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名古屋貨物ターミナル - 大府間の19.5kmは1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化で「処分対象資産」とされて土地・高架橋の多くが[[日本国有鉄道清算事業団]]の所有となった<ref name="朝日新聞1992-07-19"/>。1992年時点で(南方貨物線・西名古屋港線に並行する)東海道線名古屋 - 笠寺間を走る貨物列車の数は1日上下各60本ほどだったが、貨客混合の同区間のダイヤは既に過密状態で増発が困難な状況となっていた<ref name="朝日新聞1992-07-19"/>。
名古屋貨物ターミナル - 大府間の19.5kmは1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化で「処分対象資産」とされて土地・高架橋の多くが[[日本国有鉄道清算事業団]]の所有となった<ref name="朝日新聞1992-07-19"/>。1992年時点で(南方貨物線・西名古屋港線に並行する)東海道線名古屋 - 笠寺間を走る貨物列車の数は1日上下各60本ほどだったが、貨客混合の同区間のダイヤは既に過密状態で増発が困難な状況となっていた<ref name="朝日新聞1992-07-19"/>。


その後、1991年(平成3年)2月15日の[[衆議院]]連絡委員会では[[運輸省]](現:[[国土交通省]])の審議官が「南方貨物線を旅客線として活用したい」との意向を示したが、2月20日の記者会見で[[東海旅客鉄道]](JR東海)社長の[[須田]]は「議事録を精読したが『JR東海に売る』とまで踏み込んだ答弁内容ではなかったと認識している。旅客線として活用しても採算が合わない見込みが強く、活用するとなれば(この時点で)さらに百数十億円の投資が必要であり、とても当社の手に負える代物ではない。買い取る意思は全くない」と述べ、運営に関わりを持つことを否定した<ref>『[[中日新聞]]』1991年2月21日朝刊1面「買い取る意思ない JR東海社長 南方貨物線で表明」</ref>。
その後、1991年(平成3年)2月15日の[[衆議院]]連絡委員会では[[運輸省]](現:[[国土交通省]])の審議官が「南方貨物線を旅客線として活用したい」との意向を示したが、2月20日の記者会見で[[東海旅客鉄道]](JR東海)社長の[[須田]]は「議事録を精読したが『JR東海に売る』とまで踏み込んだ答弁内容ではなかったと認識している。旅客線として活用しても採算が合わない見込みが強く、活用するとなれば(この時点で)さらに百数十億円の投資が必要であり、とても当社の手に負える代物ではない。買い取る意思は全くない」と述べ、運営に関わりを持つことを否定した<ref>『[[中日新聞]]』1991年2月21日朝刊1面「買い取る意思ない JR東海社長 南方貨物線で表明」</ref>。


