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「ルーシャス・ケアリー (第2代フォークランド子爵)」の版間の差分

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== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[File:Falkland Memorial - geograph.org.uk - 1181172.jpg|200px|thumb|戦死した地である[[ニューベリー (バークシャー)|ニューベリー]]に立つフォークランド・メモリアル。]]
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1610年に後に初代フォークランド子爵に叙される{{仮リンク|ヘンリー・ケアリー (初代フォークランド子爵)|label=ヘンリー・ケアリー|en|Henry Cary, 1st Viscount Falkland}}とその妻エリザベス(旧姓タンフィールド)の長男として生まれる<ref name="thepeerage.com">{{Cite web |url= http://thepeerage.com/p2637.htm#i26363 |title=Lucius Cary, 2nd Viscount Falkland|accessdate= 2015-12-26 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref><ref name="CP VC">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/falkland1620.htm|title=Falkland, Viscount of (S, 1620)|accessdate= 2015-12-26 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。
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2020年12月4日 (金) 06:27時点における版

第2代フォークランド子爵
ルーシャス・ケアリー
Lucius Cary
2nd Viscount Falkland
1630年代のフォークランド子爵(ジョン・ホスキンズ画)
生年月日 1610年
出生地 イングランド王国の旗 イングランド王国オックスフォードシャーバーフォード
没年月日 1643年9月20日
死没地 イングランド王国の旗 イングランド王国バークシャーニューベリー
出身校 ダブリン大学トリニティ・カレッジケンブリッジ大学セント・ジョン・カレッジ英語版
称号 第2代フォークランド子爵、第2代ケアリー卿、枢密顧問官(PC)

在任期間 1642年1月8日 - 1643年9月20日
国王 チャールズ1世

在任期間 1643年 - 1643年
国王 チャールズ1世

イングランドの旗 庶民院議員
選挙区 ワイト島ニューポート選挙区英語版
在任期間 1640年 - 1642年
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第2代フォークランド子爵ルーシャス・ケアリー英語: Lucius Cary, 2nd Viscount Falkland1610年 - 1643年9月20日)は、イングランドの政治家、貴族。盟友のエドワード・ハイド(後のクラレンドン伯爵)とともに清教徒革命イングランド内戦)期の穏健派として知られる。

法の支配議会国王の均衡を要求し、1629年以来議会を招集せずに専制政治を行っていた国王チャールズ1世に反対した。1640年に11年ぶりに招集された議会で庶民院議員となり、1641年には親政期の専制政治の中心人物である国王側近ストラフォード伯爵トマス・ウェントワースの弾劾に主導的役割を果たした。しかし国王と議会の均衡を求める立場である彼は国王大権の侵害には反対であり、国王大権の剥奪を求める急進的進歩派が議会の支配的勢力となると、それを懸念して穏健王党派に転じた。

1642年に国王がヨークへ逃れると彼もそこへ逃れ、国王秘書長官に任じられた。その後、議会派と王党派の内戦が始まると国王軍の指揮官となったが、自らの思想と相いれない立場に思い悩み、1643年第一次ニューベリーの戦い英語版で自殺同然の戦死を遂げた。

経歴

戦死した地であるニューベリーに立つフォークランド・メモリアル。

1610年に後に初代フォークランド子爵に叙されるヘンリー・ケアリー英語版とその妻エリザベス(旧姓タンフィールド)の長男として生まれる[1][2]

ダブリン大学トリニティ・カレッジケンブリッジ大学セント・ジョン・カレッジ英語版で学ぶ[1]。卒業後、ネーデルラントで戦った[3]

1633年9月25日に父が死去し、スコットランド貴族爵位の第2代フォークランド子爵位を継承した[2]

当時の国王チャールズ1世は、1629年以来議会を招集せず、親政を展開しており、その親政下に初代ストラフォード伯爵トマス・ウェントワースウィリアム・ロードなど国王側近による強権的統治が行われていた。これを危惧したフォークランド子爵は、オックスフォードシャーグレート・ティー英語版の領地にジョン・セルデンギルバート・シェルドン英語版ウィリアム・チリングワース英語版エドワード・ハイド(後の初代クラレンドン伯爵)、トマス・ホッブズなど進歩派の神学者や思想家を招き、彼らとの交流を深めて反専制の進歩思想を確立した[4]

金欠に苦しむチャールズ1世は1640年に11年ぶりに議会(短期議会長期議会)を招集した[5]。この議会でフォークランド子爵はワイト島ニューポート選挙区英語版から選出されて庶民院議員となった[1]。議会内ではハイドやセルデンとともに穏健進歩派の議員として行動し、法の支配議会国王の均衡、親政以前の政治慣行の復活、プロテスタントに基づく国教会の確立を要求した[5]。また親政時代に行われた圧政を厳しく追及し、1641年2月から始まったストラフォード伯弾劾では急先鋒となった[3]

