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「デイヴィッド・マレー (第2代マンスフィールド伯爵)」の版間の差分

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== 生涯 ==
== 生涯 ==
[[デイヴィッド・マレー (第6代ストーモント子爵)|第6代ストーモント子爵デイヴィッド・マレー]]とアン・ステュアート({{lang|en|Anne Stewart}}、1735年7月20日没、ジョン・ステュアートの娘)の息子として<ref name="Cracroft1">{{Cite web2|language=en|website=Cracroft's Peerage|title=Stormont, Viscount of (S, 1621)|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/stormont1621.htm|date=18 February 2008|accessdate=23 November 2019}}</ref>、1727年10月9日に生まれた<ref name="Cokayne">{{Cite book2|editor-last=Cokayne|editor-first=George Edward|editor-link=ジョージ・エドワード・コケイン|year=1893|title=Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (L to M)|volume=5|edition=1st|location=London|publisher=George Bell & Sons|language=en|pages=215–216|url=https://archive.org/details/completepeerage01cokagoog/page/n225}}</ref>。[[ウェストミンスター・スクール]]で教育を受けた後<ref name="DNB">{{Cite DNB|wstitle=Murray, David (1727-1796)|volume=39|pages=355–356|last=Rigg|first=James McMullen}}</ref>、1744年5月28日に[[オックスフォード大学]][[クライスト・チャーチ (オックスフォード大学)|クライスト・チャーチ]]に入学、1748年に[[学士(教養)|B.A.]]の学位を修得した<ref name="Oxon">{{Cite book2|language=en|editor-last=Foster|editor-first=Joseph|editor-link=ジョセフ・フォスター (系図学者)|location=Oxford|publisher=University of Oxford|year=1891|title=Alumni Oxonienses 1715-1886|volume=3|page=999|url=https://archive.org/details/AlumniOxoniensesTheMembersOfTheUniversityOfOxford1715-1886Their/page/n220 }}</ref>。1748年7月23日に父が死去すると、[[ストーモント子爵]]の爵位を継承した<ref name="Cokayne" />。
[[デイヴィッド・マレー (第6代ストーモント子爵)|第6代ストーモント子爵デイヴィッド・マレー]]とアン・ステュアート({{lang|en|Anne Stewart}}、1735年7月20日没、ジョン・ステュアートの娘)の息子として<ref name="Cracroft1">{{Cite web2|language=en|website=Cracroft's Peerage|title=Stormont, Viscount of (S, 1621)|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/stormont1621.htm|date=18 February 2008|accessdate=23 November 2019}}</ref>、1727年10月9日に生まれた<ref name="Cokayne">{{Cite book2|editor-last=Cokayne|editor-first=George Edward|editor-link=ジョージ・エドワード・コケイン|year=1893|title=Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (L to M)|volume=5|edition=1st|location=London|publisher=George Bell & Sons|language=en|pages=215–216|url=https://archive.org/details/completepeerage01cokagoog/page/n225}}</ref>。[[ウェストミンスター・スクール]]で教育を受けた後<ref name="DNB">{{Cite DNB|wstitle=Murray, David (1727-1796)|volume=39|pages=355–356|last=Rigg|first=James McMullen}}</ref>、1744年5月28日に[[オックスフォード大学]][[クライスト・チャーチ (オックスフォード大学)|クライスト・チャーチ]]に入学、1748年に[[学士(教養)|B.A.]]の学位を修得した<ref name="Oxon">{{Cite book2|language=en|editor-last=Foster|editor-first=Joseph|editor-link=ジョセフ・フォスター (系図学者)|location=Oxford|publisher=University of Oxford|year=1891|title=Alumni Oxonienses 1715-1886|volume=3|page=999|url=https://archive.org/details/AlumniOxoniensesTheMembersOfTheUniversityOfOxford1715-1886Their/page/n220 }}</ref>。1748年7月23日に父が死去すると、[[ストーモント子爵]]の爵位を継承した<ref name="Cokayne" />。