翌[[1992年]](平成4年)1月10日、[[運輸政策審議会]]答申12号([[名古屋圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について]])にて運輸省[[事務次官]]・中村徹から「東海道本線の混雑緩和を目的に西名古屋港線<ref>[[2004年]]に[[名古屋臨海高速鉄道西名古屋港線]](通称「あおなみ線」)として旅客開業した。</ref>とともに旅客線として開業させてはどうだろうか?」と提案が出され<ref name="中日新聞1992-01-11">『中日新聞』1992年1月11日朝刊3面「南方貨物線を旅客線に 中村運輸次官 活用の意向を示す」</ref>、「鉄道貨物輸送力増強の必要性、旅客輸送動向などを勘案して検討する」とされた<ref>『中日新聞』1993年3月6日朝刊東海総合面19面「南方貨物線 完成急げ 経団連物流部会 地元財界と懇談」</ref>。しかし、[[東海道線 (名古屋地区)|名古屋地区]]第二のターミナルである[[金山駅 (愛知県)|金山駅]]を経由せず名古屋駅 - [[熱田駅]]間を迂回している上「同区間の当時の混雑率(約135%)では意義は薄い」とされ見送られた{{Sfn|川島|1996|pages=167-174}}{{Sfn|川島|2003|pages=202-209}}<ref>『中日新聞』1992年6月4日朝刊東海総合面19面「名古屋圏交通網整備推進協の初会合 上飯田連絡線 実務者級で検討 地下鉄4号、上飯田連絡線 次期路線で準備」</ref>。西名古屋港線の旅客化工事の際には南方貨物線が分岐できる構造となっていた高架橋がその阻害となったため、該当部分が撤去された{{Sfn|川島|1996|pages=167-174}}{{Sfn|川島|2003|pages=202-209}}。
翌[[1992年]](平成4年)1月10日、[[運輸政策審議会]]答申12号([[名古屋圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について]])にて運輸省[[事務次官]]・中村徹から「東海道本線の混雑緩和を目的に西名古屋港線<ref>[[2004年]]に[[名古屋臨海高速鉄道西名古屋港線]](通称「あおなみ線」)として旅客開業した。</ref>とともに旅客線として開業させてはどうだろうか?」と提案が出され<ref name="中日新聞1992-01-11">『中日新聞』1992年1月11日朝刊3面「南方貨物線を旅客線に 中村運輸次官 活用の意向を示す」</ref>、「鉄道貨物輸送力増強の必要性、旅客輸送動向などを勘案して検討する」とされた<ref>『中日新聞』1993年3月6日朝刊東海総合面19面「南方貨物線 完成急げ 経団連物流部会 地元財界と懇談」</ref>。しかし、[[東海道線 (名古屋地区)|名古屋地区]]第二のターミナルである[[金山駅 (愛知県)|金山駅]]を経由せず名古屋駅 - [[熱田駅]]間を迂回している上「同区間の当時の混雑率(約135%)では意義は薄い」とされ見送られた{{Sfn|川島|1996|pages=167-174}}{{Sfn|川島|2003|pages=202-209}}<ref>『中日新聞』1992年6月4日朝刊東海総合面19面「名古屋圏交通網整備推進協の初会合 上飯田連絡線 実務者級で検討 地下鉄4号、上飯田連絡線 次期路線で準備」</ref>。西名古屋港線の旅客化工事の際には南方貨物線が分岐できる構造となっていた高架橋がその阻害となったため、該当部分が撤去された{{Sfn|川島|1996|pages=167-174}}{{Sfn|川島|2003|pages=202-209}}。

2020年12月21日 (月) 03:27時点における版

南方貨物線
建設途中で放棄された高架橋
建設途中で放棄された高架橋(2012年4月)
概要
現況 未開業
起終点 起点:八田貨物駅(仮称)
終点:大府駅
運営
所有者 日本国有鉄道
路線諸元
路線総延長 約 26 km
軌間 1,067 mm (3 ft 6 in)
電化 直流1,500 V 架空電車線方式
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南方貨物線(なんぽうかもつせん)とは、日本国有鉄道(国鉄)が愛知県内で建設していた東海道本線貨物支線未成線)。名古屋市名古屋貨物ターミナル駅1980年開設)から笠寺駅を結び、笠寺駅から東海道本線と線路別複々線で並行して同県大府市の東海道本線大府駅に至る予定だったが、完成間際で工事が凍結され、開業に至ることなく放棄された。

概要

国鉄が貨物輸送においてまだシェアを多く持っていた昭和40年代、東海道本線の名古屋駅周辺において速度の遅い貨物列車旅客列車の妨げになっていたため、別線敷設による複々線化を行って、これを解消するとともに貨客分離を行い、増大する輸送量を増強することを目論むようになった[1][2][3]。また、名古屋における貨物駅は名古屋駅南方の都心部近くに設けられていた笹島駅であったが、これが手狭になっていたことから、南へ移転する形で「八田貨物駅(仮称、後に名古屋貨物ターミナル駅として開業)」という新駅を開設することにもなった。この両者の目的により、東海道本線のバイパスとして建設されることになったのが、この「南方貨物線」である[1][2][3]

計画では東海道線(名古屋 - 稲沢枇杷島間及び笠寺 - 岡崎間)・岡多線(岡崎 - 瀬戸市間)・瀬戸線(瀬戸市 - 稲沢・枇杷島間。このうち勝川 - 高蔵寺間では中央線に並行)・関西線笹島信号場 - 名古屋間)とともに中京圏大環状線を形成する予定であった[1][2]

路線データ

  • 路線距離:八田貨物駅(仮称) - 大府駅間 約26km
  • 電化区間:全線(直流1,500V)
  • 複線区間:全線
  • 三線区間:八田貨物駅(仮称) - 名古屋港線交点(仮称)