チャールズ1世についてもある程度批判したが、彼は専制を行ったのは国王側近たちであり、したがって彼らを排除すれば専制は除去されると考えており、国王排除には反対だった[3]。そのため国王の枢密顧問官や高官を議会の管理下に置く内容の『議会の大諫奏』については国王大権の侵害として反対したが、大諫奏は1641年11月に僅差で可決された。これにより議会派は急進派と穏健派に完全分裂し、フォークランド子爵ら穏健派は穏健王党派に転じ始めた[6][3]。議会は国王に軍隊統帥権の譲渡も迫ったが、フォークランド子爵らは応じるべきではないと国王に助言している[6]

1642年1月には強硬王党派の初代ブリストル伯爵英語版ジョン・ディグビーにそそのかされたチャールズ1世がジョン・ピムら急進進歩派の議員をクーデタ的に逮捕しようとして失敗する事件が発生した。この事件に対する憤慨により議会は急進的進歩派が牛耳るところとなった。一方国王はイングランド北部のヨークへ逃亡し、そこを王党派の拠点にし始めた[7]

フォークランド子爵やハイドら穏健派も議会内で「国王に有害な助言を行っている陰謀家」と糾弾されるようになり、身に危険を感じた2人はロンドンを離れ、ヨークの国王のもとへ合流した[8]。この際にフォークランド子爵は国王より国王秘書長官と枢密顧問官に任命された[3][1][2]

1642年6月に議会は国王に対して19か条提案を送り付け、国王の高官・裁判官任免権、軍の統帥権、教会改革権を議会に譲渡することを要求した。これに対してフォークランド子爵とハイドは反論文を作成して議会に送り返した。それは「我々の先人たちの経験と知恵は、イングランドの政体を君主制、貴族制(貴族院)、民主制(庶民院)の3つを混合することで、それぞれの利点を王国に与えることができるように、また均衡が3つの身分間に存在する限り、それぞれの制度に内在する不都合が生じないようにと築き上げてきた。君主制の長所は一人の君主のもとに国民を統合し、その結果外敵の侵略や国内の暴動を阻止することである。貴族制の長所は人々の利益のために、国の最も有能な人物を会議体へと結びつけることである。民主制の長所は自由と自由がもたらす勇気と勤勉である」と論じたうえで、このたびの議会の要求はこの「混合政体により規制された王政」を破壊すると結論していた[9]

王党派と議会派の内戦(第一次イングランド内戦)が勃発した後、国王軍の将軍となり、チャールズ1世に従って1642年10月のエッジヒルの戦い1643年8月から9月のグロスター包囲戦英語版に参加した[2]

一方1643年2月に議会軍から国王が軍の統帥権を放棄するなら和平に応じる用意があるとの和平案が提示されるとフォークランド子爵とハイドはそれを呑むべきと国王に進言するようになった。しかし国王は王妃ヘンリエッタ・マリアや強硬派にそそのかされて、和平案に応じようとしなかった[10]。フォークランド子爵はそれに絶望し、自分の政治思想と相いれない立場に身を置かねばらないことを思い悩むようになり、1643年9月20日第一次ニューベリーの戦い英語版において自殺同然の突撃をかけて戦死した[3][11]

栄典

爵位

1633年9月25日の父の死により以下の爵位を継承[1][2]

(1620年11月10日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)
  • 第2代ケアリー卿 (2nd Lord Cary)
(1620年11月10日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)

家族

1630年以前にレティシア・モリソン(1611-1647)と結婚。以下の2子を儲けた[1][2]

脚注

出典

  1. ^ a b c d e f Lundy, Darryl. “Lucius Cary, 2nd Viscount Falkland” (英語). thepeerage.com. 2015年12月26日閲覧。
  2. ^ a b c d e f Heraldic Media Limited. “Falkland, Viscount of (S, 1620)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2015年12月26日閲覧。
  3. ^ a b c d e f 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 246.
  4. ^ 塚田富治 2001, p. 183-185.
  5. ^ a b 塚田富治 2001, p. 186.
  6. ^ a b 塚田富治 2001, p. 191.
  7. ^ 塚田富治 2001, p. 191-192.
  8. ^ 塚田富治 2001, p. 192.
  9. ^ 塚田富治 2001, p. 193.
  10. ^ 塚田富治 2001, p. 193-194.
  11. ^ 塚田富治 2001, p. 194.

参考文献

  • 塚田富治『近代イギリス政治家列伝 かれらは我らの同時代人』みすず書房、2001年(平成13年)。ISBN 978-4622036753 
  • 松村赳富田虎男『英米史辞典』研究社、2000年(平成12年)。ISBN 978-4767430478 

外部リンク

イングランド議会 (en
先代
1629年から議会閉会
ワイト島ニューポート選挙区英語版選出庶民院議員
1640年 - 1642年
同一選挙区同時当選者
ヘンリー・ウォーズリー英語版
次代
ヘンリー・ウォーズリー英語版
ウィリアム・スティーブンス
公職
先代
サー・エドワード・ニコラス
国王秘書長官
1642年 - 1643年
同職:サー・エドワード・ニコラス
次代
サー・エドワード・ニコラス
ジョージ・ディグビー英語版
先代
初代マンチェスター伯爵英語版
王璽尚書
1643年
次代
サー・エドワード・ニコラス
スコットランドの爵位
先代
ヘンリー・ケアリー英語版
第2代フォークランド子爵
1633年 - 1643年
次代
ルーシャス・ケアリー英語版