ)」ではない以上、日本語版も特段の理由が無ければ各国語版と同様な程度には、特筆性のある主要な各潮流を中立的に併記すべき、というものです。次に経緯ですが、2010年10月26日までの従来の記述[1]は以下でした。
共産主義(きょうさんしゅぎ、英: Communism、露: Коммунизм)は、資本家的私的所有の廃絶を目指す思想および運動である。この思想に基づく体制も共産主義と呼ばれる。 運動としての共産主義は社会主義の一つの潮流であるが、マルクス・レーニン主義では「社会主義社会」は共産主義社会の低い段階を指す語としても使われる[1]。
11月3日に私が英語版を元に編集し[2]、マルクス主義以外を含めた「潮流」の節を追加(一部翻訳中途)した際に、冒頭も英仏独語版とほぼ同様の記述にしました。しかし、この直後にMiki08さんが行った編集[3]は、逆にマルクス主義に大幅に偏った記述のため、私が編集して出典を追加し、更にMiki08さんが細かい修正を行い、現在の記述になりました(大筋では既に一段落済との認識です)。Kazhikさんの指摘ですが (1)確かに現在はマルクス主義の影響がまだ残っている記述かと思います(ただ日本でも世界でもマルクス主義の概念の影響が強いのは事実なので、多少は仕方無いかと思ってはいます)。本来ならば「私有財産制(または財産の私的所有)の廃止と、財産の共有」などが妥当と思います。(「財産の共有」だけでは大企業国有化などの社会主義政策を連想しがちですが、フランソワ・ノエル・バブーフを含めて通常「共産主義 = 私有財産制(private property)の廃止(を目指す)」との定義が辞書でも各国語版でも大多数です。 ご指摘の通りマルクス主義特有の説明を入れてしまったのは不適当でした。共産主義全体は基本的には「私有財産制の廃止」と考えますが、マルクス主義など潮流により廃止対象に幅があり、即時廃止とも限らず、王権神授説などの神や王による公有(私有禁止)とも区別できるよう、以下の案ではいかがでしょうか?「共産主義は、より平等な社会の実現のために、私有財産制の全部または一部を廃止して社会的所有とすることを目指す思想や運動である。」(2)確かに一般の辞書は正確性では劣りますが、用語の定義に争いや編集合戦が多い場合に、冒頭に「世間一般での意味」とその出典をつけ、各専門的な定義や見解は概要以降に併記するのは妥当と思います。(ファシズム国家社会主義などと同様。冒頭の定義に、世間一般での意味以外の専門家の定義を記載すると、どの専門家を選択すべきかで中立性が疑われ編集合戦の元になります。)(3)思想の記事では、「○○主義(-ism)」の記事で思想・運動を中心に、「○○制」や「○○国」の記事で個々の体制などを中心に記述するのが妥当と思います。各国語版ではそうなっており、社会主義社会主義国なども当初は重複が激しく両方にソ連の歴史などが延々書かれていましたが、現在はこのように使い分けています。思想と、それを標榜する個々の政権の実際の行動には当然大きい相違があるためです。なお「共産主義」と「社会主義」の使い分けは、マルクスやエンゲルスによる系譜の分類や、レーニン主義による体制(段階)の用語、更にアナキズムなどによる厳密に使い分けていないものも並存しており、これらを併記した方が良いと思います。(マルクスの見解だけが絶対正しいという訳でもなく、マルクスの見解も時代により変遷が見らるため。)--Rabit gti 2010年11月6日 (土) 02:06 (UTC)
すみません、上記(1)のみ意見変更し、書き換えました。--Rabit gti 2010年11月8日 (月) 08:25 (UTC)


Miki08です。
(1) 冒頭説明がマルクス主義に偏重しているについて
確かに、共産主義=マルクス主義 ではありませんが、今日では共産主義の大部分はマルクス主義を基盤にしています。聖書やプラトンの理想国家とも共通する「財産の共有」という説明とともに、マルクス主義と明示したうえでマルクス主義について簡単に説明する必要があると思います。たとえば以下のようにです。
共産主義とは、財産の共有と必要におうじたその享受を特色とした社会を意味する[出典 TBSブリタニカ]。今日では共産主義は、主としてマルクス・レーニン主義の思想、運動、およびその目標とする社会体制を意味する[出典 世界大百科事典、平凡社]。マルクス主義では、資本を社会の共有財産に変えることによって、労働者が資本を増殖するためだけに生きるという資本主義社会の賃労働の悲惨な性質を廃止し、階級のない協同社会をめざす[出典 共産党宣言]。
(2) 辞書の信頼性について
Wikipedia:信頼できる情報源#情報源の評価Wikipedia:信頼できる情報源#情報源の「三次資料」--Miki08 2010年11月15日 (月) 10:06 (UTC)訂正に以下の記述があります。
「『ブリタニカ百科事典』、『ワールド・ブック』、『エンカルタ』の記事でも、著者の記名がないものは編集部員が書いたものであり、彼らは専門家とは限らないため注意してください。そのような記事は専門家の手によるものと同等の信憑性を期待することはできませんが、ウィキペディアの目的には信頼できる情報源とみなされます。」
したがって、記述内容や情報源に注意して用いれば問題ないと思います。
(2-2) 出典についてですが、Rabit gtiさんは外国語の出典を多用することによって他のユーザーによる検証や編集を困難にしており、改善を求めます。Rabit gtiさんは「Wikipedia:日本中心にならないように」を理由に挙げると思いますが、そのガイドライン案の趣旨は、「観点や記述の日本への不適切な偏重、誤解を招く形で省略された記述、あるいは普遍性がなく閲覧者を限定してしまう表現などを引き起こさないようにすること」です。国際的な意味・用法を確かめるのは結構ですが、極力、日本語の出典にもとづく記述をお願いします。

:(3) 共産主義の思想、運動、体制を区別することは賛成です。ただ、共産主義と社会主義の関係については、歴史的時期や出典によっていろいろあると思いますので、導入部に記述するのではなく節を作ったほうがいいと思います。--Miki08 2010年11月9日 (火) 04:16 (UTC)

(1)当記事は共産主義の記事です。冒頭は「共産主義」について簡潔に書くべきで、「マルクス主義」ではありません。既に「概要」に「19世紀後半にカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが共産主義思想を体系化すると、その「マルクス主義」が共産主義思想の最も有力な潮流となった。」、更に「潮流」に「マルクス・レーニン主義によるマルクス主義の解釈が最も知られており」と記述済で、各国語版ともほぼ同じです。(なお上記の「概要」は各国語版では冒頭の後半です。日本語版は冒頭が長いと全体の構成を無視した編集合戦に陥り易いのを避けるために節を分けているだけで、事実上の冒頭です)。従って日本語の冒頭に更にまた重複を書くのは反対です。(2)Miki08さんの「信憑性を期待することはできないが、信頼できる情報源」との解釈は独自研究かつ論理破綻です。私はKazhikさんの指摘には反対しておらず、「一般の辞書は正確性は期待できない(唯一の出典にはできない)が、用語の意味に争いがある場合の世間的な用法の出典にはなる、ただし後の詳細で専門的な出典による記述が必要」との現実的な2段階を説明しています。(Miki08さんの編集のような、都合の良い日本の辞書を「出典」としては記事全体を日本独自や特定の政治的立場に偏向させる手法はガイドの趣旨に反しています。)(2-2)ヨーロッパの思想や事件の記事で、日本が世界的に研究が進んでいる分野でもなければ、英語などの出典が多いのは自然です。翻訳系の多数の記事も同様です。(出典がほとんど無いとか、日本の1960~1970年代など偏った出典により日本独自の記事に偏向させるほうが問題のため、よりましな記述に変更しています。勿論、真に適切な日本語の出典があればそちらへ置き換えるのは更に適切です。)--Rabit gti 2010年11月9日 (火) 23:47 (UTC)
(1) 共産主義を一般的に説明するとき、「平等」や「社会的所有」というキーワードを入れるのが適切かどうか、ハッキリしません。「私有財産制の廃止」だけで十分ではないかと思います。マルクス主義については概要に書かれているから言及しなくてよい、という点には賛成します。(2) 世間的な用法を冒頭で確認する必要はあまりないと思います。歴史的な起源がある思想なのですから、それを思想家自身の著作か専門的な研究によって説明するほうが百科事典として有益でしょう。(3) 社会主義との違いについては、冒頭ではなく、概要か、独立した節に移すのがよさそうです。
冒頭には「共産主義とは、私有財産を否定して財産の共有を目指す思想のこと」とだけ書いておいて、詳しい説明は概要以降、ということでどうでしょうか。-Kazhik 2010年11月11日 (木) 20:42 (UTC)
Kazhikさん、コメントありがとうございました。大筋賛成です。細部は今後も議論があるかもしれませんが、私の問題ある修正[4](共産主義の冒頭の説明にマルクス主義特有の説明を入れてしまった)が続いているのは良くないので、とりあえず以下を反映しました。 (a)冒頭は Kazhik さん提案の簡潔な1文のみ (b)辞書の出典は今回は削除せず(各国語版でも一部で使われており、専門的な出典も出典追加できる) (c) 「社会主義」との違いを含めた用語の話は「用語」の節にまとめ (d)「概要」を時系列に整理。 [5]。いかがでしょうか? --Rabit gti 2010年11月13日 (土) 10:06 (UTC)
  • Miki08です。
(1) 冒頭説明について
共産主義の定義を以下のように修正することを提案します。
(現状)共産主義は、私有財産を否定して財産の共有を目指す思想や運動のこと。
(修正案)共産主義とは、私有財産を否定(または企業を公有化するなど)して財産の共有をめざす思想や運動のこと。
(理由)マルクス主義では、共有化の対象になるのは資本(会社など)だけです。現在の説明 「共産主義は、私有財産を否定して財産の共有を目指す」は、マルクス主義にはあてはまらず、共産主義の説明として不正確です。したがって上記の補正が必要です。
(2) 前回の私のコメント内の引用元を「Wikipedia:信頼できる情報源#情報源の評価」から「Wikipedia:信頼できる情報源#情報源の『三次資料』」に訂正させていただきます。
(4)「潮流」節の内容を「歴史」節に編入することを提案します。
(理由)「潮流」と「歴史」は内容的に同一です。歴史の中に位置づけるか、歴史から切り離して並べるかの違いしかありません。
(5) 「用語」節について
重要性からいってラテン語の語源は「概要」節に移動し、レーニンの「社会主義社会」という用語(共産主義ではない)は「歴史」節に移動したいと思います。「共産主義」がしばしば「社会主義」と同様の意味に用いられているのが「誤用」だというのは誰の意見でしょうか? --Miki08 2010年11月15日 (月) 11:09 (UTC)
冒頭は一文のみ、という点では合意が成立したと考えていいですね。
共産主義思想の歴史においてマルクス主義は後発です。百科事典として共産主義について一文で説明する場合、現代において共産主義の主流はマルクス主義だという点は無視し、歴史的な起源を説明するのが適切だと思います。「企業の公有化」というのはマルクス主義者の間でさえ一般的な表現ではありません。
「潮流」や「用語」については節を改めて議論しませんか。全体の構成をもう一度考え直し、どの節で何を書くべきか整理したほうがいいと思います。-Kazhik 2010年11月15日 (月) 12:10 (UTC)
上記の点では全てKazhikさんと同意見です。「共産主義」の用語の意味を簡潔に書けば現在の一文になります。程度や重点の差はあれ、マルクス主義も方向性は同じです。--Rabit gti 2010年11月15日 (月) 12:32 (UTC)
(1) 冒頭部分の記述について
マルクス主義は私有財産を否定していないので、「私有財産を否定して」は削除して、「共産主義とは、財産の共有をめざす思想や運動のこと。」のほうが正確です。
また、定義文に続けてラテン語の語源や、「現代では主としてマルクス主義をさす。」などの最低限の説明はあったほうがよいと思います。現状では字引きより貧弱です。Wikipedia:秀逸な記事を見ても導入部では記事全体を上手に要約しています。「概要」の記述と重複するという意見については、ガイドラインに「『概要』節を作る場合、『概要』節の内容は導入部における説明とある程度重なっても構いません。」とあり、問題ありません(Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部)#「概要」節を作る場合を参照)。
(2) Rabit gtiさんが11月9日のコメントで「独自研究かつ論理破綻」と批判しているのは、私の発言ではなく、ウィキペディアのガイドライン案です。
(3) 節を改めて全体の構成を議論することに賛成します。--Miki08 2010年11月16日 (火) 14:53 (UTC)