歴史

名古屋付近鉄道総合改良計画

南方貨物線の原型は1939年(昭和14年)に鉄道省岐阜工事事務所(後の国鉄岐阜工事局)が立案した名古屋付近鉄道総合改良計画にある。当時、日中戦争勃発後の軍需輸送増大により稲沢操車場の貨車中継能力が限界に達しており、同計画では貨物輸送増強策の一環として新たに八田、勝川、大府に操車場を設けることが構想されていた。付随する貨物線の新設も検討され、それぞれ南方貨物線(八田)、北方貨物線(勝川)、東方貨物線(大府)と呼ばれていた[4]。この中では八田操車場と南方貨物線がもっとも有力視され、1941年(昭和16年)から翌年にかけて東海道本線大府 - 枇杷島間の線増扱いで測量費が予算計上され、地形測量が実施された[5][6]

一方、鉄道省名古屋鉄道局運輸部でも岐阜工事事務所の計画と前後して貨車中継の改良計画を立てていたが、むやみに操車場を新設するのは貨車の輸送効率の面で不利であり、同局では稲沢操車場にハンプを2か所設ける一大ヤードとする案を推していた[7]。このため八田操車場の新設は省内も賛否両論であったが、最終的には稲沢・八田の2操車場案でまとまり、1943年(昭和18年)以降も南方貨物線・八田操車場の建設を推進することとなった。しかし、戦争の激化により同年以降は予算計上できず、計画はいったん棚上げとなった[5][8]

計画の再開からルート選定まで

南方貨物線のルート選定(赤線が最終決定案)

終戦後はただちに測量が再開され、1946年(昭和21年)4月には当時の計画線28kmの測量を終えた。同年9月には天白川 - 枇杷島間の用地設計案を運輸省に上申し、翌年には鉄施第645号として承認された[6]。その後、南方貨物線計画は名古屋市の都市復興計画と連動して構想された名古屋付近鉄道復興計画(鉄施第1492号)に組み込まれた[9][6]。当時の計画ルートは最終決定案とやや異なり、関西本線を跨ぎ越して市街地を北上し、庄内川を渡り五条川信号場付近で稲沢線に合流するという、後に「中村ルート」と呼ばれるルート案に近いものであった[6]

南方貨物線は東海道本線の線増を目的としていたが、同様の目的を別の形で推し進める新幹線建設計画が立ち上げられるとそちらが優先され、貨物線の分離のみを目的とする南方貨物線計画は再び停滞する。不要不急論に対し、当時名古屋港東岸(東臨港)の貨物線整備が不十分であったため、臨港地域の貨物集約機能を南方貨物線に付加する案も出された(「海岸線ルート」)[6][10]。種々検討の結果、ルートを大府 - 笠寺 - 八田 - 笹島に変更し、さらに貨物専用ではなく旅客輸送も行う計画に修正されたが、これも1961年(昭和36年)の東港線建設決定(のちに臨海鉄道方式に移行)により廃案となる[6]

このように構想と中断を繰り返した南方貨物線だが完全に中止されることは無く、1962年(昭和37年)2月には国鉄常務会(第234回)の承認を経て新幹線平行区間(笠寺・堀川間)の用地が新幹線用地と共に買収され[6]1964年(昭和39年)に企画された第3次長期計画(1965年を初年度とする7か年計画)にも東海道本線大府 - 名古屋間複々線化工事として予算計上されていた[11]。その後、計画ルートの選定も新幹線工事の進捗と共に最終段階となり、区間別に以下のような比較検討が行われた[6]

大府 - 笠寺間
臨港貨物集約機能を兼ねる「海岸線ルート」が比較検討されたが、大きく迂回し地盤も悪いことから建設費が膨大となるため、当初案通り本線併設ルートが選定された[10]
笠寺 - 名古屋間
笠寺以北の併設は市街地のため建設費が高くつくこと、同区間も併設にすると八田操車場と連絡できないことから、この区間は笠寺・八田間の「運河ルート」が選定された[10]。なお、堀川・八田間約2km区間については1963年(昭和38年)にルートの再検討が名古屋市との間で行われ、南郊・小碓運河利用案と東海通直上高架案の二案が提示されていた。これも比較検討の結果、埋め立て計画により用地取得が容易になる南郊・小碓運河利用案が採用された[6]
八田 - 枇杷島間
この区間を「中村ルート」にすれば瀬戸線ともども名古屋駅を経由する必要がなくなり、貨客分離の観点からもメリットがあった。しかし中村区の家屋密集地域を縦貫するため、市との設計協議さえ困難な状況であった。建設費の高騰も予想されたため、結局、国鉄用地のみでほぼ建設可能な名古屋経由ルートが選定された[12]

