「ガイ・ド・ビーチャム (第10代ウォリック伯)」の版間の差分
3行目: | 3行目: | ||
== 経歴 == |
== 経歴 == |
||
[[1270年]]頃、第9代[[ウォリック伯爵]]{{仮リンク|ウィリアム・ド・ビーチャム (第9代ウォリック伯)|label=ウィリアム・ド・ビーチャム|en|William de Beauchamp, 9th Earl of Warwick}}とモード・フィッツジョンの間の長男として生まれる<ref name="CP EW1088">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk |
[[1270年]]頃、第9代[[ウォリック伯爵]]{{仮リンク|ウィリアム・ド・ビーチャム (第9代ウォリック伯)|label=ウィリアム・ド・ビーチャム|en|William de Beauchamp, 9th Earl of Warwick}}とモード・フィッツジョンの間の長男として生まれる<ref name="CP EW1088">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/warwick1088.htm|title=Warwick, Earl of (E, 1088 - 1446)|accessdate= 2020-4-14|last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref><ref name="thepeerage.com">{{Cite web |url= http://www.thepeerage.com/p3204.htm#i32039|title=Guy de Beauchamp, 10th Earl of Warwick|accessdate= 2020-04-27 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref>。 |
||
[[1296年]]に騎士に叙される。[[1298年]][[6月9日]]に父の死によりウォリック伯爵位を継承した<ref name="thepeerage.com"/>。1300年には[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]に従ってスコットランド{{仮リンク|カラヴァロック城|en|Caerlaverock Castle}}の包囲に参加<ref name="thepeerage.com"/>。1304年の{{仮リンク|スターリング城包囲戦|en|Sieges of Stirling Castle}}にも参加<ref name="thepeerage.com"/>。1307年2月には{{仮リンク|バーナード城|en|Barnard Castle}}を与えられた<ref name="thepeerage.com"/>。 |
[[1296年]]に騎士に叙される。[[1298年]][[6月9日]]に父の死によりウォリック伯爵位を継承した<ref name="thepeerage.com"/>。1300年には[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]に従ってスコットランド{{仮リンク|カラヴァロック城|en|Caerlaverock Castle}}の包囲に参加<ref name="thepeerage.com"/>。1304年の{{仮リンク|スターリング城包囲戦|en|Sieges of Stirling Castle}}にも参加<ref name="thepeerage.com"/>。1307年2月には{{仮リンク|バーナード城|en|Barnard Castle}}を与えられた<ref name="thepeerage.com"/>。 |
2020年12月4日 (金) 06:18時点における版
第10代ウォリック伯爵ガイ・ド・ビーチャム(Guy de Beauchamp, 10th Earl of Warwick, 1270年頃 – 1315年8月12日)は、イングランドの貴族。
経歴
1270年頃、第9代ウォリック伯爵ウィリアム・ド・ビーチャムとモード・フィッツジョンの間の長男として生まれる[1][2]。
1296年に騎士に叙される。1298年6月9日に父の死によりウォリック伯爵位を継承した[2]。1300年にはエドワード1世に従ってスコットランドカラヴァロック城の包囲に参加[2]。1304年のスターリング城包囲戦にも参加[2]。1307年2月にはバーナード城を与えられた[2]。
エドワード2世即位後、第2代ランカスター伯トマスらとともに国王の寵臣政治に反対して、国王や国王寵臣初代コーンウォール伯ピアーズ・キャヴィストンと対立を深めた[3]。1312年、スカーバラ城に籠城していた国王とキャヴィストンが反国王派諸侯たちに降伏した後、国王と諸侯の交渉でキャヴィストンの助命と国外追放が決まり、キャヴィストンの身柄は第2代ペンブルック伯エイマー・ド・ヴァランスに引き渡された。しかしウォリック伯はキャヴィストン助命に納得せず、隙をついてキャヴィストンを誘拐し、自分のウォリック城まで連行した。そこでランカスター伯や第9代アランデル伯エドムンド・フィッツアランらの立ち合いのもとにキャヴィストンを私刑の裁判の末に斬首した[4][5]。この事件に国王やペンブルック伯は激怒し、内乱の空気が漂ったが、皇太子エドワード出産の慶事があったので当面は事なきを得た[6]。
1315年8月12日に謎の多い死を遂げた[1][7]。爵位は息子のトマス・ド・ビーチャムが継承した[1]。
子女
1297年5月11日以前に第6代グロスター伯ギルバート・ド・クレアの娘イザベル・ド・クレアと最初の結婚をしたが、彼女との間に子供はない[1][2]。
最初の妻との死別後の1310年1月から2月にラルフ7世・ド・トエニの娘アリス・ド・トエニと結婚。彼女との間に以下の2男5女を儲けた[1][2]。
- 長男トマス・ド・ビーチャム (1313頃-1369) 第11代ウォリック伯
- 次男ジョン・ド・ビーチャム (1316頃-1360) ウォリックの初代ビーチャム男爵
- 長女モード・ド・ビーチャム (?-1369) 第2代セイ男爵ジェフリー・ド・セイと結婚
- 次女エマ・ド・ビーチャム Rowland d'Odingsellsと結婚
- 三女イザベル・ド・ビーチャムジョン・クリントンと結婚
- 四女エリザベス・ド・ビーチャム 第3代アストリー男爵トマス・ド・アストリーと結婚
- 五女ルーシー・ド・ビーチャム ロバート・ド・ナプトンと結婚
脚注
出典
- ^ a b c d e Heraldic Media Limited. “Warwick, Earl of (E, 1088 - 1446)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2020年4月14日閲覧。
- ^ a b c d e f g Lundy, Darryl. “Guy de Beauchamp, 10th Earl of Warwick” (英語). thepeerage.com. 2020年4月27日閲覧。
- ^ 森護 1986, p. 127.
- ^ 青山吉信(編) 1991, p. 288.
- ^ 森護 1986, p. 128.
- ^ 森護 1986, p. 129.
- ^ マーリン・エンターテイメンツ. “History of Warwick Castle” (英語). Warwick Castle. 2020年4月14日閲覧。
参考文献
- 青山吉信(編) 編『イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社〈世界歴史大系〉、1991年。ISBN 978-4634460102。
- 森護『英国王室史話』大修館書店、1986年(昭和61年)。ISBN 978-4469240900。
イングランドの爵位 | ||
---|---|---|
先代 ウィリアム・ド・ビーチャム |
第10代ウォリック伯爵 1298年–1315年 |
次代 トマス・ド・ビーチャム |