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[[ファイル:Henry_Lansdowne_foto.jpg|サムネイル|277x277ピクセル|9代卿(第5代ランズダウン侯爵)[[ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第5代ランズダウン侯爵)|ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス]]。[[外務・英連邦大臣|外相]]や[[インドの総督|インド総督]]を歴任した。]] |
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2代卿[[ウィリアム・マレー (第2代ネアーン卿)|ウィリアム]]<small>(1665頃-1726)</small>は[[ジャコバイト]]であり[[1715年ジャコバイト蜂起]]に参加したのち、{{仮リンク|プレストンの戦い_(1715年)|label=プレストンの戦い|en|Battle_of_Preston_(1715)}}に敗れて捕虜となり、翌年には[[私権剥奪]]を受けた{{sfn|Chisholm|1911|p=155}}。 |
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しかし、彼の息子である6代卿[[ウィリアム・ネアーン (第6代ネアーン卿)|ウィリアム]]<small>(1808-1837)</small>が未婚のまま死去したため、ネアーン卿位は2代卿[[ウィリアム・マレー (第2代ネアーン卿)|ウィリアム]]の玄孫にまで遡って、フラオー伯爵夫人マーガレット・マーサー・エルフィンストンが継承した<ref name=":0" />。 |
しかし、彼の息子である6代卿[[ウィリアム・ネアーン (第6代ネアーン卿)|ウィリアム]]<small>(1808-1837)</small>が未婚のまま死去したため、ネアーン卿位は2代卿[[ウィリアム・マレー (第2代ネアーン卿)|ウィリアム]]の玄孫にまで遡って、フラオー伯爵夫人マーガレット・マーサー・エルフィンストンが継承した<ref name=":0" />。 |
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7代女卿マーガレット<small>(1788-1867)</small>は、フランス外相[[シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール|タレーラン]]の子である将軍{{仮リンク|シャルル・ド・フラオー|en|Charles_de_Flahaut}}と結婚していたほか、父からも爵位を相続していたため[[キース男爵|キース女男爵]]位も併せて保持していた{{#tag:ref|彼女は父から1791年叙爵のアイルランド貴族爵位であるキース女男爵及び、1803年創設の連合王国貴族爵位であるキース女男爵の2つを相続した。しかし両爵位とも彼女の死を以て廃絶となっている。<ref>{{Cite web|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk |
7代女卿マーガレット<small>(1788-1867)</small>は、フランス外相[[シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール|タレーラン]]の子である将軍{{仮リンク|シャルル・ド・フラオー|en|Charles_de_Flahaut}}と結婚していたほか、父からも爵位を相続していたため[[キース男爵|キース女男爵]]位も併せて保持していた{{#tag:ref|彼女は父から1791年叙爵のアイルランド貴族爵位であるキース女男爵及び、1803年創設の連合王国貴族爵位であるキース女男爵の2つを相続した。しかし両爵位とも彼女の死を以て廃絶となっている。<ref>{{Cite web|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/keith1814.htm|title=Keith, Viscount (UK, 1814 - 1823)|accessdate=2019年11月20日|publisher=Cracroft's Peerage}}</ref>|group="註釈"}}。ただし、彼女がその生涯で卿位を主張することはなかった{{sfn|Chisholm|1911|p=155}}。(→''以前の歴史は[[キース男爵]]を参照'') |
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その長女エミリー<small>(1819-1895)</small>はネアーン卿位の保持者である旨を主張して、1874年に[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]よりこれを認められている<ref name=":02" />。なお、彼女は[[ランズダウン侯爵]]家に嫁いだため、卿位はさらに同侯爵家へと流出した。 |
その長女エミリー<small>(1819-1895)</small>はネアーン卿位の保持者である旨を主張して、1874年に[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]よりこれを認められている<ref name=":02" />。なお、彼女は[[ランズダウン侯爵]]家に嫁いだため、卿位はさらに同侯爵家へと流出した。 |
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その後、3代にわたってペティ=フィッツモーリス家が卿位を保持したが、11代卿チャールズ・ペティ=フィッツモーリス<small>(1917-1944)</small>が[[第二次世界大戦]]で男子のないまま戦死すると、卿位はその姉キャサリンが相続した<ref>{{Cite web|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk |
その後、3代にわたってペティ=フィッツモーリス家が卿位を保持したが、11代卿チャールズ・ペティ=フィッツモーリス<small>(1917-1944)</small>が[[第二次世界大戦]]で男子のないまま戦死すると、卿位はその姉キャサリンが相続した<ref>{{Cite web|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/lansdowne1784.htm#LANSDOWNE_1784_5|title=Lansdowne, Marquess of (GB, 1784)|accessdate=2019年11月20日|publisher=Cracroft Peerage}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://thepeerage.com/p5210.htm#i52098|title=Charles Hope Petty-FitzMaurice, 7th Marquess of Lansdowne|accessdate=2019-11-20|last=Lundy|first=Darryl|work=[http://thepeerage.com/ thepeerage.com]|language=英語|publisher=}}</ref>。(→''以降の歴史は[[ランズダウン侯爵]]を参照。'') |
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12代女卿キャサリン<small>(1912-1995)</small>は[[エドワード・ビガム (第3代マージー子爵)|第3代マージー子爵エドワード・ビガム]]と結婚したため、ネアーン卿は[[マージー子爵|マージー子爵家]]の従属爵位となり現在に至っている<ref name=":02" /><ref name=":03" />。(→''以降の歴史は[[マージー子爵]]を参照。'') |
12代女卿キャサリン<small>(1912-1995)</small>は[[エドワード・ビガム (第3代マージー子爵)|第3代マージー子爵エドワード・ビガム]]と結婚したため、ネアーン卿は[[マージー子爵|マージー子爵家]]の従属爵位となり現在に至っている<ref name=":02" /><ref name=":03" />。(→''以降の歴史は[[マージー子爵]]を参照。'') |
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一族の邸宅は、[[サセックス州]]プルバラ近郊に位置するビグナー・パーク(Bignor Park)<ref name=":03">{{Cite web|title=Mersey, Viscount (UK, 1916)|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk |
一族の邸宅は、[[サセックス州]]プルバラ近郊に位置するビグナー・パーク(Bignor Park)<ref name=":03">{{Cite web|title=Mersey, Viscount (UK, 1916)|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/mersey1816.htm|website=www.cracroftspeerage.co.uk|accessdate=2020-09-07|publisher=|last=Heraldic Media Limited|archivedate=2017年12月23日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200823031400/http://www.cracroftspeerage.co.uk/mersey1816.htm|work=[http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage]|language=英語}}</ref>。 |
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== ネアーン卿(1681年) == |
== ネアーン卿(1681年) == |
2020年12月4日 (金) 06:09時点における版
ネアーン卿(英:Lord Nairne)は、スコットランド貴族のロード・オブ・パーラメント。
判事ロバート・ネアーンが1681年に叙されたことに始まる。1995年以降、マージー子爵家の従属爵位となっている。
歴史
スコットランド民事控訴院院長を務めた判事ロバート・ネアーン(1600-1683)は1681年1月27日にスコットランド貴族としてネアーン卿(Lord Nairne)に叙された[1][2]。彼には一人娘のマーガレット(1669-?)があるのみであったため、爵位は娘婿ウィリアム・マレー[註釈 1]を継承者に加えた特別継承権を帯びており、初代卿ののちは彼が卿位を相続した[1]。
2代卿ウィリアム(1665頃-1726)はジャコバイトであり1715年ジャコバイト蜂起に参加したのち、プレストンの戦いに敗れて捕虜となり、翌年には私権剥奪を受けた[3]。
その息子ジョン(1691-1770)も父同様にジャコバイトとして1715年ジャコバイト蜂起及び1745年ジャコバイト蜂起に参加して、度々私権剥奪を蒙った[4]。
その孫にあたるウィリアム(1757-1830)の代に、1824年1月17日の議会法によって父祖に対する私権剥奪処分の撤回とネアーン卿位の回復が認められた[1]。
しかし、彼の息子である6代卿ウィリアム(1808-1837)が未婚のまま死去したため、ネアーン卿位は2代卿ウィリアムの玄孫にまで遡って、フラオー伯爵夫人マーガレット・マーサー・エルフィンストンが継承した[4]。
7代女卿マーガレット(1788-1867)は、フランス外相タレーランの子である将軍シャルル・ド・フラオーと結婚していたほか、父からも爵位を相続していたためキース女男爵位も併せて保持していた[註釈 2]。ただし、彼女がその生涯で卿位を主張することはなかった[3]。(→以前の歴史はキース男爵を参照)