選定ルート案は1966年(昭和41年)4月の常務会で承認され、同年5月の設備投資計画に盛り込まれた(用地費52億円、主体工事費114億円、付帯電気工事費25億円で総額191億円)[6]。新設線は貨物専用とし、24時間走行とした[13]

着工から建設凍結まで

1972年(昭和47年)10月の完成を目指し[6]、建設工事は1967年(昭和42年)3月より開始された[14][15]。なお当工事は輸送力増強が目的であったため、日本鉄道建設公団ではなく国鉄自身の手で行われた[1][2]。総工事費は約三百数十億円が見込まれ、1983年の工事凍結時点までに費やされた300億円はすべて借金(金利年約20億円)で賄われた[16]1969年(昭和44年)度末時点の工事進捗率は36%(用地57%、主体工事30%)であった[6]

だが、国鉄における貨物シェアがトラックの普及や労使紛争の影響で激減し、貨客混合の複線のままでも充分になったことにより路線の建設意義が薄くなってしまったことや[1][2][3]、地元から騒音振動公害を懸念して建設反対運動(名古屋新幹線訴訟)が起こったことから1973年(昭和48年)に東海道新幹線と並行する区間の工事が中断され[16]1975年(昭和50年)には工事が事実上凍結された[1][2][14]。その後、1979年(昭和54年)暮れには環境対策で住民らとの和解が成立したため1980年(昭和55年)にいったん工事が再開されたが、完成間近となった1982年(昭和57年)9月に国鉄が「安全確保対策を除き原則として設備投資を停止する」と閣議決定したため、翌1983年(昭和58年)1月には名古屋市内の未着工部分約1.3kmを残して再び工事が中止された[16]

1983年の工事凍結時点で用地買収は100%完了していたほか、その大半が高架橋である路盤も未完成部分の路盤わずか約500mを除き[15]、工費約345億円(用地買収費用を含む)をかけてほぼ全線の工事(名古屋貨物ターミナル - 笠寺間の高架橋部分12.7km、全体の約90%)が完成しており[1][2][14]、「完成部分は線路を敷くだけ」といった状況まで進捗していた[1][2][15]

名古屋貨物ターミナル駅は1980年に開業したものの、その先の南方貨物線が開業しなかったことから、同駅から東海道本線東京方面への貨物列車が稲沢操車場までスイッチバックを強いられることとなった結果[1][2]、東京貨物ターミナル駅までの所要時間は当初の予定より約1時間長くなるタイムロスが発生することとなった[14]。また名古屋貨物ターミナル駅北方には同駅と関西本線四日市方面を連絡する連絡線を敷設し、関西本線と西名古屋港線のデルタ線を形成する計画が存在したが、この計画も建設途中で中止されている。

建設再開計画の迷走

会計検査院は工事凍結中の1985年(昭和60年)11月までに「これまでに建設のため投入された資金はすべて借金で、金利だけで毎年約20億円ずつ増えている状況だ。国民経済上大きな損失となっているため、早急に何らかの改善が図られるべきだ」と事態の進展を求めていたが、国鉄建設局はこれに対し「着工当時と比較して貨物輸送が激減しており、新たな貨物線の建設は無意味だ。今後のことは国鉄分割民営化で同線を継承するだろう新会社(後のJR東海)が決めるが、それまでは工事凍結となり金利が累積することもやむを得ない」と回答していた[16]。また、当時『読売新聞』の取材に対し北井良吉・国鉄開発工事課長は「着工から20年近く経過しても未完成なのは残念だが、国鉄を取り巻く諸情勢が変化して国の方針で建設が中止されたことも理解していただきたい。巨費を投じて鉄道路線として建設した以上、将来的にはぜひ鉄道路線として利用したいと願っている」とコメントしていた[16]

名古屋貨物ターミナル - 大府間の19.5kmは1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化で「処分対象資産」とされて土地・高架橋の多くが日本国有鉄道清算事業団の所有となった[14]。1992年時点で(南方貨物線・西名古屋港線に並行する)東海道線名古屋 - 笠寺間を走る貨物列車の数は1日上下各60本ほどだったが、貨客混合の同区間のダイヤは既に過密状態で増発が困難な状況となっていた[14]

