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{{仮リンク|アングロ・アイリッシュ|en|Anglo-Irish people}}の地主{{仮リンク|トレヴァー・ヒル (初代ヒルズバラ子爵)|label=トレヴァー・ヒル|en|Trevor Hill, 1st Viscount Hillsborough}}<small>(1693–1742)</small>は、[[アイルランド議会 (1297-1800)|アイルランド議会]]や[[イギリス議会|グレートブリテン議会]]で庶民院議員を務め、[[1717年]][[8月21日]]に[[アイルランド貴族]]爵位'''ヒルズバラ子爵'''<small>(Viscount Hillsborough)</small>と'''ダウン県におけるキルワーリンのヒル男爵'''<small>(Baron Hill, of Kilwarlin in the County of Down)</small>に叙せられた<ref>{{Cite web |url= http://thepeerage.com/p3658.htm#i36580|title=Trevor Hill, 1st Viscount Hillsborough|accessdate= 2016-08-25 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref>。
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その息子である2代ヒルズバラ子爵[[ウィルズ・ヒル (初代ダウンシャー侯爵)|ウィルズ・ヒル]]<small>(1718–1793)</small>もグレートブリテン議会の庶民院議員となり、[[1751年]]10月には直系の男系男子に次いで叔父初代{{仮リンク|ダンガノン子爵|en|Viscount Dungannon}}[[アーサー・ヒル=トレヴァー (初代ダンガノン子爵)|アーサー・ヒル=トレヴァー]]<small>(1694頃-1771)</small>の男系男子への特別継承を規定したアイルランド貴族爵位'''ヒルズバラ伯爵'''<small>(Earl of Hillsborough)</small>と'''キルワーリン子爵'''<small>(Viscount Kilwarlin)</small>に叙せられた<ref name="thepeerage.com1">{{Cite web |url= http://thepeerage.com/p1273.htm#i12722|title=Wills Hill, 1st Marquess of Downshire|accessdate= 2016-08-25 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref><ref name="CP MD">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/downshire1789.htm|title=Downshire, Marquess of (I, 1789)|accessdate= 2016-08-23 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。ついで[[1756年]][[11月17日]]には[[グレートブリテン貴族]]爵位'''エセックス州におけるハリッジのハリッジ男爵'''<small>(Baron Harwich, of Harwich in the County of Essex)</small>に叙せられ、グレートブリテン議会[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員に列した(以降の当主も自動的にイギリス議会の貴族院議員となる)<ref name="thepeerage.com1" /><ref name="CP MD" />。その後彼は1768年から1772年にかけて[[大ピット]]内閣から[[フレデリック・ノース (第2代ギルフォード伯爵)|ノース卿]]内閣までの三代の内閣で[[植民地大臣]]を務めたが、アメリカ植民地に対して強硬姿勢をとったためアメリカ人の反発を招いた。この反発が[[アメリカ独立戦争]]への機運の高まりの背景の一つとなった{{sfn|真嶋正己|2003|p=87}}<ref name="DNB">{{Cite DNB|wstitle=Hill, Wills}}</ref>。1772年[[8月28日]]には植民地大臣辞職に際してグレートブリテン貴族'''ヒルズバラ伯爵'''と'''フェアフォード子爵'''<small>(Viscount Fairford)</small>に叙せられ、さらに晩年の[[1789年]][[8月20日]]にはアイルランド貴族'''ダウンシャー侯爵'''に叙せられた<ref name="thepeerage.com1" /><ref name="CP MD" />。
その息子である2代ヒルズバラ子爵[[ウィルズ・ヒル (初代ダウンシャー侯爵)|ウィルズ・ヒル]]<small>(1718–1793)</small>もグレートブリテン議会の庶民院議員となり、[[1751年]]10月には直系の男系男子に次いで叔父初代{{仮リンク|ダンガノン子爵|en|Viscount Dungannon}}[[アーサー・ヒル=トレヴァー (初代ダンガノン子爵)|アーサー・ヒル=トレヴァー]]<small>(1694頃-1771)</small>の男系男子への特別継承を規定したアイルランド貴族爵位'''ヒルズバラ伯爵'''<small>(Earl of Hillsborough)</small>と'''キルワーリン子爵'''<small>(Viscount Kilwarlin)</small>に叙せられた<ref name="thepeerage.com1">{{Cite web |url= http://thepeerage.com/p1273.htm#i12722|title=Wills Hill, 1st Marquess of Downshire|accessdate= 2016-08-25 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref><ref name="CP MD">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/downshire1789.htm|title=Downshire, Marquess of (I, 1789)|accessdate= 2016-08-23 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。ついで[[1756年]][[11月17日]]には[[グレートブリテン貴族]]爵位'''エセックス州におけるハリッジのハリッジ男爵'''<small>(Baron Harwich, of Harwich in the County of Essex)</small>に叙せられ、グレートブリテン議会[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員に列した(以降の当主も自動的にイギリス議会の貴族院議員となる)<ref name="thepeerage.com1" /><ref name="CP MD" />。その後彼は1768年から1772年にかけて[[大ピット]]内閣から[[フレデリック・ノース (第2代ギルフォード伯爵)|ノース卿]]内閣までの三代の内閣で[[植民地大臣]]を務めたが、アメリカ植民地に対して強硬姿勢をとったためアメリカ人の反発を招いた。この反発が[[アメリカ独立戦争]]への機運の高まりの背景の一つとなった{{sfn|真嶋正己|2003|p=87}}<ref name="DNB">{{Cite DNB|wstitle=Hill, Wills}}</ref>。1772年[[8月28日]]には植民地大臣辞職に際してグレートブリテン貴族'''ヒルズバラ伯爵'''と'''フェアフォード子爵'''<small>(Viscount Fairford)</small>に叙せられ、さらに晩年の[[1789年]][[8月20日]]にはアイルランド貴族'''ダウンシャー侯爵'''に叙せられた<ref name="thepeerage.com1" /><ref name="CP MD" />。