外交官としての道を歩み、1751年に[[パリ]]のイギリス大使館で[[アタッシェ]]として働いた後、1756年に{{仮リンク|在ザクセンイギリス大使|en|List of diplomats of the United Kingdom to Saxony|label=在ザクセンイギリス特命全権公使}}に転じ、同年初に[[ドレスデン]]に到着した<ref name="DNB" />。9月に[[プロイセン王]][[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]がザクセンに侵攻して[[七年戦争]]が勃発すると、仲介を試みたが失敗した<ref name="DNB" />。[[ザクセン選帝侯]][[アウグスト3世 (ポーランド王)|フリードリヒ・アウグスト2世]](兼ポーランド王アウグスト3世)はポーランドに退避、ストーモント子爵も同じく[[ワルシャワ]]に移り、以降1761年まで同地に留まった<ref name="DNB" />。1761年4月28日、[[アウクスブルク]]での講和会議におけるイギリス代表の1人に任命されたが、会議が失敗に終わると本国に召還された<ref name="DNB" />。本国では遡る1754年5月にスコットランド[[貴族代表議員]]に当選しており(以降1778年まで外国に滞在することが多かったものの、[[1768年イギリス総選挙|1768年]]、[[1774年イギリス総選挙|1774年]]、[[1780年イギリス総選挙|1780年]]、[[1784年イギリス総選挙|1784年]]、[[1790年イギリス総選挙|1790年]]の総選挙で再選した)、1763年7月20日には[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]]に任命された<ref name="DNB" />。同年より9年間[[神聖ローマ帝国]]宮廷([[ウィーン]])駐在特命全権公使を務め、[[マリア・テレジア]]と[[ヨーゼフ2世]]の信頼を得た<ref name="DNB" />。
外交官としての道を歩み、1751年に[[パリ]]のイギリス大使館で[[アタッシェ]]として働いた後、1756年に{{仮リンク|在ザクセンイギリス大使|en|List of diplomats of the United Kingdom to Saxony|label=在ザクセンイギリス特命全権公使}}に転じ、同年初に[[ドレスデン]]に到着した<ref name="DNB" />。9月に[[プロイセン王]][[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]がザクセンに侵攻して[[七年戦争]]が勃発すると、仲介を試みたが失敗した<ref name="DNB" />。[[ザクセン選帝侯]][[アウグスト3世 (ポーランド王)|フリードリヒ・アウグスト2世]](兼ポーランド王アウグスト3世)はポーランドに退避、ストーモント子爵も同じく[[ワルシャワ]]に移り、以降1761年まで同地に留まった<ref name="DNB" />。1761年4月28日、[[アウクスブルク]]での講和会議におけるイギリス代表の1人に任命されたが、会議が失敗に終わると本国に召還された<ref name="DNB" />。本国では遡る1754年5月にスコットランド[[貴族代表議員]]に当選しており(以降1778年まで外国に滞在することが多かったものの、[[1768年イギリス総選挙|1768年]]、[[1774年イギリス総選挙|1774年]]、[[1780年イギリス総選挙|1780年]]、[[1784年イギリス総選挙|1784年]]、[[1790年イギリス総選挙|1790年]]の総選挙で再選した)、1763年7月20日には[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]]に任命された<ref name="DNB" />。同年より9年間[[神聖ローマ帝国]]宮廷([[ウィーン]])駐在特命全権公使を務め、[[マリア・テレジア]]と[[ヨーゼフ2世]]の信頼を得た<ref name="DNB" />。
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1人目の妻フレデリケ・ヘンリエッテの死去(1766年3月16日)にストーモント子爵は大きな打撃を受け、彼女の心臓を[[スクーン (スコットランド)|スクーン]]にあるマンスフィールド伯爵家の家族納骨所に埋葬した後、気晴らしにイタリアを旅した<ref name="DNB" />。1768年春に[[ローマ]]で[[ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン]]と知り合いになり、ヴィンケルマンはストーモント子爵の[[ギリシア語]]に関する知識を称え、「わたしがこれまで会った彼のような身分の人のうち、最も博識な人」であると述べた<ref name="DNB" />。同年にウィーンに戻り、11月30日に[[シッスル勲章]]を授与された<ref name="DNB" />。1772年8月に[[在フランスイギリス大使|在フランス大使]]に転じ、以降1778年3月に[[アメリカ独立戦争]]における宣戦布告に備えて召還されるまで[[パリ]]に滞在した<ref name="DNB" />。同年、{{仮リンク|スコットランド民事控訴院首席判事|en|Lord President of the Court of Session}}に任命された<ref name="DNB" />。
1人目の妻フレデリケ・ヘンリエッテの死去(1766年3月16日)にストーモント子爵は大きな打撃を受け、彼女の心臓を[[スクーン (スコットランド)|スクーン]]にあるマンスフィールド伯爵家の家族納骨所に埋葬した後、気晴らしにイタリアを旅した<ref name="DNB" />。1768年春に[[ローマ]]で[[ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン]]と知り合いになり、ヴィンケルマンはストーモント子爵の[[ギリシア語]]に関する知識を称え、「わたしがこれまで会った彼のような身分の人のうち、最も博識な人」であると述べた<ref name="DNB" />。同年にウィーンに戻り、11月30日に[[シッスル勲章]]を授与された<ref name="DNB" />。1772年8月に[[在フランスイギリス大使|在フランス大使]]に転じ、以降1778年3月に[[アメリカ独立戦争]]における宣戦布告に備えて召還されるまで[[パリ]]に滞在した<ref name="DNB" />。同年、{{仮リンク|スコットランド民事控訴院首席判事|en|Lord President of the Court of Session}}に任命された<ref name="DNB" />。