その後、1991年(平成3年)2月15日の衆議院連絡委員会では運輸省(現:国土交通省)の審議官が「南方貨物線を旅客線として活用したい」との意向を示したが、2月20日の記者会見で東海旅客鉄道(JR東海)社長の須田寬は「議事録を精読したが『JR東海に売る』とまで踏み込んだ答弁内容ではなかったと認識している。旅客線として活用しても採算が合わない見込みが強く、活用するとなれば(この時点で)さらに百数十億円の投資が必要であり、とても当社の手に負える代物ではない。買い取る意思は全くない」と述べ、運営に関わりを持つことを否定した[17]

1992年(平成4年)1月10日、運輸政策審議会答申12号(名古屋圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について)にて運輸省事務次官・中村徹から「東海道本線の混雑緩和を目的に西名古屋港線[18]とともに旅客線として開業させてはどうだろうか?」と提案が出され[19]、「鉄道貨物輸送力増強の必要性、旅客輸送動向などを勘案して検討する」とされた[20]。しかし、名古屋地区第二のターミナルである金山駅を経由せず名古屋駅 - 熱田駅間を迂回している上「同区間の当時の混雑率(約135%)では意義は薄い」とされ見送られた[1][2][21]。西名古屋港線の旅客化工事の際には南方貨物線が分岐できる構造となっていた高架橋がその阻害となったため、該当部分が撤去された[1][2]

このころにはトラック輸送業界の人手不足・大気汚染交通渋滞による遅配などからモーダルシフトが進み特に長距離の貨物輸送にて鉄道貨物輸送が見直されてきていたため[22]、陸運業界を中心に開業への期待が高まっていた[14]

  • 日本放送協会 (NHK) 解説委員だった藤吉洋一郎は1992年に放送されたNHKの番組で「南方貨物線を当初計画通り整備する必要がある。さらに東京 - 大阪間に貨物専用線を新たに敷くと2兆円を超す経費が掛かるが、貨物列車がその分増発できトラックから輸送転換ができる」として南方貨物線の建設再開の必要性を訴えていた[23]
  • また「開業による所要時間短縮で東京方面まで本来より約1時間のタイムロスが解消できる」との期待からも[14]、1992年6月5日に名古屋商工会議所ホールで開かれた鉄道貨物協会名古屋支部の通常総会では[南方貨物線の早期開業を国に働き掛ける決議」がなされ[24]西濃運輸会長だった田口利夫も「関係機関へなんとか完成をの働き掛けたい」と述べていた[14]

しかし「課題点だった建設費の資金難については、幹事会でも『トラック運送業界や愛知県・名古屋市など関係自治体、JR東海・日本貨物鉄道(JR貨物)などで第三セクターを設立するしかない』と意見こそ一致していたが[22][14]、資金負担を巡って思うように計画が進まなかった上、開業後に南方貨物線を利用して貨物列車を運行することが予想されたJR貨物も「開業に必要な建設費は我々ではとても負担できない」と反応したほか、土地・高架橋を保有していた日本国有鉄道清算事業団(現:鉄道建設・運輸施設整備支援機構)も「資産を処分するのが役割で、建設主体になるのはあり得ない」という反応だった[14]

その後も西名古屋港線の金城ふ頭駅から海底トンネルで空港まで結ぶ案とともに笠寺駅で接続する名古屋臨海鉄道東港線南港線経由で名鉄常滑線と接続し、常滑市沖に建設された中部国際空港(セントレア)への空港連絡鉄道として活用する」という案も出されたが[22][15]、この計画も実現しなかった。2000年(平成12年)には国鉄清算事業本部が改めてJR東海・JR貨物両社に引き受けを打診するも拒否され、翌2001年(平成13年)5月には愛知県・名古屋市両者にも活用案を断られた[25][26]

開業断念・高架橋解体

2001年8月、中部運輸局は南方貨物線の鉄道路線としての利用を断念し、撤去費総額300億円を前提に2002年(平成14年)度の撤去費用46億円を予算要求した[27]