マルクス主義中心すぎる編集について

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Miki08さんによるマルクス主義中心すぎる編集[6][7]を差し戻しました。ノートの上記節でKazhikさんが「節を改めて議論しませんか」と提案し、私も賛成した件にも関連する記述変更であり、この面でも問題です。まずはノートで合意してください。現在の記述はなるべく各国語版とも合わせています。またマルクス主義特有の記述は「共産主義#マルクス主義」または「マルクス主義」に記載すべきです。無闇に偏向させないでください。以下、前節からの続きと、今回の主な指摘の列挙です(以下以外は問題ないという意味ではありません)。

  1. 前節からの続き
    1. 冒頭の1文は「共産主義」の説明です。「マルクス主義」特有の説明を書くのは不適当です。
    2. 「潮流」は大半の各国語版に存在します。逆に「歴史」は日本独自で、内容も「共産主義勢力の歴史」的で、中立的でない記述も多い。削除するなら「歴史」で、共存ならば「歴史」の整理が必要です。
    3. 「用語」は以後の説明上も重要なので「概要」より更に上にしています。「社会主義」と「共産主義」は「同義語」ではありません。大多数の一般辞書、専門書でも同様です。例えば社会民主主義は通常後者に含みません。
  2. マルクス主義中心にすぎる編集-1[8]
    1. 「同義語」でない語を「同義語」として使うのは「誤用」です。英語版では「it is often mistakenly used ...」。上記1-3と同じ。
    2. 「自己定義」は客観的な記述である「自称している」の意味。削除すると中立性が下がる。
    3. 「派生である」の削除はマルクス主義中心。
    4. 中国の「経済発展がめざましい」は当記事では不向き(社会主義国に)
    5. 「共産主義の概念」と「財産共有」は違う(プラトンは貨幣・私有財産・家族の廃止を提案した[9][10]
    6. バブーフは「完全平等」(完全な物質的平等)を主張した (シュルツとマルクス - 植村邦彦(PDF)
    7. Wikipedia:外部リンクの選び方#掲載すべきでない外部リンクを掲載しない
  3. マルクス主義中心にすぎる編集-2[11](上記2と重複は省略)
    1. 北朝鮮の「決別を憲法にも明記」は不正確(表現が消えた)
    2. [[Category:無政府主義]]を削除しない(無政府主義は共産主義の大潮流で、第一インターナショナルでも実質多数派です。正直、この無理解には驚き呆れました。)

上記のように個々の記述の良し悪し以前に、マルクス主義中心(偏向)と、共産主義への基礎的な無知、元の記述への無理解が、多々みられます。この根源を放置して単に編集対応しても、すぐに編集合戦に陥るため、まずはWikipedia:中立的な観点を(独自研究な解釈をせずに)再読し、反映は基本路線を合意してからにしてください。--Rabit gti 2010年11月16日 (火) 12:40 (UTC)


Miki08です。細部の表現の改善は、全体構成についての議論と同時並行で進めて問題ないと思います。
1.
1. 冒頭の定義文について
11月16日のコメントで、文案を、「共産主義とは、財産の共有をめざす思想や運動のこと。」に変更しました。いかがでしょうか?
2. 3. については「#節構成の見直しについて」で議論します。
2.
1. 「共産主義はしばしば社会主義の同義語として誤用されている」という本文記述について
「共産主義」と「社会主義」は、義語として併用されているのであって、義語として使用されているのではないと思います。また、ウィキペディア英語版の該当箇所は情報源が記されておらず、出典として無効です。
2. 以下の修正で、具体的にどういう問題が生じるのでしょうか?
(現行)「共産主義と自己定義する視点には、マルクス・レーニン主義、トロツキズム、……など多数の種類がある。」
(修正案)「共産主義思想には、マルクス・レーニン主義、トロツキズム、……など多数の種類がある。」
3. 「派生である」を削除すると、どういうふうにマルクス主義中心になるのでしょうか? 意味は変わらないと思います。
(現行)「共産主義と自己定義する視点には……多数の種類がある。しかし派生であるマルクス・レーニン主義によるマルクス主義の解釈が最も知られており、」
(修正案)「共産主義と自己定義する視点には……多数の種類がある。そのうち、マルクス・レーニン主義が最もよく知られており、」
4. については了解しました。
5. 了解しましたが、「共産主義の概念は……プラトンにも見られる。」より、「共産主義的な思想は……プラトンにも見られる。」のほうが正確だと思います。
6. 現在の文章は以下のとおりです。
「私有財産の否定による完全平等の実現という現在使われる文脈とほぼ同じ意味で『共産主義』という語を用いた最初の人物はフランソワ・ノエル・バブーフである。」
文章の流れからいって、「私有財産の否定による完全平等の実現」は、バブーフの説明ではなく、共産主義の「現在使われる文脈」の説明だとほとんどの人が受け取ると思います。共産主義が「完全平等の実現」をめざしているというのは言いすぎなので、「完全」を削除するか、文章を書き直すべきです。
7. 他の百科事典への外部リンクはなんら問題ないと思います。この件については、「利用者‐会話:Miki08/過去ログ1#多数の記事でのガイドに違反する外部リンクの追加について」や、Wikipedia:井戸端 の「他の百科事典への外部リンクの是非について」で議論しています。
3.
1. 「マルクス・レーニン主義からの決別を憲法に明記した北朝鮮」という記述について
これには出典があります。Yahoo!百科事典(小学館『日本大百科全書』)に、「1992年4月に行われた憲法改正において、チュチェ思想のマルクス・レーニン主義からの決別が明記された。」と書かれています(「北朝鮮」の「1. 歴史」の「思想から擬似宗教へ」を参照)。
2. 「Category:無政府主義」について
Wikipedia:カテゴリの方針#カテゴリの定義には、「1. カテゴリは第一義として、『分類』を示す」とあります。無政府主義が共産主義を包含している関係ではないので、これには該当しません。 2. は「『分類』より『キーワード』を指向しているカテゴリ」ですが、「カテゴリはより上位の概念であることが求められるため、逆の関係ではあり得ません。」と説明されています。マルクス主義とアナキズムは対立しながら、ときには共同してたたかったという関係であり、共産主義と無政府主義はどちらかが上位の概念とは言えないように思います。仮に「無政府主義は共産主義の大潮流で、」というRabit gtiさんの主張にしたがっても、共産主義のほうが上位の概念ということになり、いずれにしても 2. に該当しません。したがって「Category:無政府主義」を削除したのは適切です。実際、「Category:無政府主義」を見ても、そのほとんどが無政府主義に属する事柄であり、その中に「共産主義」があるのは特異です。--Miki08 2010年12月4日 (土) 04:47 (UTC)