その長女エミリー(1819-1895)はネアーン卿位の保持者である旨を主張して、1874年に貴族院よりこれを認められている[1]。なお、彼女はランズダウン侯爵家に嫁いだため、卿位はさらに同侯爵家へと流出した。
その後、3代にわたってペティ=フィッツモーリス家が卿位を保持したが、11代卿チャールズ・ペティ=フィッツモーリス(1917-1944)が第二次世界大戦で男子のないまま戦死すると、卿位はその姉キャサリンが相続した[6][7]。(→以降の歴史はランズダウン侯爵を参照。)
12代女卿キャサリン(1912-1995)は第3代マージー子爵エドワード・ビガムと結婚したため、ネアーン卿はマージー子爵家の従属爵位となり現在に至っている[1][8]。(→以降の歴史はマージー子爵を参照。)
一族の邸宅は、サセックス州プルバラ近郊に位置するビグナー・パーク(Bignor Park)[8]。
ネアーン卿(1681年)
- 初代ネアーン卿ロバート・ネアーン (1620頃–1683)
- 第2代ネアーン卿ウィリアム・マレー(1664–1726)(1716年私権剥奪処分・爵位褫奪)
- 第3代ネアーン卿ジョン・ネアーン(1691-1770)
- 第4代ネアーン卿ジョン・ネアーン (?-1782)
- 第5代ネアーン卿ウィリアム・マレー・ネアーン (1757-1830)(1824年爵位回復)
- 第6代ネアーン卿ウィリアム・マレー・ネアーン (1808–1837)
- 第7代ネアーン女卿(第2代キース女男爵)マーガレット・マーサー・エルフィンストン (1788–1867)
- 第8代ネアーン女卿(ランズダウン侯爵夫人)エミリー・ジェーン・ペティ=フィッツモーリス (1819-1895)
- 第9代ネアーン卿(第5代ランズダウン侯爵)ヘンリー・チャールズ・キース・ペティ=フィッツモーリス (1845–1927)
- 第10代ネアーン卿(第6代ランズダウン侯爵)ヘンリー・ウィリアム・エドマンド・ペティ=フィッツモーリス (1872-1936)
- 第11代ネアーン卿(第7代ランズダウン侯爵)チャールズ・ペティ=フィッツモーリス (1917–1944)
- 第12代ネアーン女卿(マージー子爵夫人)キャサリン・イヴリン・コンスタンス・ビガム (1912–1995)
- 第13代ネアーン卿(第4代マージー子爵)リチャード・モーリス・クライヴ・ビガム (1934–2006)
- 第14代ネアーン卿(第5代マージー子爵)エドワード・ジョン・ヘイラム・ビガム (1966-)
卿位の法定推定相続人は、現当主の娘であるミストレス・オブ・ネアーン(儀礼称号) フローラ・ダイアナ・ジョアン・ビガム (2003‐ )[1]。
脚注
註釈
- ^ 彼は初代アソル侯爵ジョン・マレーの四男にあたっており、兄に初代アソル公爵ジョン・マレーがいる。
- ^ 彼女は父から1791年叙爵のアイルランド貴族爵位であるキース女男爵及び、1803年創設の連合王国貴族爵位であるキース女男爵の2つを相続した。しかし両爵位とも彼女の死を以て廃絶となっている。[5]
出典
- ^ a b c d e f Heraldic Media Limited. “Nairne, Lord (S, 1681)” (英語). www.cracroftspeerage.co.uk. Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2019年1月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年9月7日閲覧。
- ^ Lee, Sidney, ed. (1894). . Dictionary of National Biography (英語). Vol. 40. London: Smith, Elder & Co.
- ^ a b Chisholm 1911, p. 155.
- ^ a b ““The Jacobite peerage, baronetage, knightage and grants of honour”.”. Ruvigny et Raineval, Melville Henry Massue, marquis de, (1904),p=126.. 2019年11月20日閲覧。
- ^ “Keith, Viscount (UK, 1814 - 1823)”. Cracroft's Peerage. 2019年11月20日閲覧。
- ^ “Lansdowne, Marquess of (GB, 1784)”. Cracroft Peerage. 2019年11月20日閲覧。
- ^ Lundy, Darryl. “Charles Hope Petty-FitzMaurice, 7th Marquess of Lansdowne” (英語). thepeerage.com. 2019年11月20日閲覧。
- ^ a b Heraldic Media Limited. “Mersey, Viscount (UK, 1916)” (英語). www.cracroftspeerage.co.uk. Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2017年12月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年9月7日閲覧。
参考文献
- この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Nairne, Carolina, Baroness". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 19 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 154–155. 「 Nairne, Carolina, Baroness 」。 ブリタニカ百科事典 。 19 (第11版 )。 ケンブリッジ大学。 pp。 154–155。