その息子である2代侯{{仮リンク|アーサー・ヒル (第2代ダウンシャー侯爵)|label=アーサー・ヒル|en|Arthur Hill, 2nd Marquess of Downshire}}<small>(1753-1801)</small>の妻[[メアリー・ヒル (初代サンズ女男爵)|メアリー・ヒル]]<small>(1774–1836)</small>(初代{{仮リンク|サンズ男爵|en|Baron Sandys|label=}}[[サミュエル・サンズ (初代サンズ男爵)|サミュエル・サンズ]]の孫娘)は夫の死後の[[1802年]][[6月19日]]に[[連合王国貴族]]爵位'''ウスター州におけるオンバースリーのサンズ女男爵'''<small>(Baroness Sandys, of Ombersley in the County of Worcester)</small>に叙せられた。この爵位は夫妻の次男{{仮リンク|アーサー・ヒル (第2代サンズ男爵)|label=アーサー・モイセズ・ウィリアム・ヒル|en|Arthur Hill, 2nd Baron Sandys}}<small>(1793–1860)</small>以下の[[世襲貴族#「ヤンガーサン」|ヤンガーサン]]たちとその男系男子を長男である3代侯{{仮リンク|アーサー・ヒル (第3代ダウンシャー侯爵)|label=アーサー・ブランデル・サンズ・トランブル・ヒル|en|Arthur Hill, 3rd Marquess of Downshire}}<small>(1788–1845)</small>とその男系男子に優先させるという特別継承規定が付けられていた<ref name="CP MD" />。この爵位は[[2013年]]までヤンガーサンたちの男系男子に継承され続けたが、2013年に2代侯のヤンガーサンの家系がすべて絶えたため、3代侯の子孫でダウンシャー侯爵家の現当主である9代侯{{仮リンク|ニコラス・ヒル (第9代ダウンシャー侯爵)|label=アーサー・フランシス・ニコラス・ウィルズ・ヒル|en|Nicholas Hill, 9th Marquess of Downshire}}<small>(1959-)</small>が継承することとなり、結局ダウンシャー侯爵位の従属爵位の一つとなった<ref name="CP BS">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/sandys1802.htm|title=Sandys, Baron (UK, 1802)|accessdate= 2016-08-25 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。
その息子である2代侯{{仮リンク|アーサー・ヒル (第2代ダウンシャー侯爵)|label=アーサー・ヒル|en|Arthur Hill, 2nd Marquess of Downshire}}<small>(1753-1801)</small>の妻[[メアリー・ヒル (初代サンズ女男爵)|メアリー・ヒル]]<small>(1774–1836)</small>(初代{{仮リンク|サンズ男爵|en|Baron Sandys|label=}}[[サミュエル・サンズ (初代サンズ男爵)|サミュエル・サンズ]]の孫娘)は夫の死後の[[1802年]][[6月19日]]に[[連合王国貴族]]爵位'''ウスター州におけるオンバースリーのサンズ女男爵'''<small>(Baroness Sandys, of Ombersley in the County of Worcester)</small>に叙せられた。この爵位は夫妻の次男{{仮リンク|アーサー・ヒル (第2代サンズ男爵)|label=アーサー・モイセズ・ウィリアム・ヒル|en|Arthur Hill, 2nd Baron Sandys}}<small>(1793–1860)</small>以下の[[世襲貴族#「ヤンガーサン」|ヤンガーサン]]たちとその男系男子を長男である3代侯{{仮リンク|アーサー・ヒル (第3代ダウンシャー侯爵)|label=アーサー・ブランデル・サンズ・トランブル・ヒル|en|Arthur Hill, 3rd Marquess of Downshire}}<small>(1788–1845)</small>とその男系男子に優先させるという特別継承規定が付けられていた<ref name="CP MD" />。この爵位は[[2013年]]までヤンガーサンたちの男系男子に継承され続けたが、2013年に2代侯のヤンガーサンの家系がすべて絶えたため、3代侯の子孫でダウンシャー侯爵家の現当主である9代侯{{仮リンク|ニコラス・ヒル (第9代ダウンシャー侯爵)|label=アーサー・フランシス・ニコラス・ウィルズ・ヒル|en|Nicholas Hill, 9th Marquess of Downshire}}<small>(1959-)</small>が継承することとなり、結局ダウンシャー侯爵位の従属爵位の一つとなった<ref name="CP BS">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/sandys1802.htm|title=Sandys, Baron (UK, 1802)|accessdate= 2016-08-25 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。