Rabit_gtiです。上記のMiki08さんのコメントに回答します。

1.出典に記載済ですが、広辞苑(第六版)では「私有財産制を否定して共有財産制を実現することで貧富の差をなくすことをめざす思想・運動。」です。「財産の共有」だけでは株式会社ナショナル・トラストなどと区別できません。古代ギリシアでも近代でも、「共産主義」は通常、私有財産制度が確立した時代の後に登場した、私有財産制度の原則廃止を掲げた主張です。(なお厳密な表記分けは不要と思いますが、一般的には私有財産制度の確立前の財産共有は「共産主義的」と呼ぶのが妥当に思います。)
2-1.「共産主義」と「社会主義」は、意味が違うため同義語とするのは誤用です。社会主義では通常は、私有財産制の廃止まで主張していません(主張するものもありますが)。
2-2.「自己定義」とは「自称する」との意味です。何を「共産主義」と呼ぶかは議論があるための、より客観的な立場からの記載です。これを単純削除すると意味が変わります。
2-3.修正前の「しかし派生であるマルクス・レーニン主義によるマルクス主義の解釈が最も知られており」と、修正後の「そのうち、マルクス・レーニン主義が最もよく知られており」は、日本語を読めば明確に意味が違います。修正前は「マルクス主義が最も知られているが、それは正確には、マルクス主義の派生であるマルクス・レーニン主義によるマルクス主義の解釈である」(実はオリジナルのマルクス主義と同一ではなく、また別の解釈も存在している、という趣旨が含まれている)とのより正確な表現です。(マルクス主義を語る上で重要な箇所と思います。仮にこの日本語の違いが読んで判らないならば、無闇に編集しないようお願いします。失礼ながらMiki08さんの表現は多くの場合、特定の思想や政党に思い込みが激しいためか、それを過剰に肯定的または否定的に記述し、元の学術的で正確な表現を乱暴に改悪してしまっており、中立性・客観性に非常に問題があります。Wikipedia:完璧な記事Wikipedia:秀逸な記事なども参考になります。)
2-5.上記の広辞苑では「共産主義」に「プラトン」を最初に書いており、現在の記述も不正確とは思えません。(共産主義の記事でマルクス主義以外を目立たなくさせようとするのは、中立的ではありません。)
2-6.「完全平等」は、私が出典付で書いた「完全な物質的平等」の方が適切と思います。(私的所有を廃止するため、富の偏在が消滅し、物質的には完全に平等になります。)
2-7. 残念ながら両方とも議論停止中です。現在のところ「最終的には、リンク先の内容を記事に反映させ、外部リンクは出典とするべき」との意見を頂いただけとの認識です。(またMiki08さんによる冒頭への掲示は「不適切」と書かれていました。)
3-1.百科辞典は「用語が通常この意味で使われている」との出典にはなりますが、事実の出典にはなりません。北朝鮮の1992年憲法[12]は、「マルクス・レーニン主義からの決別」を記載していません。「マルクス」や「レーニン」の文字もありません。「従来存在したマルクス・レーニン主義の言葉が消えた」という事実を、ある百科辞典が「マルクス・レーニン主義から決別した」と解釈して、「決別が明記された」と表現しただけです。しかし、この表現を単純に転載すると「マルクス・レーニン主義と決別する、と憲法に明記した」と誤解を招きます。(この件に限らず、表現は文脈にもよります。出展さえあれば、同一の表現をそのままウィキペディアに掲載する事が適切とは限りません。また表現ごとの転載は、1行であれ、厳密には著作権違反です。Miki08さんはこの種の編集が過去にも多数あります。)
3-2.「無政府主義」と「共産主義」は、片方が他方を包含するのではなく、一部が重なる関係です。(自由主義と民主主義の関係と同じ。根本は同じとの見解もあるが、相互に矛盾する側面もある。)「共産主義」の運動の中で、第一インターナショナル当時はアナキズムが最大勢力でした。アナキズムは全ての権威を否定するため、所有関係という経済的上下関係も廃止した場合は、必然的に共産主義になります。逆に多くの共産主義は究極的には支配関係の無い社会を掲げています(現実の既存の共産党や共産主義国家は別として)。同時に、逆に私的所有を国家から不可侵として絶対化するリバタリアニズムなどの自由主義的アナキズムも並存しています。Wikipedia:カテゴリの方針#カテゴリの定義では、「ウィキペディアのカテゴリとしては「関連が深いキーワード」を示すことができます」とあります。「共産主義」と「無政府主義」は思想的にも歴史的にも深い関連があるため、相互にカテゴリーに含める事が妥当です。(マルクス主義だけを共産主義と思ってはいけません。)--Rabit gti 2010年12月5日 (日) 09:19 (UTC)
1.わかりました。ただ、マルクス主義は「私有財産を否定」していないので、Rabit gtiさんが2010年11月8日に提案した文章の「私有財産制の全部または一部を廃止して」を生かして、「共産主義は、私有財産制の全部または一部を廃止して、財産の共有を目指す思想や運動のこと。」としてはいかがでしょうか?
2-1.「共産主義」は「しばしば『社会主義』の同義語と誤用されている」という記述について
私は「共産主義」が「社会主義」の同義語として使用されることはまずないと思います。しばしば類義語として併用されているのだと思います。
2-2、2-3.文章のちがいは分かりました。
2-5.プラトンについては、とりあえず現状の記述で引き下がります。
2-6.「完全な物質的平等」は共産主義の「現在使われる文脈」の説明でしょうか? それとも、バブーフの説明でしょうか?
2-7.NEONさんは、「少なくとも、記事が未だ網羅していない内容を含む限りは、掲載を拒否することはできないと思います。」と発言されています。他の百科事典への外部リンクはガイドライン違反ではないというご意見です。
3-1.了解しました。
3-2.第一インターナショナルは共産主義の運動というより、もっと幅広い連合体のように思います。--Miki08 2010年12月17日 (金) 15:41 (UTC)
コメント (1)いいえ。ノートの議論を読み返してください。私は2010年11月8日に提案しましたが、Kazhikさんからの指摘もあり、現在は冒頭の1行は簡潔にし、3段落目で「共産主義は通常、より平等な社会の実現を目指すために、私有財産制度の全部または一部を廃止し、財産や富を共有することを提唱する。」との2段階で、実際には誤解されない記述です。「共産主義」の冒頭は「共産主義とはどのような概念か」を簡潔に記載すべきで、「実際のマルクス主義が含まれるように共産主義の説明を書き換えるべき」というのは本末転倒です(マルクスは多くの分野の発言をしており、マルクス主義の思想の柱の1つが共産主義、との見解もあります。「共産主義 = マルクス主義」との記述は偏向です。そもそも「自由主義」でも「犯罪も自由」ではなく、全ての「○○主義」は「方向性」で、現実には部分的なのは当然です。なおプラトンでは奴隷や女性も「共有資産」の対象です(当時のアテネで私有財産であったため)。またマルクスは生産手段の所有形態が人類の歴史の根本と考え、その共有を提唱したので、部分的に絞ったというより本質に注目した形です。(率直に言って、今回に限らず、他記事と見比べても一般的な記述に、Miki08さんだけが過剰反応しているとしか思えません。推測ながら「マルクス主義や日本共産党が、全財産没収とか暴力思想と読者に誤解されないように、ウィキペディアを書き換えなくては」との過剰な使命感や思い込みが先走りしているようにしか見受けられません。しかしウィキペディアはWikipedia:中立的な観点で客観的に事実を記述する場所で、「日本共産党の教科書」ではありません。また過剰な正当化は、偏向記述となり、共産主義者の評判も落とします。)(2)「社会主義国家」と「共産主義国家」のように、ほぼ同義語で使われているケースも多々あります。類義語であれ、関連性はありますが、別概念です。(2-6) 両方です。記載済のように、バブーフの使用した意味が、現在使われる意味となっています。(2-7)Wikipedia:井戸端の該当箇所は既に議論停止で整理済ですが、NEONさんは最初に「最終的には、リンク先の内容を記事に反映させ、外部リンクは出典とするべき」、後に「少なくとも、記事が未だ網羅していない内容を含む限りは、掲載を拒否することはできないと思います。」と書かれています。常識的に解釈すれば、一時的には例外もあるが、最終的には「外部リンクは出典とするべき」との趣旨で一貫しています。「永続的に、外部リンクの節に書く」事を賛成した方は、まだ存在していません。他の人の書いた発言やガイドは、都合の良い1行だけ取り出して自己正当化に使うのではなく、全体を読んでその趣旨を理解しましょう。(3-2) 共産主義とアナキズムの関連は、以下#節構成の見直しについてに書きました。--Rabit gti 2010年12月18日 (土) 03:27 (UTC)
(1) 定義文について
3段落目では離れすぎています。世間の認識と実際の共産主義との相違が大きい場合、世間の認識を記述するだけでは偏っています。両方を併記する必要があります。1段落目の定義文を以下のように修正することを提案します。
「共産主義は、一般に私有財産を否定して財産の共有を目指す思想や運動とされている。ただし、共産主義の主流であるマルクス主義では、資本(会社など)を社会全体の財産にすることをめざし、個人の財産まで共有するわけではない。」
  • 簡潔さも大事ですが、正確さもそれに劣らず重要です。世間的な認識にもとづく偏った1行目の定義文は、3段落目ではなく、すぐ後で補足する必要があります。
  • 「定義」は、それに属するすべてのものが含まれるように記述しなければなりません。たとえば「自由主義」の定義に「すべてが自由だとする考え。」と極端なことを書いて、「方向性であって、現実には部分的なのは当然」と別の場所で定義を修正するのではなく、「方向性」などの言葉を使ってすべての自由主義にあてはまる定義を書くべきです。
  • 上記の修正案では「共産主義の主流であるマルクス主義では」と記述しており、「共産主義 = マルクス主義」との記述ではありません。
(2) 「「共産主義」はしばしば「社会主義」の同義語と誤用されている」という記述には出典がなく、独自研究を含んでいるように思われます。「「共産主義」はしばしば「社会主義」の類義語として用いられている」に修正したいと思います。
(2-7) 他の百科事典への外部リンクについて
外部リンクの基本的な考え方は以下のとおりです。「1.その外部リンクが、記事の内容を補完するものであること。 2.その外部リンクが、記事の内容についての読者の更なる理解への助けとなること。……」 これらの条件を満たす間は外部リンクに掲載してもよく、条件を満たさなくなれば掲載をやめるということだと思います。百科事典への外部リンク自体はガイドライン違反ではないということでお願いします。--Miki08 2010年12月31日 (金) 03:02 (UTC)
コメント (1)Miki08さんの従来の提案(当共産主義の冒頭の定義をマルクス主義特有の定義に修正する)も、Miki08さんの今回の提案(冒頭2行目にマルクス主義のみの定義を追加する)も、同様に中立的ではないので反対です。また「世間の認識と実際の共産主義との相違が大きい場合」とありますが、仮に「世間の常識 = (現在の冒頭の1文)」、「実際の共産主義 = マルクス主義」という意味ならば、それ自体もマルクス主義中心の非中立的な見解です。「3段落目では離れすぎ」とありますが、多くの思想系の記事では、当記事と同様に、冒頭に一般的な定義、次に起源、その次に各潮流・各思想などの詳細を記述する構成です。逆にMiki08さん提案の、冒頭定義の2行目に「主流」と断定して併記する構成は一般的ではなく、マルクス主義中心の非中立的な記述です。(Miki08さんはノート:ファシズムなどでも、自分の支持する思想や見解を冒頭や概要に要求し、自分の反対する思想や見解を大量削除や下部への移動や別ノートへの分割を要求し、受け入れられないとPOVなどの主張を延々繰り返していますが、そのような行為こそがPOVです。)また会社など」との不正確な表現は止めてください。仮にマルクス主義ならば通常は「生産手段の社会的所有」、仮に社会主義全般でも「企業(の国営化・公営化)」ですが、共産主義#マルクス主義には正確に書かれています。(社会主義左翼右翼ファシズム国家社会主義などでも、Miki08さんは各記事に関する初歩的な無理解や不正確が多すぎます。)(2)出典に記載済を含めた大多数の日本や世界の辞書で、「共産主義」と「社会主義」は別の説明が書かれており別概念扱いで、同義語で無い事は常識なので出典義務はありません。逆に「類義語として用いられている」も出典がありません。(2-7)ちゃんと読んでください。「別の百科辞典への外部リンクの掲載」自体に反対している人はいません。それを最終的には該当箇所の「出典」の形で掲載すべき(「外部リンク」の節に掲載し続けるのは不適当)、という話です。何故執拗に反対し続けるのか理解できません。(Miki08さんは、ノート:政治的シンクレティズムなどで、「出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明示してください。」と強硬に主張し、ガイドで認められた別の形の出典や記述まで大量削除を主張し続けましたが、自分が支持する思想かどうかで全く逆の主張をするのは中立的ではありません。)Wikipedia:中立的な観点は、都合良く独自研究的に解釈し利用するのではなく、「中立的な観点」の趣旨を理解し遵守するか、このガイドに不満なら修正提案をするか編集を止めてください。--Rabit gti 2011年1月1日 (土) 10:33 (UTC)
(1) 「定義」はそれに属するすべてのものが含まれるように記述しなければなりません、についてはどうお考えでしょうか?
(2) マスコミや世間でしばしば用いられている用法を「誤用」と記述するには、相応の出典が必要と思います。出典がないのでしたら、「しばしば「社会主義」の同義語のように使用されている」に変更します。
(2-7) 「別の百科辞典への外部リンクの掲載自体に反対している人はいません。」については了解しました。
私は、他の百科事典を出典にして本文を記述することに賛成です。ただし、出典として使った後は「外部リンク」節から「参考文献」節に移せばよいのであって、一刻も早く「外部リンク」節からも「参考文献」節からも抹消して、他の百科事典へのリンク(ファシズム国家社会主義など)が極力読者の目に触れないようにすることには反対です。--Miki08 2011年1月25日 (火) 14:44 (UTC)
コメント (1)「共産主義」の語の意味は定義に書かれています。(2)マスコミや世間でしばしば用いられている」や「同義語のように使用されている」という信頼できる出典がありますか?フェビアン協会を「共産主義」とか、「社会民主主義」を「社会共産主義」とか、「原始共産制」を「原始社会制」と呼ぶ、まともな出典がありますか?マスコミも世間も明らかに使い分けています。マルクスが社会主義と共産主義を両方掲げたからといって、両者が同一の概念という話にはなりません。実際、上述のように大多数の信頼できる辞書では「社会主義」と「共産主義」は別の説明が書かれており、同義語でも類義語でも無く、単に関連語です。単に全く無知な人が同義語と誤解する例はあり、それが「誤用」です。(2-7)百科事典ならば何でもそのまま書ける訳ではありません。多くの百科事典は各分野の特定の学者が書いており、必ずしも中立的や正確ではありません。またWikipedia:外部リンクの選び方#掲載すべきでない外部リンクでは、記事に含まれている内容を本質的に超えないもの」は掲載すべきではありません。また「極力読者の目に触れない」とは大げさです。商用のオンライン無料百科事典は誰でも検索できます。リンク集では無いので、単にあちこちの百科事典を、関連があるからと掲載すべきではありません。Miki08さん以外にそのような行為をしている人はいません。これは公式なガイドです。Miki08さんは多数の記事でガイドの独自解釈や無視による自己正当化が極端に多すぎますが、編集するならば最低でも公式ガイドは守る必要があります。--Rabit gti 2011年1月25日 (火) 15:13 (UTC)