1779年10月27日、[[北部担当国務大臣]]<ref name="Facts1760p">{{Cite book2|last=Cook |first=Chris |last2=Stevenson |first2=John |title=British Historical Facts 1760–1830 |year=1980 |edition=1st edition |publisher=Palgrave |isbn=978-1-137-06465-3 |language=en |page=28}}</ref>として[[ノース内閣]]に入閣したが、1782年にノース内閣が倒れると[[フレデリック・ノース (第2代ギルフォード伯爵)|ノース卿]]とともに辞任した<ref name="DNB" />。1783年2月17日の弁論でアメリカ独立戦争の予備講和条約を厳しく非難した後、4月2日に[[枢密院議長 (イギリス)|枢密院議長]]として[[ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク (第3代ポートランド公爵)|第3代ポートランド公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク]]率いる[[フォックス=ノース連立内閣]]に入閣したが、12月19日に[[チャールズ・ジェームズ・フォックス]]の東インド法案が[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]で否決されると、[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]を支持して野党に回り、[[ウィリアム・ピット (小ピット)|小ピット]]の東インド法案を批判した<ref name="DNB" />。それ以外にも1788年の摂政法案({{lang|en|Regency bill}})の弁論で活躍、また外交での経験に基づき1791年に[[露土戦争 (1787年-1791年)|露土戦争]]への介入政策を批判した<ref name="DNB" />。1793年2月1日に[[フランス第一共和政]]がイギリスに宣戦布告し([[フランス革命戦争]])、イギリスが返答として11日にフランスに宣戦布告すると、ストーモント子爵は即座に政府支持に回り、1794年に{{仮リンク|ウィリアム・フィッツウィリアム (第4代フィッツウィリアム伯爵)|en|William Fitzwilliam, 4th Earl Fitzwilliam|label=第4代フィッツウィリアム伯爵}}の後任として枢密院議長を再任した<ref name="DNB" />。1793年3月20日に叔父にあたる[[ウィリアム・マレー (初代マンスフィールド伯爵)|初代マンスフィールド伯爵ウィリアム・マレー]]が死去すると、[[マンスフィールド伯爵]](第2期、1792年創設<ref name="Cracroft2">{{Cite web2|language=en|website=Cracroft's Peerage|title=Mansfield, Earl of (GB, 1776 & 1792)|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/mansfield1776.htm|date=27 December 2015|accessdate=23 November 2019}}</ref>)の爵位を継承した<ref name="Cokayne" />。同年7月3日、[[オックスフォード大学]]より{{仮リンク|民法学博士|en|Doctor of Civil Law|label=D.C.L.}}の学位を授与された<ref name="Oxon" />。また同年には[[アバディーン大学]]{{仮リンク|マーシャル・カレッジ|en|Marischal College}}総長にも任命された<ref name="DNB" />。
1779年10月27日、[[北部担当国務大臣]]<ref name="Facts1760p">{{Cite book2|last=Cook |first=Chris |last2=Stevenson |first2=John |title=British Historical Facts 1760–1830 |year=1980 |edition=1st edition |publisher=Palgrave |isbn=978-1-137-06465-3 |language=en |page=28}}</ref>として[[ノース内閣]]に入閣したが、1782年にノース内閣が倒れると[[フレデリック・ノース (第2代ギルフォード伯爵)|ノース卿]]とともに辞任した<ref name="DNB" />。1783年2月17日の弁論でアメリカ独立戦争の予備講和条約を厳しく非難した後、4月2日に[[枢密院議長 (イギリス)|枢密院議長]]として[[ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク (第3代ポートランド公爵)|第3代ポートランド公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク]]率いる[[フォックス=ノース連立内閣]]に入閣したが、12月19日に[[チャールズ・ジェームズ・フォックス]]の東インド法案が[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]で否決されると、[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]を支持して野党に回り、[[ウィリアム・ピット (小ピット)|小ピット]]の東インド法案を批判した<ref name="DNB" />。それ以外にも1788年の摂政法案({{lang|en|Regency bill}})の弁論で活躍、また外交での経験に基づき1791年に[[露土戦争 (1787年-1791年)|露土戦争]]への介入政策を批判した<ref name="DNB" />。1793年2月1日に[[フランス第一共和政]]がイギリスに宣戦布告し([[フランス革命戦争]])、イギリスが返答として11日にフランスに宣戦布告すると、ストーモント子爵は即座に政府支持に回り、1794年に{{仮リンク|ウィリアム・フィッツウィリアム (第4代フィッツウィリアム伯爵)|en|William Fitzwilliam, 4th Earl Fitzwilliam|label=第4代フィッツウィリアム伯爵}}の後任として枢密院議長を再任した<ref name="DNB" />。1793年3月20日に叔父にあたる[[ウィリアム・マレー (初代マンスフィールド伯爵)|初代マンスフィールド伯爵ウィリアム・マレー]]が死去すると、[[マンスフィールド伯爵]](第2期、1792年創設<ref name="Cracroft2">{{Cite web2|language=en|website=Cracroft's Peerage|title=Mansfield, Earl of (GB, 1776 & 1792)|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/mansfield1776.htm|date=27 December 2015|accessdate=23 November 2019}}</ref>)の爵位を継承した<ref name="Cokayne" />。同年7月3日、[[オックスフォード大学]]より{{仮リンク|民法学博士|en|Doctor of Civil Law|label=D.C.L.}}の学位を授与された<ref name="Oxon" />。また同年には[[アバディーン大学]]{{仮リンク|マーシャル・カレッジ|en|Marischal College}}総長にも任命された<ref name="DNB" />。