景観の改善・老朽化による崩壊の危険性から2002年より[1][2][3]、笠寺駅・大高駅周辺などJR東海に移管された約8kmを除く未開通区間の高架橋約12km分を解体費用約300億円をかけて撤去し、更地にして土地を一般競争入札で売却することが決定された[25][26]。2002年3月27日に成立した国の新年度当初予算で、2002年度分の撤去費用として46億円が計上されたが、バブル経済崩壊による地価下落の影響・幅10mほどの細長い土地形状という事情から、撤去費との差額分にも国費が負担されることとなった[25]。結局、河川上に架かった橋梁の撤去費用を除いても、約13kmの高架橋を更地化する経費として約200億円が必要になったのに対し、売却で回収できる金額は約40億円程度に留まることになった[28]

南方貨物線の建設中止について、名古屋新幹線訴訟の弁護団は「南方貨物線の撤去はそれ自体朗報であった」[27]「これを廃線に追い込んだことは周辺住民の生活環境保全にプラスである」としている[13]

2010年(平成22年)現在、高架橋の撤去はその莫大な撤去費用故にあまり進んでいないが[3]、貸借関係のない部分から先に行われており、高架下を事務所駐車場等に賃貸している部分はそのまま残っている場合が多い。また、大高駅付近のように現在の東海道本線の高架橋と一体で建設されている部分については高架橋の撤去はされず、橋脚の耐震補強が行われている。ただし施工は東海旅客鉄道(JR東海)ではなく所有者の鉄道建設・運輸施設整備支援機構による。

ルート

計画は、当時貨物の操車場が設けられていた稲沢駅の手前より笹島駅まで完成していた、事実上東海道本線の複々線である貨物用別線「稲沢線」と、笹島駅から南に伸びて西名古屋港駅までの間を結び、稲沢線と一体になっていた貨物支線「西名古屋港線」を活用する形であった[1][2]

当時単線非電化であった西名古屋港線を複線化電化高架化して一部スラブ軌道化し[注釈 1]、西名古屋港線の途中に設けられる名古屋貨物ターミナル駅の南より分岐して[1][2]、左カーブして東進、名古屋港駅へ向かう貨物支線(名古屋港線)と立体交差し[注釈 2]、そして堀川付近からスラブ軌道の高架で東海道新幹線の西側を並行[1][2]して名古屋鉄道(名鉄)常滑線を跨ぎ、さらに右カーブして東海道新幹線を2度アンダークロスし、笠寺駅の手前で東海道本線に合流し、そこから先は東海道本線と並行する線路別複々線化を行い、ルート上にある大高駅付近を高架化した上で[1][2]、大府駅に至るものであった[1][2][3]

高架線の現況

大高駅 - 笠寺駅間では東海道本線の天白川橋梁が老朽化したため、東海道本線の線路を南方貨物線側に振り替えているが速度制限はかからず、120km/hにて走行できる[1][2]。また、大府駅南方の東海道本線および武豊線それぞれにおける、旅客線と貨物線の分岐と立体交差は南方貨物線計画の一環として建設され、この部分は本来の目的通りに使用されている[29]

また、西名古屋港線の中島駅からしばらく高架橋に沿って歩くと、上り線は南方貨物線当時に建設されたものを利用した部分があるのが分かる。単線高架橋の並列となっており、上り線は鉄板で耐震補強してあるが、下り線は当初から耐震基準に沿った高架橋のため、鉄板がないためであるが、これは西名古屋港線に乗車したままでは分からない。また、西名古屋港線と南方貨物線が分岐する予定だった地点には中部鋼鈑の工場敷地の一部と隣地に橋脚が残されている。西名古屋港線の車窓から、中部鋼鈑の工場越しにそのまま残された高架橋が、近隣工場の立体駐車場として利用されているのが分かる。