節構成の見直しについて

[編集]

現在の本文は「用語」「概要」「潮流」「歴史」という構成になっています。この構成について、Miki08さんから(1) 「潮流」の「歴史」への編入、(2) 「用語」の「概要」と「歴史」への分離編入、の二点が提案されました。提案に従えば結果として残るのは「概要」と「歴史」になります。これに対するRabit gtiさんのコメントは基本的に現在の構成を擁護するものだと思います。

私は(1)についてはMiki08さんの提案に賛成です。「潮流」は大半の各国語版に存在し、「歴史」は日本独自のものだ、というRabit gtiさんの指摘は、私が確認した主要な言語の版については当てはまりません。

  • 英語:「潮流」あり、「歴史」あり
  • ロシア語:「潮流」あり、「歴史」あり
  • ポルトガル語:「潮流」あり、「歴史」あり
  • スペイン語:「潮流」に関する節はなく、「共産主義思想の発展」および「共産主義運動の歴史」という節がある
  • 中国語(中文):「潮流」に関する節はない。主要な共産主義国家の前史という位置づけで運動の歴史に関する節がある
  • フランス語:「潮流」なし、「歴史」あり
  • ドイツ語:記事全体が各「潮流」ごとの節に分かれている

話者1億人以上の言語11言語から日本語を除いた10言語のうち、7言語について確認した結果、Rabit gtiさんの主張を裏付けるのはドイツ語版だけです。「潮流」より「歴史」のほうが優勢に見えます。

現在の日本語版本文で「潮流」として書かれているのは、現在の世界の潮流ではなく、歴史的に存在した潮流になっています。マルクス主義の潮流の半分以上は現在は、存在しないか無視できるほど小さくなっています。また、非マルクス主義のところに「ソ連崩壊以後はその重要性が高まっている」と書かれていますが、私は<無政府共産主義やキリスト教共産主義の運動が最近勢力を拡大している>という主旨のニュースを見たことはありません。現在の「潮流」は「歴史」に編入したほうがよいと思います。

しかし、歴史的に存在した潮流ではなく現存する潮流が書かれた節なら、「歴史」とは違う存在意義のある節になります。その方向で修正されていくなら存続に賛成します。

(2)についても主要な言語の版を確認しておきます。冒頭の節はそれぞれ以下の通りになっています。

  • 英語:用法
  • ロシア語:定義(次が語源)
  • 中国語(中文):定義
  • フランス語:語源(次が用法、その次が理念)
  • ポルトガル語:序(用法についてのサブセクションを含む)
  • スペイン語:歴史的起源
  • ドイツ語:概要