また3代侯の三男である{{仮リンク|エドウィン・ヒル=トレヴァー (初代トレヴァー男爵)|label=エドウィン・ヒル=トレヴァー|en|Edwin Hill-Trevor, 1st Baron Trevor}}<small>(1819-1894)</small>は、[[保守党 (イギリス)|保守党]]の庶民院議員を務めた後、[[1880年]][[5月5日]]に連合王国貴族{{仮リンク|トレヴァー男爵|en|Baron Trevor}}に叙せられている。このトレヴァー男爵家は[[2016年]]現在も存続している<ref name="CP BT">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/trevor1880.htm|title=Trevor, Baron (UK, 1880)|accessdate= 2016-08-25 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。
また3代侯の三男である{{仮リンク|エドウィン・ヒル=トレヴァー (初代トレヴァー男爵)|label=エドウィン・ヒル=トレヴァー|en|Edwin Hill-Trevor, 1st Baron Trevor}}<small>(1819-1894)</small>は、[[保守党 (イギリス)|保守党]]の庶民院議員を務めた後、[[1880年]][[5月5日]]に連合王国貴族{{仮リンク|トレヴァー男爵|en|Baron Trevor}}に叙せられている。このトレヴァー男爵家は[[2016年]]現在も存続している<ref name="CP BT">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/trevor1880.htm|title=Trevor, Baron (UK, 1880)|accessdate= 2016-08-25 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。


== 現当主の保有爵位 ==
== 現当主の保有爵位 ==

2020年12月4日 (金) 05:25時点における版

ダウンシャー侯爵

創設時期1789年8月20日
創設者ジョージ3世
貴族アイルランド貴族
初代初代ダウンシャー侯爵ウィルズ・ヒル
現所有者第9代ダウンシャー侯爵アーサー・フランシス・ニコラス・ウィルズ・ヒル
相続資格初代侯の直系の嫡出の男系男子(1st Marquess's heirs male of the body lawfully begotten)
付随称号ヒルズバラ伯爵(i)
ヒルズバラ伯爵(gb)
ヒルズバラ子爵
キルワーリン子爵
フェアフォード子爵
ヒル男爵
ハリッジ男爵
サンズ男爵
モットーPER DEUM FERRUM OBTINUI
(By God and my sword I have obtained)
E TENTES AUT PERFICE
(Either attempt not, or accomplish)

ダウンシャー侯爵英語: Marquess of Downshire)は、アイルランド貴族侯爵位。

植民地大臣を務めた政治家第2代ヒルズバラ子爵ウィルズ・ヒル1789年に叙されたのに始まる。

歴史

初代ダウンシャー侯爵ウィルズ・ヒル

アングロ・アイリッシュ英語版の地主トレヴァー・ヒル(1693–1742)は、アイルランド議会グレートブリテン議会で庶民院議員を務め、1717年8月21日アイルランド貴族爵位ヒルズバラ子爵(Viscount Hillsborough)ダウン県におけるキルワーリンのヒル男爵(Baron Hill, of Kilwarlin in the County of Down)に叙せられた[1]