1796年9月1日に[[ブライトン]]で死去、9日に[[ウェストミンスター寺院]]に埋葬された<ref name="DNB" />。2人目の妻との間の息子{{仮リンク|デイヴィッド・マレー (第3代マンスフィールド伯爵)|en|David William Murray, 3rd Earl of Mansfield|label=デイヴィッド・ウィリアム}}が爵位を継承した<ref name="Cokayne" />。
1796年9月1日に[[ブライトン]]で死去、9日に[[ウェストミンスター寺院]]に埋葬された<ref name="DNB" />。2人目の妻との間の息子{{仮リンク|デイヴィッド・マレー (第3代マンスフィールド伯爵)|en|David William Murray, 3rd Earl of Mansfield|label=デイヴィッド・ウィリアム}}が爵位を継承した<ref name="Cokayne" />。

2020年12月4日 (金) 06:10時点における版

シルヴェスター・ハーディング英語版による肖像画

第2代マンスフィールド伯爵デイヴィッド・マレー英語: David Murray, 2nd Earl of Mansfield KT PC1727年10月9日1796年9月1日)は、イギリスの政治家、外交官、貴族。外交官としてザクセン選帝侯領ポーランド・リトアニア共和国神聖ローマ帝国フランス王国に駐在した後、北部担当国務大臣[1]枢密院議長を歴任した[2]