言葉の意味についての節が置かれていることが多いようです。「用語」というセクション名は今ひとつだと感じますが、共産主義という言葉そのものを解説するセクションは必要だと思います。むしろ他のセクションとの重複が激しい「概要」を解体したほうがスッキリしそうです。-Kazhik 2010年11月17日 (水) 13:15 (UTC)

  • Rabit_gtiです。まず私の書いた各国語版での状況は、ちゃんと調べておらずすみませんでした。Kazhikさん、確認と指摘ありがとうございました。「歴史の節は日本独自」ではなく「歴史の記述内容に日本独自が多い」に訂正します。その上で私の意見は以下です。(1)「潮流」の「歴史」への編入案や、「潮流」から「歴史的潮流」を削除して「現在の潮流」に限定する案は、以下理由から全く反対です。(1-1)「潮流」は主に思想の種類と相違を、「歴史」は主に歴史的関連を記載するもので、視点(観点)が違います。(1-2)Kazhikさん指摘の7言語中4言語版に「潮流」の節があり、残る3言語版にも(部分的にせよ実質的には)「潮流」に相当する節があります(フランス語版は「潮流」に相当する位置に「共産主義の概念」(fr:Communisme#Les idées du communisme)の節があり、その中でアナキズム、マルクス主義、レーニン主義、トロツキズム、毛沢東思想など諸潮流別の主要概念が書かれています)。(1-3)更に思想系全般で見ても、歴史が長く潮流の多い思想は、「潮流」に相当する節が上半分に存在しています。社会主義#潮流アナキズム#類型自由主義#種類資本主義#レギュラシオン学派による資本主義類型 などです。逆に存在しないものは社会民主主義民主社会主義など、相対的に小規模または分派が激しくないものです。(1-4)思想系の記事では、潮流を「歴史的な潮流」「現在の潮流」に分類する事は不可能で、無理に分けても中立的ではなく独自研究です。共産党社会主義国などの記事では「○○は○○時代まで、現在の後継は○○」と書けますが、思想は少数派を含め並存し、現在の潮流が何を「自分たちの源流」とするかで決まります。例えば「空想的社会主義」は、マルクス主義の立場からは歴史的潮流ですが、多くの社会民主主義からの立場では自分たちの直系です。カウツキーやローザ・ルクセンブルク主義は、レーニン主義者の立場からは歴史的潮流ですが、多くのユーロコミュニズム左翼共産主義の立場では自分たちの直系です。またアナキズムは元々、個人主義などと同様に「支配に反対する思想の総称」で党派も持たない事が多く、単純に消滅したのか、民主主義や社会福祉や環境保護リバタリアニズムなどに受け継がれたのかは多数の見解があります。逆に第二次大戦後は多くの共産主義者が当時のコミンテルンとスターリンを支持しましたが、スターリン批判が強まるとレーニン主義が強まり、ソ連崩壊後は元のマルクス主義グローバリズムによる格差社会を予言したと再評価する書籍が多く出るなど、どちらが「歴史的潮流」かは時代や立場により逆転もします。つまり「○○は歴史的潮流、○○は現在の潮流」という単純な分類は、実際は「現在の特定潮流からの定義」にしかならないので、思想系の記事では不適当で、実際に思想系の多数の記事で使われておらず、「○○時代に有力になった、少数派になった」ならば「潮流」の中に書けます。(1-5)以上をまとめると、節構成はともかく内容的には、大きな思想で「潮流の説明」が無い記事は、各国語版でも日本の思想系記事でもほとんど無く、その大多数は「概要の説明 → 潮流の説明 → 歴史の説明」の順序です。敢えて日本語版だけ独自構成にした方が良いとの理由も不明です。(2) 「冒頭」と「用語」と「概要」の再統合ならば反対ではありません。元々翻訳元での「長い冒頭」を、私が意図的に分割した結果が現在の「短い冒頭」と「概要」です。残念ながら日本語版では、「長い冒頭」ではその後の「用語」や「潮流」を見ずに、冒頭に安易に自分の知っている特定の用法や潮流を書いて編集合戦になる場合が多いのが実情です。そこで冒頭は議論の余地が無いほど「短い冒頭」にし、「用語」や「潮流」の節を含めた目次を見やすくした、というのが経緯です(「他のセクションとの重複が激しい」理由もここにあります。本来は冒頭の一部なので、全体の要約であり、当然重複しています)。同様に私が冒頭を分割した記事には、社会主義左翼ファシズムなどがあります。ただし Wikipedia:秀逸な記事 の「哲学」や「社会科学」の各記事でも「冒頭が1~数文だけ」は結構あります。とはいえ各国語版になるべく合わせたい面もあり、編集合戦は本来は編集者のレベルの問題なので、私は「冒頭」(と「用語」)と「概要」の再統合ならば絶対反対ではありません。(3)「用語」は節名変更は可、場所は現位置希望です。日本語版でも多数の節名があり、私は(起源だけでなく用法も書くので、最も平易な用語と思われる)「用語」を多用していますが、絶対にこだわっている訳ではありません。ただし上から順に読んだ場合、現在の「概要」の前に読めた方が混乱が少ないので、仮に「冒頭」と「用語」と「概要」の再統合案ならば、統合後の「長い冒頭」の中の最初の1文の直下(つまり今の位置)が望ましいとおもいます。(4)細かい話ですが、現在の「ソ連崩壊以後はその重要性が高まっている」は、私は少なくとも「相対的に重要性が高まった」と編集対応すべきと思います。これは英語版の en:Communism#Non-Marxist schools の「and are growing in importance since the fall of the Soviet Union.」の直訳ですが、(直訳しながら思いましたが)客観的・中立的とは言えません。ただし「共産主義とはマルクス主義」とは到底言えない思想状況となった現在では、共産主義という概念の学術的な把握における、非マルクス主義の相対的な重要度が高まった、という傾向は否定できないと思っています(政党や運動が増えたという意味ではなく、再評価や注目度が上がったという意味です)。--Rabit gti 2010年11月18日 (木) 14:49 (UTC)
報告 3週間ほど異論が無かったので、特に議論の無い3点を反映しました[13]。(2,3)従来の導入部、用語、概要を、主要各国語版と同様に導入部に統合(マージ)しました。上記ノートで議論の出た「共産主義と社会主義の相違(同義語ではない)」も簡単に記しました。(4)「潮流」の非マルクス主義の記述は「相対的に重要度が高まった」と「相対的」を追加しました。--Rabit gti 2010年12月11日 (土) 05:24 (UTC)
しばらく放置したのはMiki08さんからのコメントを待ったためです。もう少し待つつもりでしたが、編集が進んでしまったので議論を進めることにします。(1) 私が現在の記事に感じる基本的な問題は、「潮流」と「歴史」が内容的に重複していることです。観点が違うといっても、現在の「潮流」の内容は歴史の話がほとんどなのですからあまり意味がありません。無政府共産主義やキリスト教共産主義の潮流が現在どのように存在しているのか、リンク先まで辿っても全然わかりません。また、サン・シモンやフーリエが直接に現代の社会民主主義につながっているのだとしたら(私はそうは思いませんが)、「潮流」で社会民主主義を説明し、「歴史」でサン・シモンやフーリエから現代の社会民主主義に至る流れを説明すればいいでしょう。カウツキー主義とユーロコミュニズム、ローザ・ルクセンブルク主義と左翼共産主義に関しても同様です。そもそも現在の「潮流」はマルクス主義に偏りすぎています。無政府共産主義やキリスト教共産主義とのバランスを考えるなら、「潮流」ではマルクス主義の様々なバリエーションは無視し、マルクス主義の最大公約数的なことを書くだけにとどめたほうがいいです。(2) 今回の編集はおおむね妥当なものだと思います。だいぶスッキリしました。ただ、非マルクス主義的共産主義の相対的な重要度が高まった、という点には依然として違和感があります。非マルクス主義的共産主義の潮流が今でも存在するかどうか不明だからです。現在の潮流としてではなく歴史的な潮流としての相対的重要度が高まった、ということであれば、共産主義思想に関する最近の学術研究において非マルクス主義的共産主義が言及されることが多くなった、という事実(出典)が必要です。-Kazhik 2010年12月12日 (日) 05:02 (UTC)
コメント Kazhikさん、私もコメントを待っていましたが、合意形成の目安は通常1週間で、3週間以上経過したため、意見不一致の少ない箇所のみ反映しました。(残念ながら、会話:Miki08のように、別ノートで1か月以上無回答の実績ある方です)。(1)上記のように、ウィキペディアでは思想の記事の多くに「潮流」に相当する節と「歴史」の節が両方存在し、同じ内容も含まれますが観点(切り口、view)が異なります。読み物ならば「歴史」だけでも良いですが、百科辞典の記事は複数の切り口が適切と思います。また現在でも「潮流」は各潮流の特徴の記述が中心で、逆に「歴史」は主な人物が何をしたかが中心で各潮流ごとの主張や特徴は最低限です。「共産主義」の日本語版だけ、「歴史」だけにした方が良いとの理由がわかりません。なお「共産主義」では「理念・思想」の節が無いため、「潮流」が実質的に「(共産主義に関する主な人物・勢力ごとの)理念・思想」にもなっています。(上述の通りフランス語版で「理念」の節に各潮流が書かれているのと、形は逆ですが実質は同じです。)なお「潮流」の節は、「現在の有力党派一覧」との意味ではなく、「主な理念、バリエーション、形態、態様」に近い内容なので、歴史的に特筆性があれば現在の勢力とは無関係ですが、節名は適切で平易な日本語が見当たらず社会主義#潮流等と合わせています。しかしマルクス主義に偏りすぎています」は全く同意見です。現在の「潮流」は英語版の翻訳ですが、私もマルクス主義系は専用の記事が多いため翻訳も最低限とし、非マルクス主義系を優先翻訳しました。非マルクス主義系を含めた幅広い共産主義の思想や概念の更なる充実を私も希望しています。ただしウィキペディアは一般向けに書く必要があり、世間一般の認識は「共産主義 = マルクス主義 = ソ連や北朝鮮」レベルの認識が一般的なので、「いわゆるマルクス主義にも色々あり、実はかなり異なる」事が判る各潮流の記述も必要と思います。(個人的には利用者:Kazhik#これから修正する予定の項目を拝見し、かねて期待しております。) (2)「非マルクス主義的共産主義の相対的な重要度が高まった」は私も違和感があり、他の方から異論が出なければ1週間後に削除予定です。--Rabit gti 2010年12月12日 (日) 13:20 (UTC)
(1) 「潮流」節と「歴史」節の統合について
読者にとって、「同じような説明が二つある。ただし、記述のしかたや観点が違っている。」で本当にいいのでしょうか? 私は、スターリニズムとスターリンを別々に重複記述するのではなく、話を一本化し、潮流、人物、時代背景などを統一的に記述するべきだと思います。
また、「潮流」節では、資本主義国で現在有力なユーロコミュニズムやマルクス、エンゲルスの思想の説明がほとんど無く、まったく過去のものとなってしまった潮流が大きく取り上げられており、読者に大きな誤解を与えると思います。「潮流」節は1ヶ月半前(2010年11月3日)に追加された節であり、なくても問題ないと思います。
(2) 「非マルクス主義的共産主義の相対的な重要度が高まった」の削除に賛成します。--Miki08 2010年12月14日 (火) 08:00 (UTC)
コメント 上記のMiki08さんの発言にコメントします。(1)現状は「「潮流」と「歴史」は、観点も異なるが、記述内容も異なっている」です。主要各国語版は実質的に「潮流や理念」と「歴史」の両方が存在しています。マルクス主義等は専用の記事へ誘導済です。ユーロコミュニズムは、「資本主義国で現在有力」とは到底言えません(社会民主主義との相違が縮小し、最近はマスコミでもほとんど聞かれない)が、潮流に追加すべきと思います。なおトロツキズム第四インターナショナル各派、中国共産党などの毛沢東主義イギリス社会党 (SPGB)などの左翼共産主義は、規模は別として現在も存在しています。更に「潮流」は「現在の有力党派一覧」ではなく、例えば宗教一覧は現在有力か否かは無関係です。現在の「潮流」は英語版を翻訳して追加したもので、翻訳自体はウィキペディアで推奨されています。--Rabit gti 2010年12月14日 (火) 14:45 (UTC)

