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1789年5月20日、イギリス国王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]<small>(1738-1820)</small>の三男[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム王子]]<small>(1765-1837)</small>が[[アイルランド貴族]]である'''マンスター伯爵'''と[[グレートブリテン貴族]]である'''[[クラレンス=セント・アンドルーズ公爵]]'''に叙された<ref>{{London Gazette|issue=13097|page=377|date=16 May 1789}}</ref>。1830年6月26日にウィリアム王子がウィリアム4世として連合王国国王に即位すると、爵位は王領に統合された<ref name="Cokayne">{{Cite book2|editor1-last=Cokayne|editor1-first=George Edward|editor1-link=ジョージ・エドワード・コケイン|editor2-last=Gibbs|editor2-first=Vicary|editor2-link=ヴィカリー・ギブス (セント・オールバンズ選挙区の庶民院議員)|editor3-last=Doubleday|editor3-first=H. Arthur|year=1913|title=Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Canonteign to Cutts)|volume=3|edition=2nd|location=London|publisher=The St. Catherine Press, Ltd.|language=en|pages=261–262|url=https://archive.org/details/completepeerageo03coka/page/261}}</ref>。 |
1789年5月20日、イギリス国王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]<small>(1738-1820)</small>の三男[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム王子]]<small>(1765-1837)</small>が[[アイルランド貴族]]である'''マンスター伯爵'''と[[グレートブリテン貴族]]である'''[[クラレンス=セント・アンドルーズ公爵]]'''に叙された<ref>{{London Gazette|issue=13097|page=377|date=16 May 1789}}</ref>。1830年6月26日にウィリアム王子がウィリアム4世として連合王国国王に即位すると、爵位は王領に統合された<ref name="Cokayne">{{Cite book2|editor1-last=Cokayne|editor1-first=George Edward|editor1-link=ジョージ・エドワード・コケイン|editor2-last=Gibbs|editor2-first=Vicary|editor2-link=ヴィカリー・ギブス (セント・オールバンズ選挙区の庶民院議員)|editor3-last=Doubleday|editor3-first=H. Arthur|year=1913|title=Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Canonteign to Cutts)|volume=3|edition=2nd|location=London|publisher=The St. Catherine Press, Ltd.|language=en|pages=261–262|url=https://archive.org/details/completepeerageo03coka/page/261}}</ref>。 |
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1831年5月12日、ウィリアム4世の庶子で[[イギリス陸軍]]の軍人である{{仮リンク|ジョージ・フィッツクラレンス (初代マンスター伯爵)|en|George FitzClarence, 1st Earl of Munster|label=ジョージ・オーガスタス・フレデリック・フィッツクラレンス}}<small>(1794-1842)</small>は[[連合王国貴族]]である'''テュークスベリー男爵'''、'''フィッツクラレンス子爵'''、'''マンスター伯爵'''に叙された<ref>{{London Gazette|issue=18803|page=923|date=13 May 1831}}</ref>。叙爵以降の初代伯爵ジョージは{{仮リンク|ロンドン塔総督|en|Lieutenant of the Tower of London}}、{{仮リンク|ウィンザー城総督|en|Constables and Governors of Windsor Castle}}、[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]]を歴任した<ref name="Cracroft">{{Cite web2|language=en|website=Cracroft's Peerage|title=Munster, Earl of (UK, 1831 - 2000)|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk |
1831年5月12日、ウィリアム4世の庶子で[[イギリス陸軍]]の軍人である{{仮リンク|ジョージ・フィッツクラレンス (初代マンスター伯爵)|en|George FitzClarence, 1st Earl of Munster|label=ジョージ・オーガスタス・フレデリック・フィッツクラレンス}}<small>(1794-1842)</small>は[[連合王国貴族]]である'''テュークスベリー男爵'''、'''フィッツクラレンス子爵'''、'''マンスター伯爵'''に叙された<ref>{{London Gazette|issue=18803|page=923|date=13 May 1831}}</ref>。叙爵以降の初代伯爵ジョージは{{仮リンク|ロンドン塔総督|en|Lieutenant of the Tower of London}}、{{仮リンク|ウィンザー城総督|en|Constables and Governors of Windsor Castle}}、[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]]を歴任した<ref name="Cracroft">{{Cite web2|language=en|website=Cracroft's Peerage|title=Munster, Earl of (UK, 1831 - 2000)|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/munster1831.htm|date=12 May 2008|accessdate=23 December 2019}}</ref>。初代伯爵の曽孫にあたる5代伯爵{{仮リンク|ジェフリー・フィッツクラレンス (第5代マンスター伯爵)|en|Geoffrey FitzClarence, 5th Earl of Munster|label=ジェフリー・ウィリアム・リチャード・ヒュー・フィッツクラレンス}}<small>(1906-1975)</small>は[[保守党 (イギリス)|保守党]]の{{仮リンク|侍従 (ロード・イン・ウェイティング)|en|Lord-in-waiting|label=貴族院院内幹事}}、{{仮リンク|主計長官|en|Paymaster General}}を歴任し、晩年には{{仮リンク|サリー統監|en|Lord Lieutenant of Surrey}}を務めた<ref name="Cracroft" />。しかし、6代伯爵の息子にあたる7代伯爵{{仮リンク|アンソニー・フィッツクラレンス (第7代マンスター伯爵)|en|Anthony FitzClarence, 7th Earl of Munster|label=アンソニー・チャールズ・フィッツクラレンス}}<small>(1926-2000)</small>は2人の妻との間で女子しかもうけず、2000年に死去すると爵位は廃絶した<ref name="Cracroft" />。 |
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== マンスター伯爵(第1期、1789年) == |
== マンスター伯爵(第1期、1789年) == |
2020年12月4日 (金) 06:12時点における版
マンスター伯爵(マンスターはくしゃく、英語: Earl of Munster)は、アイルランド王国と連合王国の伯爵位。アイルランド貴族として1度、連合王国貴族として1度創設された。
歴史
1789年5月20日、イギリス国王ジョージ3世(1738-1820)の三男ウィリアム王子(1765-1837)がアイルランド貴族であるマンスター伯爵とグレートブリテン貴族であるクラレンス=セント・アンドルーズ公爵に叙された[1]。1830年6月26日にウィリアム王子がウィリアム4世として連合王国国王に即位すると、爵位は王領に統合された[2]。
1831年5月12日、ウィリアム4世の庶子でイギリス陸軍の軍人であるジョージ・オーガスタス・フレデリック・フィッツクラレンス(1794-1842)は連合王国貴族であるテュークスベリー男爵、フィッツクラレンス子爵、マンスター伯爵に叙された[3]。叙爵以降の初代伯爵ジョージはロンドン塔総督、ウィンザー城総督、枢密顧問官を歴任した[4]。初代伯爵の曽孫にあたる5代伯爵ジェフリー・ウィリアム・リチャード・ヒュー・フィッツクラレンス(1906-1975)は保守党の貴族院院内幹事、主計長官を歴任し、晩年にはサリー統監を務めた[4]。しかし、6代伯爵の息子にあたる7代伯爵アンソニー・チャールズ・フィッツクラレンス(1926-2000)は2人の妻との間で女子しかもうけず、2000年に死去すると爵位は廃絶した[4]。
マンスター伯爵(第1期、1789年)
→詳細は「クラレンス=セント・アンドルーズ公爵」を参照
- 初代クラレンス=セント・アンドルーズ公爵・初代マンスター伯爵ウィリアム王子(1765年 – 1837年)
- 1830年、ウィリアム4世として連合王国国王に即位、爵位は王領に統合された。
マンスター伯爵(第2期、1831年)
- 初代マンスター伯爵ジョージ・オーガスタス・フレデリック・フィッツクラレンス(1794年 – 1842年)
- 第2代マンスター伯爵ウィリアム・ジョージ・フィッツクラレンス(1824年 – 1901年)
- フィッツクラレンス子爵エドワード・フィッツクラレンス(1856年 – 1870年)
- 第3代マンスター伯爵ジェフリー・ジョージ・ゴードン・フィッツクラレンス(1859年 – 1902年)
- 第4代マンスター伯爵オーブリー・フィッツクラレンス(1862年 – 1928年)
- 第5代マンスター伯爵ジェフリー・ウィリアム・リチャード・ヒュー・フィッツクラレンス(1906年 – 1975年)
- 第6代マンスター伯爵エドワード・チャールズ・フィッツクラレンス(1899年 – 1983年)
- 第7代マンスター伯爵アンソニー・チャールズ・フィッツクラレンス(1926年 – 2000年)
出典
- ^ "No. 13097". The London Gazette (英語). 16 May 1789. p. 377.
- ^ Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, H. Arthur, eds. (1913). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Canonteign to Cutts) (英語). Vol. 3 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 261–262.
- ^ "No. 18803". The London Gazette (英語). 13 May 1831. p. 923.
- ^ a b c "Munster, Earl of (UK, 1831 - 2000)". Cracroft's Peerage (英語). 12 May 2008. 2019年12月23日閲覧。
関連項目
- エーレンガルト・メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルク - 1716年、一代貴族であるマンスター女公爵に叙爵