生涯

第6代ストーモント子爵デイヴィッド・マレーとアン・ステュアート(Anne Stewart、1735年7月20日没、ジョン・ステュアートの娘)の息子として[3]、1727年10月9日に生まれた[4]ウェストミンスター・スクールで教育を受けた後[2]、1744年5月28日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学、1748年にB.A.の学位を修得した[5]。1748年7月23日に父が死去すると、ストーモント子爵の爵位を継承した[4]

外交官としての道を歩み、1751年にパリのイギリス大使館でアタッシェとして働いた後、1756年に在ザクセンイギリス特命全権公使英語版に転じ、同年初にドレスデンに到着した[2]。9月にプロイセン王フリードリヒ2世がザクセンに侵攻して七年戦争が勃発すると、仲介を試みたが失敗した[2]ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世(兼ポーランド王アウグスト3世)はポーランドに退避、ストーモント子爵も同じくワルシャワに移り、以降1761年まで同地に留まった[2]。1761年4月28日、アウクスブルクでの講和会議におけるイギリス代表の1人に任命されたが、会議が失敗に終わると本国に召還された[2]。本国では遡る1754年5月にスコットランド貴族代表議員に当選しており(以降1778年まで外国に滞在することが多かったものの、1768年1774年1780年1784年1790年の総選挙で再選した)、1763年7月20日には枢密顧問官に任命された[2]。同年より9年間神聖ローマ帝国宮廷(ウィーン)駐在特命全権公使を務め、マリア・テレジアヨーゼフ2世の信頼を得た[2]

1人目の妻フレデリケ・ヘンリエッテの死去(1766年3月16日)にストーモント子爵は大きな打撃を受け、彼女の心臓をスクーンにあるマンスフィールド伯爵家の家族納骨所に埋葬した後、気晴らしにイタリアを旅した[2]。1768年春にローマヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンと知り合いになり、ヴィンケルマンはストーモント子爵のギリシア語に関する知識を称え、「わたしがこれまで会った彼のような身分の人のうち、最も博識な人」であると述べた[2]。同年にウィーンに戻り、11月30日にシッスル勲章を授与された[2]。1772年8月に在フランス大使に転じ、以降1778年3月にアメリカ独立戦争における宣戦布告に備えて召還されるまでパリに滞在した[2]。同年、スコットランド民事控訴院首席判事英語版に任命された[2]

1779年10月27日、北部担当国務大臣[1]としてノース内閣に入閣したが、1782年にノース内閣が倒れるとノース卿とともに辞任した[2]。1783年2月17日の弁論でアメリカ独立戦争の予備講和条約を厳しく非難した後、4月2日に枢密院議長として第3代ポートランド公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク率いるフォックス=ノース連立内閣に入閣したが、12月19日にチャールズ・ジェームズ・フォックスの東インド法案が貴族院で否決されると、ホイッグ党を支持して野党に回り、小ピットの東インド法案を批判した[2]。それ以外にも1788年の摂政法案(Regency bill)の弁論で活躍、また外交での経験に基づき1791年に露土戦争への介入政策を批判した[2]。1793年2月1日にフランス第一共和政がイギリスに宣戦布告し(フランス革命戦争)、イギリスが返答として11日にフランスに宣戦布告すると、ストーモント子爵は即座に政府支持に回り、1794年に第4代フィッツウィリアム伯爵英語版の後任として枢密院議長を再任した[2]。1793年3月20日に叔父にあたる初代マンスフィールド伯爵ウィリアム・マレーが死去すると、マンスフィールド伯爵(第2期、1792年創設[6])の爵位を継承した[4]。同年7月3日、オックスフォード大学よりD.C.L.英語版の学位を授与された[5]。また同年にはアバディーン大学マーシャル・カレッジ英語版総長にも任命された[2]

1796年9月1日にブライトンで死去、9日にウェストミンスター寺院に埋葬された[2]。2人目の妻との間の息子デイヴィッド・ウィリアム英語版が爵位を継承した[4]

著作

評価

1768年に知り合いになった最晩年のヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンから博識であると称えられた[2]。また、『英国人名事典』は第2代マンスフィールド伯爵を有能で尊敬すべき外交官、政治家であると評価し、雄弁家ではないものの説得力のある演説者だったとした[2]