これまでの議論を踏まえ、合意をめざして少し違った案を出したいと思います。(1) 「潮流」は「思想」に変え、マルクス主義やアナーキズムの思想的内容を記述する。(2) 「歴史」は運動や体制について記述し、思想に関わる一部の記述を「思想」に移す。

「潮流」と「歴史」より「思想」と「歴史」のほうが違いが明確になりますので重複を避けやすくなるはずです。現在の「潮流」に書かれているマルクス主義の様々なバリエーションは、ほとんど全て運動史の中で生まれたものと見なせますので「歴史」に移動。「歴史」にある共産主義思想の起源についての記述や『資本論』の共産主義論の説明などは「思想」に移すのがよいでしょう。-Kazhik 2010年12月16日 (木) 13:23 (UTC)

上記の提案に賛成します。ただ、アナーキズム共産主義と近縁ですが、共産主義ではないように思います。--Miki08 2010年12月17日 (金) 06:10 (UTC)
コメントKazhikさんの提案に大筋では賛成です。合意形成へ向けた前向きで建設的な提案、ありがとうございます。なお「思想」は実際には「主な潮流(人物やバリエーション)別に見た思想と動向」なので、「思想」とだけの節名はやや違和感がありますが、平易で簡潔な事も必要と思います。また現状や主要各国語版と比較して、実質的な内容削減でなければ、節間の移動による全体の整理も賛成です。なお上記Miki08さんへのコメントですが、「アナキズムは共産主義」とは誰も書いていません。しかし自由主義個人主義民主主義資本主義が、別概念でも思想的・歴史的に深い相互関連があるのと同様に、社会主義共産主義アナキズム(特に社会的アナキズム)は、思想的・歴史的に深い相互関連があります。特に国際共産主義運動の勢力や方法論として、アナキズム(革命後は国家を最低限にして国境を開放し、各地域や各組合や連合体の自治を重視する)が一時多数派であった事は歴史的事実です。--Rabit gti 2010年12月18日 (土) 03:27 (UTC)
おおまかな合意が成立したと思いますので提案どおりに構成を整理しました。チェックをお願いします。整理前にあった情報をすべて残せたわけではないので、加筆が必要な部分もあります。潮流のところにあったチトー主義やユーロコミュニズムは実質的に英文しかなかったのでどこにも移動できませんでした。
ついでに共産主義のサイドバーと学派の一覧を削除しました。共産主義のテンプレートは一番下に一つあるので二つ目は不要だと思いますし、学派の一覧は単なる羅列にすぎないので情報としての価値がないと考えたためです。-Kazhik 2010年12月26日 (日) 08:10 (UTC)
ありがとうございました。思想と歴史に分け 重複をできるだけなくした構成、共産主義のサイドバーと学派名一覧の削除に賛成します。--Miki08 2010年12月27日 (月) 06:42 (UTC)
コメントKazhikさん、「思想」と「歴史」の節構成への再編成、ありがとうございました。未翻訳であったチトー主義やユーロコミュニズムは、詳細はマルクス主義や各記事に書くのが適切なため、当記事からは単純削除で賛成です。学派の一覧の削除はテンプレート等とも重複なので(後述(C)のサイドバー復活を前提にですが)賛成です。以下は個別のコメントですが、今回の再編成以前からの点も含んでいます。(A)「思想」の節の「黎明期の共産主義思想」は、「原始的・空想的なものは色々あったが、マルクス主義で初めて科学・思想となった」などのマルクス主義中心の世界観による節名に思えます。共産主義は私有財産制の対立概念で、古代アテネなど私有財産制が存在した社会では呼称や程度の差はあれ存在しうる概念なので、中立的に「近代以前」などが望ましいと思います。(B)その「黎明期」でプラトン等の古代部分が消えましたが、逆に私的所有権にも記載の、私有財産制の存在以降も私有財産制を拒否または制限した歴史的な思想や社会の例を列挙すべきと思います。エンゲルスも原始社会を含め多数の共産主義的所有関係が存在した事を書いており、それを「共産主義」と呼ぶか「共産主義的な概念や体制」と呼ぶかは別にして、近代や資本主義登場後などに突然登場した概念とは言えないと考えます。よろしければ記載させてください。(C)共産主義のサイドバーの削除は強く反対です。当サイドバーは共産主義の関連記事の多くに付いており、その「本体」である「共産主義」の記事に付いていないのでは、ナビゲーションが分断され中途半端で不便です。一般に、サイドバーは右上に置いて関連記事を渡り歩く場合のアイコンやナビゲーションの機能を果たし、末尾のテンプレートは詳細な関連項目の位置づけ確認などの機能を果たしていると考えます。なお主要各国語版では、英語・スペイン語版は両方あり、独・仏・伊語版は両方なく、中文版はサイドバーだけです。各種GUIデザインの影響もあり、分野を問わず世界的にサイドバーが増えている傾向です。私は両方に戻すべきと思いますが、仮に片方のみならば、日本語版では中身の薄い末尾のテンプレートを全記事から削除してサイドバーに一本化すべきと思います。(D)「スターリンによるマルクス主義の修正」から「スターリン主義とトロツキー主義」への節名変更ですが、内容は逆にトロツキー主義の内容の説明がほぼ消えて、トロツキーが反対し追放された程度の記述になったので、節名と内容が不一致に思えます。節名を戻すか、トロツキー主義の説明を多少とも復活させた方が良いと思います。--Rabit gti 2010年12月31日 (金) 08:40 (UTC)
(A)(B) 共産主義思想の起源はバブーフ、というのがシュタインの『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』での見解で、これはマルクス主義の通説として受け継がれていると思います。これを超えて古代や中世の思想について書く必要があるのかどうか、疑問です。プラトンの『国家』は確認してみましたが、女性や子どもの共有について書かれているだけで、近代の共産主義思想につながる思想とは思えませんでした。
(C) 現在末尾に置かれている共産主義のテンプレートは、長い議論の末に縦型から横型に変わり、末尾に配置されたものです。現在の共産主義のサイドバーは以前の共産主義テンプレートと同じ問題を含んでおり、これを生かしてしまうと同じ議論をまた繰り返さなければならなくなります。
(D) 「スターリンによるマルクス主義の修正」と「スターリン主義とトロツキー主義」では、トロツキー主義についての記述はほとんど変わっていません。潮流のところにあったトロツキー主義の説明はちょっと違うような気がしたので移しませんでした。しかしもう少し記述を増やしたほうがいいのは確かです。-Kazhik 2011年1月2日 (日) 01:17 (UTC)
コメントKazhikさんへ。まず、私は今回の再構成の前の 2010年12月18日 (土) 03:27 (UTC) に「現状や主要各国語版と比較して、実質的な内容削減でなければ、節間の移動による全体の整理も賛成です。」と書いており、プラトンやサイドバーの削除はまだ未合意との認識です。(A)(B)シュタインの見解やマルクス主義の通説は私も同認識ですが、記載を「マルクス主義の通説」のみに限定するのではマルクス主義偏重です。当記事は「マルクス主義通説による共産主義」では無いので、世界的に共産主義(的)と呼ばれている特筆性ある思想・体制は併記すべきと考えます。プラトンの思想を「共産主義(的)」と呼んでいる出典は(以下、一部重複リンクもあるかもしれませんが)、日本の書籍では[14][15][16][17][18][19][20][21][22][23]などの他、広辞苑大辞泉では「共産主義」の項目で最初の例がプラトンです[24]。英語での「プラトンの共産主義」(plato's communism)などの出典は、思想・哲学・社会主義などの解説書や百科事典を含め多数存在しており、[25][26][27][28][29][30][31][32][33][34][35][36]The Encyclopaedia Britannicaなど。またウィキペディア各国語版では、英語版はen:Communism#Overviewに「...primitive communism, whilst historical figures like Plato and Thomas More... 」、en:Communism#Historyでは「Early communism」としてプラトンの国家論が引用されています。フランス語版は本文に、ドイツ語版は脚注にですがプラトンが記載されています。なお英語版の「歴史」内の節名は最初が「Early communism」、次が「Growth of modern communism」ですが、日本語版もそれぞれ「初期の共産主義」「近代の共産主義」とする案も判り易いと思います。(C)ご指摘のTemplate‐ノート:共産主義では、前回私が書いたサイドバーと末尾用テンプレートの機能差と共存に関しては言及が無いようです。繰り返しですが、英語・スペイン語版は両方あり(共存)、独・仏・伊語版は両方なし、中文版はサイドバーのみ、です。「これを生かしてしまうと同じ議論をまた繰り返さなければならなくなります。」とありますが、当サイドバーは 2010年7月3日 (土)に作成され[37]、同日に共産主義にも掲示され [38]ましたが、以後はTemplate‐ノート:共産主義のサイドバーも含めてご指摘の「同じ議論」の繰り返しや混乱は現実に発生しておらず、合意もなく今回突然削除すべき理由が全くありません。(D)細かい話ですが、私も同じ認識です。--Rabit gti 2011年1月2日 (日) 16:09 (UTC)
コメント 横から失礼いたします。Ashtrayと申します。Rabit gtiさん、Kazhikさん、Miki08さん、こんにちは。
こちらの記事は、一応Watchlistに入れており、たまにノートの議論もチェックしておりました。
(C)サイドバー・テンプレートについては、私も不要であり削除すべきと考えます。
記事を圧迫させるテンプレを色々作るよりも、記事本体を充実させる方が、遥かに大事ではないでしょうか。(たまに、短いスタブに巨大なテンプレが貼られているのを見ると、正直、かなりゲンナリします。)--Ashtray 2011年1月2日 (日) 18:49 (UTC)
Ashtrayさん、皆さん、こんにちは
(B) 「共産主義思想の起源はバブーフというのがマルクス主義の通説」というのは誤解です。エンゲルスの『空想から科学へ』には次のように書かれています。
「大きなブルジョア運動がおこるたびごとに、近代的プロレタリアートの、多少とも発展した先駆者である階級の、自主的な動きがいつも現われた。たとえば、ドイツの宗教改革と農民戦争との時代における再洗礼派トマス・ミュンツァー、イギリス大革命における平等派(レヴラーズ)、フランス大革命におけるバブーフがそれである。まだ一人前になっていなかった階級のこれらの革命的蜂起とならんで、それにふさわしい理論的表明がおこなわれた。一六、一七世紀には理想的社会状態の空想的な描写が、一八世紀にはすでにあからさまな共産主義理論(モレリーとマブリー)が現われた。」
バブーフの記事にも、バブーフは「ルソーやアベ・マブリー、モレリーなどの啓蒙思想家の著作に接して革命思想に傾倒した。」とあります。
プラトンについては、簡単な紹介(「古代ギリシアのプラトンにも共産制の提唱が見られる。」程度)にとどめ、詳細はリンク先の記事に記述するのが妥当と思います。
(C) スペイン語版に末尾の横長のテンプレートはありません。共産主義のテンプレートが二つ付けられている英語版は特異だと思います。従来のテンプレートに不満がある場合、同じコンセプトのテンプレートをもう一つ作るのではなく、ノートで改善を提案するべきだと思います。
「同じ議論をまた繰り返さなければならなくなります。」は、過去形ではなく、未来形(これから同様の議論を繰り返さなければならなくなるの意味)だと思います。--Miki08 2011年1月3日 (月) 11:23 (UTC)