その息子である2代ヒルズバラ子爵ウィルズ・ヒル(1718–1793)もグレートブリテン議会の庶民院議員となり、1751年10月には直系の男系男子に次いで叔父初代ダンガノン子爵アーサー・ヒル=トレヴァー(1694頃-1771)の男系男子への特別継承を規定したアイルランド貴族爵位ヒルズバラ伯爵(Earl of Hillsborough)キルワーリン子爵(Viscount Kilwarlin)に叙せられた[2][3]。ついで1756年11月17日にはグレートブリテン貴族爵位エセックス州におけるハリッジのハリッジ男爵(Baron Harwich, of Harwich in the County of Essex)に叙せられ、グレートブリテン議会貴族院議員に列した(以降の当主も自動的にイギリス議会の貴族院議員となる)[2][3]。その後彼は1768年から1772年にかけて大ピット内閣からノース卿内閣までの三代の内閣で植民地大臣を務めたが、アメリカ植民地に対して強硬姿勢をとったためアメリカ人の反発を招いた。この反発がアメリカ独立戦争への機運の高まりの背景の一つとなった[4][5]。1772年8月28日には植民地大臣辞職に際してグレートブリテン貴族ヒルズバラ伯爵フェアフォード子爵(Viscount Fairford)に叙せられ、さらに晩年の1789年8月20日にはアイルランド貴族ダウンシャー侯爵に叙せられた[2][3]

その息子である2代侯アーサー・ヒル英語版(1753-1801)の妻メアリー・ヒル(1774–1836)(初代サンズ男爵英語版サミュエル・サンズの孫娘)は夫の死後の1802年6月19日連合王国貴族爵位ウスター州におけるオンバースリーのサンズ女男爵(Baroness Sandys, of Ombersley in the County of Worcester)に叙せられた。この爵位は夫妻の次男アーサー・モイセズ・ウィリアム・ヒル英語版(1793–1860)以下のヤンガーサンたちとその男系男子を長男である3代侯アーサー・ブランデル・サンズ・トランブル・ヒル(1788–1845)とその男系男子に優先させるという特別継承規定が付けられていた[3]。この爵位は2013年までヤンガーサンたちの男系男子に継承され続けたが、2013年に2代侯のヤンガーサンの家系がすべて絶えたため、3代侯の子孫でダウンシャー侯爵家の現当主である9代侯アーサー・フランシス・ニコラス・ウィルズ・ヒル英語版(1959-)が継承することとなり、結局ダウンシャー侯爵位の従属爵位の一つとなった[6]

また3代侯の三男であるエドウィン・ヒル=トレヴァー(1819-1894)は、保守党の庶民院議員を務めた後、1880年5月5日に連合王国貴族トレヴァー男爵英語版に叙せられている。このトレヴァー男爵家は2016年現在も存続している[7]

現当主の保有爵位

現当主アーサー・フランシス・ニコラス・ウィルズ・ヒル英語版は以下の爵位を保有している[3][8]

  • 第9代ダウンシャー侯爵 (9th Marquess of Downshire)
    (1789年8月20日勅許状によるアイルランド貴族爵位)
  • 第9代ヒルズバラ伯爵 (9th Earl of Hillsborough)
    (1751年10月3日の勅許状によるアイルランド貴族爵位。法定推定相続人の儀礼称号)
  • 第9代ヒルズバラ伯爵 (9th Earl of Hillsborough)
    (1772年8月28日の勅許状によるグレートブリテン貴族爵位)
  • 第10代ヒルズバラ子爵 (10th Viscount Hillsborough)
    (1717年8月21日の勅許状によるアイルランド貴族爵位)
  • 第9代キルワーリン子爵 (9th Viscount Kilwarlin)
    (1751年10月3日の勅許状によるアイルランド貴族爵位)
  • 第9代フェアフォード子爵 (9th Viscount Fairford)
    (1772年8月28日の勅許状によるグレートブリテン貴族爵位)
  • ダウン県におけるキルワーリンの第10代ヒル男爵 (10th Baron Hill, of Kilwarlin in the County of Down)
    (1717年8月21日の勅許状によるアイルランド貴族爵位)
  • エセックス州におけるハリッジの第9代ハリッジ男爵 (9th Baron Harwich, of Harwich in the County of Essex)
    (1756年11月17日の勅許状によるグレートブリテン貴族爵位)
  • ウスター州におけるオンバースリーの第8代サンズ男爵英語版 (8th Baron Sandys, of Ombersley in the County of Worcester)
    (1802年6月19日の勅許状による連合王国貴族爵位)