家族

1759年8月16日、フレデリケ・ヘンリエッテ・フォン・ビューナウ(Frederikke Henriette von Bünau、1766年3月16日没、ハインリヒ・フォン・ビューナウ伯爵(1698年 – 1745年)の娘)と結婚、1女をもうけた。

1776年5月5日、ルイーザ・カスカート英語版(1758年7月1日 – 1843年7月11日、第9代カスカート卿チャールズ・カスカート英語版の娘。1793年にマンスフィールド伯爵(第1期)を継承)と再婚、4男1女をもうけた[6]

  • デイヴィッド・ウィリアム英語版(1777年 – 1849年) - 第3代マンスフィールド伯爵(第2期)
  • ジョージ(1780年 – 1848年)
  • チャールズ(1781年8月22日 – 1859年9月17日) - 1802年9月21日、エリザベス・ロー(Elizabeth Law、ロバート・ローの娘)と結婚、子供あり
  • ヘンリー英語版(1784年8月 – 1860年7月29日) - 陸軍軍人。1810年6月28日、エミリー・ド・ヴィメ(Emily de Vismé、1873年11月23日没、ジェラール・ド・ヴィメの娘)と結婚、子供あり
  • キャロライン(1867年1月21日没)

出典

  1. ^ a b Cook, Chris; Stevenson, John (1980). British Historical Facts 1760–1830 (英語) (1st edition ed.). Palgrave. p. 28. ISBN 978-1-137-06465-3 {{cite book}}: |edition=にed.など余分の文字が入力されています。 (説明)
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v Rigg, James McMullen (1894). "Murray, David (1727-1796)" . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 39. London: Smith, Elder & Co. pp. 355–356.
  3. ^ "Stormont, Viscount of (S, 1621)". Cracroft's Peerage (英語). 18 February 2008. 2019年11月23日閲覧
  4. ^ a b c d Cokayne, George Edward, ed. (1893). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (L to M) (英語). Vol. 5 (1st ed.). London: George Bell & Sons. pp. 215–216.
  5. ^ a b Foster, Joseph, ed. (1891). Alumni Oxonienses 1715-1886 (英語). Vol. 3. Oxford: University of Oxford. p. 999.
  6. ^ a b "Mansfield, Earl of (GB, 1776 & 1792)". Cracroft's Peerage (英語). 27 December 2015. 2019年11月23日閲覧
  7. ^ Namier, Sir Lewis (1964). "FINCH HATTON, George (1747-1823), of Eastwell Park, nr. Ashford, Kent". In Namier, Sir Lewis; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2019年11月23日閲覧
外交職
先代
チャールズ・ハンベリー・ウィリアムズ英語版
在ザクセンイギリス特命全権公使英語版
1756年 – 1761年
次代
トマス・ロートン
空位
最後の在位者
ロバート・マレー・キース英語版
在神聖ローマ帝国イギリス大使英語版
1763年 – 1772年
次代
ロバート・マレー・キース英語版
先代
ハーコート伯爵
在フランスイギリス大使
1772年 – 1778年
空位
次代の在位者
トマス・グレンヴィル英語版
司法職
先代
クイーンズベリー公爵
スコットランド民事控訴院首席判事英語版
1778年 – 1796年
次代
モントローズ公爵
公職
先代
ウェイマス子爵
北部担当国務大臣
1779年 – 1782年
廃止
貴族院院内総務
1779年 – 1782年
次代
シェルバーン伯爵
先代
カムデン男爵
枢密院議長
1783年
次代
ゴア伯爵
先代
フィッツウィリアム伯爵英語版
枢密院議長
1794年 – 1796年
次代
チャタム伯爵英語版
グレートブリテンの爵位
先代
ウィリアム・マレー
マンスフィールド伯爵
第2期
1793年 – 1796年
次代
デイヴィッド・ウィリアム・マレー英語版
スコットランドの爵位
先代
デイヴィッド・マレー
ストーモント子爵
1748年 – 1796年
次代
デイヴィッド・ウィリアム・マレー英語版