サイドバーについて

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コメントRabit_gtiです。上記Miki08さんの指摘のように、スペイン語版はサイドバーだけでした。私の勘違いで失礼しました。テンプレートの議論は節構成の議論とは本来は別と思いますが、私の意見は以下です。(a)テンプレート全般について。テンプレートは記事本文を補完・充実させる手法(ツール)にすぎないので、テンプレート万能論もテンプレート排斥も妥当ではなく、単に利点・難点を認識して使い分けるべき。利点は、複数記事で共通する関連項目を整理し共有できる、記事の分野を視覚的に理解するアイコンになる、特にサイドバーはスクロール最少での記事間のナビゲーションが容易、など。難点は、モバイルデバイスを含めた環境によっては適切に表示できず邪魔になる、視覚的表現に趣味が入り込む、特にサイドバーは記事上部の空間を圧迫しレイアウトを乱しやすい、など。つまり、テンプレートだけに頼るのは不適切で、従来からのカテゴリや関連項目との併用・共存のバランスを考慮して使う事が望ましい。(b)サイドバー全般について。この1~2年(2009~2010年)に英語版と日本語版で大幅に増加し、記事によりレイアウトが乱れる等の問題が多発したが、この弊害は幅の標準化(style = width:18.0em)や折畳可能(collapsible)化が進められ緩和された。既に主要な思想・体制・宗教には右上にサイドバーが付けられ、思想の大半は折畳可能。政治思想では自由主義資本主義社会主義社会民主主義アナキズムマルクス主義トロツキズム毛沢東主義左翼共産主義新左翼 (日本)保守君主主義ファシズムナチズムリバタリアニズム統治機構など、宗教ではキリスト教ユダヤ教イスラム教仏教ヒンドゥー教など、その他には政治政党政治哲学経済学など。現在、主な政治思想でサイドバーが無いのは、当共産主義と、比較的マイナーな思想など。サイドバーが本当に適切かとの疑問はあるが、実際問題としてこの潮流は止められず、時代の趨勢に抵抗してもいずれは淘汰されると考えます。(c)「共産主義」のテンプレートについて。現在は、従来からのTemplate:共産主義と、2010年7月からのTemplate:共産主義のサイドバーが存在し、内容重複しています。私は2種類共存も賛成ですが、仮に片方ならサイドバーを残すべきと考えます。理由の1つは上記 (b)で、既に他の大多数の思想ではサイドバーが一般的なため。理由の2つめは、現在の「Template:共産主義」は極端に内容不足しており「マルクス主義偏重」どころか「マルクス・レーニン主義偏重で、更に中身が無い」事。「国際組織」はコミンテルンから始まっており第一インターナショナルすら無い。「出来事」は「ロシア革命」から始まっており、世界最初の共産主義革命政府であるパリ・コミューンすら無い。「人物」は「マルクス」から始まっており、バブーフは無い。仮にマルクス・レーニン主義だけで考えても、「階級闘争」や「国際主義」や「プロレタリア独裁」や「共産党」へのリンクすら無い。現在の内容の理由が、仮に「過去の長い議論」の結果ならば、必要に応じて再度でも議論して充実すべきですし、仮に現在の内容のままならば「Template:マルクス・レーニン主義」に改名すべきです。(当ノートで異論が無ければ私がTemplate‐ノート:共産主義で改名提案します。)しかしTemplate:共産主義のサイドバーは、他の大多数の思想と同じ形のサイドバーで、各国語版と同様に共産主義の関連項目を既に網羅しており、既に折畳可能なのでレイアウト上の影響は大きくなく、既に2010年7月からの実績があります。--Rabit gti 2011年1月3日 (月) 15:51 (UTC)
私が持っているスマートフォン(Android系)で「共産主義」を開くと、最初に表示されるのは経済システムのサイドバーです。1ページ以上スクロールしないと本文に到達しません。共産主義のサイドバーを復活させたら状況がさらに悪化します。3つサイドバーが並んでいる現在の「マルクス主義」などは本当にひどい状態です。「共産主義」の項目を開く人はまず共産主義について知りたいのであって、関連項目へ飛びたいわけではないのですから、現状は明らかに不合理です。弊害は緩和された、とはぜんぜん思えません。
テンプレートやサイドバーは肥大化しやすい傾向があるので、基準を明確にして項目数を絞り込む必要があります。現在の共産主義サイドバーは基準が不明で項目数が多すぎます。しかし「記事を圧迫させるテンプレを色々作るよりも、記事本体を充実させる方が、遥かに大事」というAshtrayさんの意見に私も賛成で、共産主義テンプレートや共産主義サイドバーに関する議論に時間をとられたくありません。共産主義サイドバーの復活を支持する意見が多いのであれば、あえて反対はしないことにします。-Kazhik 2011年1月7日 (金) 21:50 (UTC)
コメント上記Kazhikさんへのコメントです。私の上述(2011年1月3日 (月) 15:51 (UTC))のように、サイドバーはツールで、好き嫌いはありますが、長所と短所があり日本語版の主要な思想の大多数記事で既に使われています。Kazhikさん指摘の、特にモバイル端末などで画面スペースを大幅に占有する弊害の大部分は、合意なく削除されたTemplate:共産主義のサイドバーでは折畳可により緩和されており、逆に残されたTemplate:経済システムのサイドバーの折畳未対応が原因です。つまり当記事では、内容が共産主義で折畳可なTemplate:共産主義のサイドバーを、内容が共産主義ではなく折畳未対応のTemplate:経済システムのサイドバーより優先掲示すべきです。なお、Template:経済システムのサイドバーの折畳対応は別途行います (追記:折畳対応しました修正前 修正後 --Rabit gti 2011年1月8日 (土) 05:35 (UTC))。また現在の末尾のTemplate:共産主義は、内容が上述のように全く不適切なので、(a)各国語版(en:Template:Communismなど)に合わせて編集対応 (b)現在の内容に合わせてテンプレート名を「Template:マルクス・レーニン主義」と改名 (c)サイドバーと内容重複のため廃止、のいずれかが必要ですが、これはTemplate‐ノート:共産主義で議論します。一般的には、記事に最も関連する内容を含んだサイドバーの最小限を掲示すべきで、記事の範囲や長さにもよりますが、共産主義ならばTemplate:共産主義のサイドバーマルクス主義ならばTemplate:マルクス主義だけで良いと思います。とりあえず反映しました[39][40]。それぞれ表示上および内容上の問題は軽減したのではないでしょうか? また、編集者が本文・画像・テンプレート・レイアウトなどのうち、どれに時間をかけたいかは本人の自由で、各分野からの参加が理想で、全体のバランスも重要と思います。--Rabit gti 2011年1月8日 (土) 04:18 (UTC)