脚注

注釈

  1. ^ 名古屋貨物ターミナル駅北方に西名古屋港線名古屋貨物ターミナル駅方面⇔関西本線四日市方面の連絡線も設置し、関西本線と西名古屋港線のデルタ線を形成する計画だった。
  2. ^ 名古屋貨物ターミナル方面⇔名古屋港駅方面への連絡線も設置する予定だった。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 川島 1996, pp. 167–174.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 川島 2003, pp. 202–209.
  3. ^ a b c d e f 川島 2010, pp. 316–318.
  4. ^ 岐阜工事局 1970, p. 306.
  5. ^ a b 岐阜工事局 1970, p. 27.
  6. ^ a b c d e f g h i j k l 岐阜工事局 1970, p. 276.
  7. ^ 岐阜工事局 1970, pp. 306–307.
  8. ^ 岐阜工事局 1970, p. 307.
  9. ^ 岐阜工事局 1970, p. 42.
  10. ^ a b c 岐阜工事局 1970, p. 278.
  11. ^ 岐阜工事局 1970, p. 64.
  12. ^ 岐阜工事局 1970, pp. 276–278.
  13. ^ a b 名古屋新幹線公害訴訟(和解後)の報告”. 名古屋新幹線公害訴訟弁護団(全国公害弁護団連絡会議) (2004年3月21日). 2017年10月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年10月19日閲覧。
  14. ^ a b c d e f g h i j k 『朝日新聞』1992年7月19日朝刊7面「『無用の長物』南方貨物線生かせ 陸運界、完成働きかけ【名古屋】」
  15. ^ a b c d 読売新聞』1996年1月5日中部朝刊1面「中部新空港 鉄道アクセス新ルート浮上 南方貨物線→名古屋臨海鉄道→名鉄常滑線」
  16. ^ a b c d e 『読売新聞』1985年11月20日東京朝刊第14版第一社会面「工事凍結2年『南方貨物線』 国鉄300億円の“お荷物” 利息だけで年20億 解決策、新会社まかせ 全長26キロ、完成まであと1.3キロだけ」
  17. ^ 中日新聞』1991年2月21日朝刊1面「買い取る意思ない JR東海社長 南方貨物線で表明」
  18. ^ 2004年名古屋臨海高速鉄道西名古屋港線(通称「あおなみ線」)として旅客開業した。
  19. ^ 『中日新聞』1992年1月11日朝刊3面「南方貨物線を旅客線に 中村運輸次官 活用の意向を示す」
  20. ^ 『中日新聞』1993年3月6日朝刊東海総合面19面「南方貨物線 完成急げ 経団連物流部会 地元財界と懇談」
  21. ^ 『中日新聞』1992年6月4日朝刊東海総合面19面「名古屋圏交通網整備推進協の初会合 上飯田連絡線 実務者級で検討 地下鉄4号、上飯田連絡線 次期路線で準備」
  22. ^ a b c 『中日新聞』1993年1月26日朝刊東海総合面15面「東海TODAY/実現高まる中部新空港 西名古屋港線 旅客線化へ機運 南方貨物線 アクセスの手段に 沿線開発計画も 幹事会組織 『問題は資金』」
  23. ^ 『読売新聞』1995年9月27日大阪朝刊特集面23面「モーダルシフト・フォーラム95 社会と調和した物流を=特集」
  24. ^ 『中日新聞』1992年6月5日朝刊地域経済面11面「『旧南方線の早期開通を』 鉄道貨物協会名支部が総会」
  25. ^ a b c 『中日新聞』2002年3月30日夕刊11面「建設345億+撤去300億 名古屋南部 - 大府南方貨物線の未開通20キロ 凍結20年再び国費 新年度投入」
  26. ^ a b 『朝日新聞』2002年3月28日朝刊社会面35面「345億円投入、撤去へ300億円 旧国鉄がムダ35年【名古屋】」
  27. ^ a b 名古屋新幹線公害訴訟(和解後)の報告”. 名古屋新幹線公害訴訟弁護団(全国公害弁護団連絡会議) (2003年3月21日). 2017年10月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年10月19日閲覧。
  28. ^ 『読売新聞』2002年11月8日東京朝刊2面「旧国鉄用地、売却完了時200億円の赤字 有効な処分方法求める/検査員試算」
  29. ^ 祖田圭介「国鉄 - JR東海 名古屋圏の線路配線の興味」『鉄道ピクトリアル』第689号、電気車研究会、2000年8月、45頁。 

参考文献

  • 日本国有鉄道岐阜工事局(編)『岐阜工事局五十年史』日本国有鉄道岐阜工事局、1970年。 
  • 川島令三『幻の鉄路を追う 未開業新線再生への提言』中央書院、1996年12月25日、167-174頁。ISBN 978-4887320307 
  • 川島令三『幻の鉄路を追う 未開業新線はこうすれば実現する!』(初版)PHP文庫、2003年3月17日、202-209頁。ISBN 978-4569579115 
  • 川島令三『<図解>超新説 全国未完成鉄道路線 ますます複雑化する鉄道計画の真実』(第1刷)講談社+α文庫、2010年2月20日、316-318頁。ISBN 9784062813471