「中島尚俊」の版間の差分
編集の要約なし |
|||
44行目: | 44行目: | ||
== 国鉄時代 == |
== 国鉄時代 == |
||
国鉄旅客局営業課時代には商品造成を研究する若手職員中心グループのリーダーをしていた。 |
国鉄旅客局営業課時代には商品造成を研究する若手職員中心グループのリーダーをしていた。 |
||
このグループの議論で『[[フルムーン夫婦グリーンパス]]』『[[ナイスミディパス]]』が発案された。<ref>[[須田 |
このグループの議論で『[[フルムーン夫婦グリーンパス]]』『[[ナイスミディパス]]』が発案された。<ref>[[須田寬]]著『須田寛の鉄道ばなし』p178-181</ref> |
||
== 脚注 == |
== 脚注 == |
2020年12月21日 (月) 03:29時点における版
なかじま なおとし 中島尚俊 | |
---|---|
生誕 |
1947年2月11日 北海道旭川市 |
死没 |
2011年9月中旬(64歳没) 北海道小樽市(遺体発見現場) |
出身校 | 東京大学経済学部卒 |
職業 | 北海道旅客鉄道代表取締役社長 |
中島 尚俊(なかじま なおとし、1947年(昭和22年)2月11日 - 2011年(平成23年)9月中旬)は、日本の会社役員で北海道旅客鉄道(JR北海道)の元代表取締役社長。
人物
北海道旭川市の旭川鉄道管理局職員の家に生まれる。1969年(昭和44年)に東京大学経済学部を卒業し、日本国有鉄道(国鉄)に入職した。同期は20人の中には石原進や小池明夫がいた。
入社後は営業職を中心に勤務[1]。1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化によりJR北海道に転籍、同社の鉄道事業本部営業部長を経て、1994年(平成6年)に取締役、 1998年(平成10年)常務取締役旅行本部長、2003年(平成15年)6月に 代表取締役専務鉄道事業本部営業推進本部長、2007年(平成19年)6月に代表取締役社長に就任。
2011年(平成23年)9月12日、遺書を残し同日朝から行方不明であることをJR北海道が発表[1]。午後には石狩市内の海岸で本人の自家用車が発見される。同年9月18日早朝、釣り人が北海道小樽市・オタモイ海岸の沖合約1キロの海上で遺体を発見し、小樽海上保安部(第一管区海上保安本部所属)の巡視艇が収容した。北海道警の検視の結果、指紋などから遺体が本人であると確認された[2][3]。
その後、遺書のうち社員宛てのものが公表された。そこには自殺の動機について直接的な表現はなかったが、当時社内で発覚した三六協定違反の謝罪や、同年5月に発生した石勝線特急列車脱線火災事故に触れたうえで安全意識の向上を社員に促す、といった文面がつづられていた[4]。
中島の死の直前においてJR北海道と労組とのあいだで合意文書が締結されようとしていたが、この文書の内容には、労組側に有利な現場協議制度の復活に相当する労使関係の再確立も含まれており、それまで組合を敵視していた中島や島田修ら経営陣が進めてきた方策が白紙に戻されるものであった。中島の自死は、合意書へのサインによって自らの労政改革が否定され、JR北海道の労使関係が旧国鉄時代にまでさかのぼることを悩んだ末のものであったともいわれる[5]。
なお、JR北海道相談役であった坂本眞一は中島の死と組合問題の関連を否定していたが、3年後の2014年に自殺している[6]。
国鉄時代
国鉄旅客局営業課時代には商品造成を研究する若手職員中心グループのリーダーをしていた。 このグループの議論で『フルムーン夫婦グリーンパス』『ナイスミディパス』が発案された。[7]
脚注
- ^ a b “JR北海道:中島尚俊社長が行方不明 家族らに書き置き”. 毎日新聞. (2011年9月13日). オリジナルの2012年7月18日時点におけるアーカイブ。 2011年9月18日閲覧。
- ^ “失踪のJR北海道社長、遺体を確認…小樽沖”. 読売新聞. (2011年9月18日18時13分 (JST))
- ^ “小樽沖の男性遺体、JR北海道社長と確認”. 朝日新聞. (2011年9月18日17時42分 (JST))
- ^ “JR北海道 中島社長が社員に残した遺書全文”. Response.. (2011年9月19日8時45分 (JST))
- ^ 西岡研介 (2018). “スクープ!元社長の自殺に新事実 JR北海道「組合介入」を許した経営”. 週刊 東洋経済 6800: 54-56.
- ^ 次郎, 吉野. “死の1カ月前、“最後”のインタビュー JR北海道相談役、坂本眞一の遺言” (日本語). 日経ビジネスオンライン 2018年6月29日閲覧。
- ^ 須田寬著『須田寛の鉄道ばなし』p178-181
外部リンク
|
|
|