赤い星(画像)について

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LaBedoyereさん、はじめまして
赤い星を削除した理由ですが、目立つシンボルマールが真っ先(左上)に掲示され、説明がその後に続くというスタイルは、その思想に味方している印象を与え、中立的でないように思います(版表示)。また、右上に赤い星が表示されており、重複しているので、「概要」節の先頭の赤い星は削除させていただきました。
それから、『バブーフの陰謀』のページを教えていただけないでしょうか? --Miki08 2010年12月7日 (火) 07:27 (UTC)
コメント 横から失礼します。この件は LaBedoyere さんのコメント「「赤い星が罪悪感・・」というのは中立的観点に違反すると思いますけど・・[41]に同感です(正確には「嫌悪感」にせよ)。まず、主要各国語版では赤い星は単独画像かテンプレート内かの片方の例が多く、重複削除自体は反対も賛成もしません。しかしウィキペディアでは記事の先頭にその記事のシンボルを掲示するスタイルは非常に一般的で、それが左寄せであれ、「その思想に味方している印象を与え、中立的でない」や「真っ赤な画像が嫌悪感を抱かせ理解の妨げになる可能性があります[42]との削除理由は独自研究で非中立的です。「キリスト教」には複数の十字架、「ユダヤ教」には複数のダビデの星、「国家社会主義ドイツ労働者党」には複数のハーケンクロイツが掲示されています。いずれも個人的な嫌悪感を理由に削除すべきではありません。またMiki08さんは「Template:共産主義のサイドバー」でも「真っ赤なサイドバーに嫌悪感を感じ、理解の妨げになる可能性があるため」と理由を書いて類似行為をしています[43]。理由にならない理由で、客観的な観点から掲示された歴史的なシンボルや配色を改悪すべきではありません。また、Miki08さんの削除により「共産主義のシンボルである赤い星」の記述まで削除され、シンボルの記述が記事中に全く無くなったのは不適切なので、とりあえず「概要」の末尾に追記しました[44]。全体も考慮してください。--Rabit gti 2010年12月8日 (水) 14:51 (UTC)
画像の重複というのはその通りなので、画像の削除は特に問題はないと思うから、戻さなかったのですが、「赤い星」について、それがどちらに味方するとかいうのは、あなたの独自研究というか個人的政治信条でしょう。削除動機自体は、中立的観点に欠けるというのは事実だと思います。実害はないけども、注意すべきことだと思います。百科事典としては、「赤い星」が、どのような意味をもつのか、それが人々にどのように受け取られるかを、すべて書くべきではないでしょうか。私は包摂主義であるべきと思いますよ。削除主義は無意味です。
『バブーフの陰謀』は記事作成依頼がでてたので、制作中です。--LaBedoyere 2010年12月9日 (木) 04:35 (UTC)

21世紀の共産主義について

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この「21世紀の共産主義」の項では、特に出典明記も無く書かれてますが、読むと資本主義は失敗し、新しい共産主義が望まれていると言った主旨の文章に感じられます。 これは私の事実認識と大きく違います。 まず、資本主義国家の新自由主義の拡大により貧富の格差が広がった事は常にマスコミに指摘されている観念だと思いますが、だからと言って、貧困層の割合や程度が共産圏の人たちよりも酷いとは思えませんし、その様な報道も見た事が有りません。 国家別の一人当たりのGDPを見比べると、総じて豊かなのは資本主義国家です。 また、昨今の世界不況は資本主義だからとかそう言う話では無く、世界貿易の影響、つまり中国が富の独り占めをしている事に起因している面が大きく有ります。(中国は世界経常収支トップを維持していますが、しかしそれでさえ未だ貧困層の割合や程度は先進国よりも酷いのですから、そう言う意味でも資本主義の失敗を語るのは時期尚早です。) また、リーマンショック時には、行き過ぎた新自由主義への批判(主にレバレッジ批判)が巻き起こりましたが、その時に「そうかも知れない。しかし社会主義は歴史的に失敗だったのは明らかだから新自由主義の見直しで対処すべきだ」と言うのがアメリカが出した結論であり、これにEUも追随しています。 よって、新自由主義への批判やこれの見直しをしようと言う声は多く聞きますが、新たな共産主義を模索しようなどと言った声は一度も聞いた事が有りません。 (つまり、新しい資本主義の在り方と言う議論だと認識しています。) リーマンショック時の報道ベースなので、私自身でソースを揃えるのが難しい事から、直接記事の編集は致しませんが、出来れば当時の報道事実を出典の上、正しい記述への修正が望まれます。 また、1ヶ月程度様子を見た上で改定が行われず、また異論も出ない様でしたら、この項をとりあえず全面削除したいと思います。--Toshi999 2011年8月20日 (土) 02:55 (UTC)

コメント 現在の共産主義#21世紀の共産主義の内容は、出典が無く、独自研究的で、共産主義というより社会主義の話が書かれており、社会主義#ソ連崩壊後と内容重複と思います。ただしToshi999さん記載の「私の事実認識」も、百科事典に記載するには同様に一面的に思えます(共産主義や社会主義や資本主義にも色々あり、どちらが失敗とか成功とか単純には言えない。何が「豊か」かは議論がある。各国で共産主義を掲げる政党や思想も存続している)。特定の世界認識を語るのではなく、節名は「現在」にして、en:History of communismなども参考に、現存するインターナショナル (社会主義)などの事実を記述したいと思います。--Rabit gti 2011年8月21日 (日) 08:31 (UTC)
コメント Rabit gtiさん、コメント有難うございます。「私の事実認識」にソースを揃えられず本文改正に介入出来る根拠を持たない事は指摘されるまでも無く既に自己申告済みです。なので私は、既に記述されている文章について出典を明確に出来ないまま偏った文章を残すぐらいなら、出典が明確になるまで「とりあえず」全面削除する事を提案しています。しかしながら、もしRabit gtiさんが適切な文章に改正出来るのであれば、まずはその改正を待ちたいと思いますが、前述の通り1ヶ月程度様子を見て改正もなされず、また出典明記もなされない様でしたら、「とりあえず」全面削除の方向性は維持したいと思います。--Toshi999 2011年9月1日 (木) 07:56 (UTC)
中立的な観点で使えそうな記述を残し、よりましな記述にしてみました。--Miki08 2011年9月2日 (金) 02:35 (UTC)
私はMiki08さんの修正で異論は有りません。--Toshi999 2011年9月10日 (土) 16:54 (UTC)
コメント 修正後を拝見しましたが、(1)「21世紀の社会主義」という表現はあるが、節名の「21世紀の共産主義」は一般的な表現ではない (2)ラテンアメリカの社会主義志向の左派政権は、通常は「共産主義」とは呼ばれていない (3)「資本主義も色々な困難を抱えている」などの表現は曖昧で主観的(どの国家もどの思想も困難を抱えているのは当たり前で記述する意味が無い)、などのため、とりあえず客観的事実の列挙に修正しました[45]。--Rabit gti 2011年9月12日 (月) 15:42 (UTC)
Rabit gtiさんの修正でも私は異論無しです。要は私的に「資本主義は失敗し共産主義が望まれている」的な受け取られ方がしない文章なら全く問題無しです。--Toshi999 2011年9月12日 (月) 20:49 (UTC)