歴代当主一覧

ダウン県ヒルズバラにある4代ダウンシャー侯アーサー

ヒルズバラ子爵 (1717年創設)

ダウンシャー侯 (1789年創設)

家系図

ダウンシャー伯爵ヒル家系図
マイケル・ヒル英語版
(1672–1699)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1717年ヒルズバラ子爵
 
1766年ダンガノン子爵
初代ヒルズバラ子爵
トレヴァー・ヒル

(1693–1742)
 
初代ダンガノン子爵
アーサー・ヒル=トレヴァー

(1694?-1771)
 
 
 
 
 
 
 
 
1789年ダウンシャー侯爵
 
ダンガノン子爵家
初代ダウンシャー侯
2代ヒルズバラ子爵
ウィルズ・ヒル

(1718–1793)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1802年サンズ男爵英語版
2代ダウンシャー侯
3代ヒルズバラ子爵
アーサー・ヒル
英語版

(1753–1801)
 
初代サンズ女男爵
メアリー・ヒル

(1774–1836)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3代ダウンシャー侯
4代ヒルズバラ子爵
アーサー・ヒル

(1788–1845)
 
2代サンズ男爵
アーサー・ヒル
英語版

(1793-1860)
 
3代サンズ男爵
マーカス・サンズ
(旧姓ヒル)

(1798–1863)
 
 
 
 
 
ジョージ・ヒル
(1801-1879)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1880年トレヴァー男爵英語版
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
4代ダウンシャー侯
5代ヒルズバラ子爵
アーサー・ヒル

(1812–1868)
 
初代トレヴァー男爵
エドウィン・ヒル=トレヴァー

(1819-1894)
 
4代サンズ男爵
オーガスタス・サンズ

(1840–1904)
 
5代サンズ男爵
マイケル・サンズ

(1855-1948)
 
アーサー・ヒル
(1837-1923)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
トレヴァー男爵家へ英語版
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5代ダウンシャー侯
6代ヒルズバラ子爵
6代ヒルズバラ子爵
アーサー・ヒル

(1844–1874)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
6代サンズ男爵
アーサー・ヒル

(1876–1961)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
6代ダウンシャー侯
7代ヒルズバラ子爵
アーサー・ヒル

(1871–1918)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7代サンズ男爵
リチャード・ヒル
英語版

(1931-2013)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7代ダウンシャー侯
8代ヒルズバラ子爵
アーサー・ヒル

(1894–1989)
 
アーサー・ヒル
(1895-1953)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
8代ダウンシャー侯
9代ヒルズバラ子爵
アーサー・ヒル
英語版

(1929–2003)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
9代ダウンシャー侯
10代ヒルズバラ子爵
8代サンズ男爵
ニコラス・ヒル
英語版

(1953-)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヒルズバラ伯(儀礼称号)
エドムンド・ヒル
(1996-)
 

関連項目

脚注

出典

  1. ^ Lundy, Darryl. “Trevor Hill, 1st Viscount Hillsborough” (英語). thepeerage.com. 2016年8月25日閲覧。
  2. ^ a b c Lundy, Darryl. “Wills Hill, 1st Marquess of Downshire” (英語). thepeerage.com. 2016年8月25日閲覧。
  3. ^ a b c d e Heraldic Media Limited. “Downshire, Marquess of (I, 1789)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2016年8月23日閲覧。
  4. ^ 真嶋正己 2003, p. 87.
  5. ^ "Hill, Wills" . Dictionary of National Biography (英語). London: Smith, Elder & Co. 1885–1900.
  6. ^ Heraldic Media Limited. “Sandys, Baron (UK, 1802)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2016年8月25日閲覧。
  7. ^ Heraldic Media Limited. “Trevor, Baron (UK, 1880)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2016年8月25日閲覧。
  8. ^ Lundy, Darryl. “Arthur Francis Nicholas Wills Ian Hill, 9th Marquess of Downshire” (英語). thepeerage.com. 2016年8月23日閲覧。

参考文献

  • 真嶋正己『[harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/hbg/file/8250/20140326153951/KJ00004085922.pdf パークとアメリカ植民地問題:1766-1770 [11]]』(PDF)広島女学院大学、2003年。harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/hbg/file/8250/20140326153951/KJ00004085922.pdf