ウィリアム・フィッツクラレンス (第2代マンスター伯爵)
第2代マンスター伯爵ウィリアム・ジョージ・フィッツクラレンス(英語: William George FitzClarence, 2nd Earl of Munster、1824年5月19日 – 1901年4月30日)は、イギリスの貴族。1831年から1842年までフィッツクラレンス子爵の儀礼称号を使用した[1]。
生涯
[編集]初代マンスター伯爵ジョージ・フィッツクラレンスと妻メアリー(Mary、旧姓ウィンダム(Wyndham)、1842年12月3日没、第3代エグレモント伯爵ジョージ・ウィンダムの庶出の娘)の息子として、1824年5月19日に生まれた[1]。父は国王ウィリアム4世の庶子にあたる[1]。ハーロー校で教育を受けた[1]。
1842年3月20日に父が自殺すると、マンスター伯爵位を継承した[1]。貴族院では保守党に属した[1]。
1842年7月1日にスコッツガーズのLieutenant and Captainへの辞令を購入[2]、1843年4月7日にライフガーズ第1連隊のCornet and Sub-Lieutenantへの辞令を購入した[3]。1846年5月1日に辞令を購入する形で中尉に[4]、1849年3月16日に同じく辞令を購入する形で大尉に昇進したのち[5]、1852年4月に陸軍から引退した[6]。
1901年4月30日にブライトン・アンド・ホヴのパルミアラ・スクエア23号で死去、5月4日にクックフィールドで埋葬された[1]。息子ジェフリー・ジョージ・ゴードンが爵位を継承した[1]。
家族
[編集]1855年4月17日、ウィルヘルミナ・ケネディ=アースキン(1830年6月27日 – 1906年10月9日、ジョン・ケネディ=アースキン閣下と妻オーガスタの娘)と結婚[1]、7男2女をもうけた[7]。
- エドワード(1856年3月29日 – 1870年11月20日[1])
- ライオネル・フレデリック・アーチボルド(Lionel Frederick Archibald、1857年7月24日 – 1863年[7])
- ジェフリー・ジョージ・ゴードン(1859年7月18日 – 1902年2月2日) - 第3代マンスター伯爵[1]
- アーサー・フォークランド・マナーズ(Arthur Falkland Manners、1860年 – 1861年[7])
- オーブリー(1862年6月7日 – 1928年1月1日) - 第4代マンスター伯爵[8]
- ウィリアム・ジョージ(1864年9月17日 – 1899年10月4日) - 1887年、シャーロット・エリザベス・アリーン・ウィリアムズ(Charlotte Elizabeth Aline Williams、1902年9月5日没、リチャード・ウィリアムズの娘)と結婚、2女をもうけた[7]
- ハロルド・エドワード(1870年11月15日 – 1926年8月28日) - 1902年5月14日、フランシス・イザベル・イリナ・ケッペル(Frances Isabel Eleanor Keppel、1951年2月1日没、ウィリアム・ヘンリー・オーガスタス・ケッペルの娘)と結婚、子供あり。第5代マンスター伯爵ジェフリー・フィッツクラレンスの父[8]
- リリアン・アデレード・キャサリン・メアリー(Lilian Adelaide Katherine Mary、1873年12月10日 – 1948年7月15日) - 1893年1月17日、ウィリアム・アーサー・エドワード・ボイド(William Arthur Edward Boyd、1931年12月6日没)と結婚、子供あり[8]
- ドロシア・オーガスタ(Dorothea Augusta、1876年5月5日 – 1942年1月28日) - 1899年11月20日、シャンドス・ブリッジス・リー=ワーナー(Chandos Brydges Lee-Warner、1944年10月1日没)と結婚、子供あり[8]
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k Cokayne, George Edward; Doubleday, Herbert Arthur; Howard de Walden, Thomas, eds. (1936). The Complete Peerage, or a history of the House of lords and all its members from the earliest times (Moate to Nuneham). Vol. 9 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press. pp. 429–431.
- ^ "No. 20116". The London Gazette (英語). 1 July 1842. p. 1804.
- ^ "No. 20211". The London Gazette (英語). 7 April 1843. p. 1154.
- ^ "No. 20600". The London Gazette (英語). 1 May 1846. p. 1568.
- ^ "No. 20957". The London Gazette (英語). 16 March 1849. p. 894.
- ^ "No. 21309". The London Gazette (英語). 13 April 1852. p. 1057.
- ^ a b c d Burke, Sir Bernard; Burke, Ashworth P., eds. (1915). A Genealogical and Heraldic History of the Peerage and Baronetage, the Privy Council, Knightage and Companionage (英語) (77th ed.). London: Harrison & Sons. p. 1465.
- ^ a b c d Townend, Peter, ed. (1963). Burke's Genealogical and Heraldic History of the Peerage, Baronetage and Knightage (英語) (103rd ed.). London: Burke's Peerage Limited. p. 1758.
外部リンク
[編集]- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Mr William Fitz-Clarence
- ウィリアム・フィッツクラレンス - ナショナル・ポートレート・ギャラリー
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