エドウィン・ヒル=トレヴァー (初代トレヴァー男爵)
初代トレヴァー男爵アーサー・エドウィン・ヒル=トレヴァー(Arthur Edwin Hill-Trevor, 1st Baron Trevor、出生名アーサー・エドウィン・ヒル(Arthur Edwin Hill)、1819年11月4日 – 1894年12月25日)は、イギリスの政治家、貴族。ダウンシャー侯爵家のヤンガーサン(次男以降)であり、保守党所属の庶民院議員を35年間務めたのち、男爵に叙された[1]。叙爵以前はエドウィン・ヒル卿(Lord Edwin Hill)の称号を使用した[2]。
生涯
[編集]第3代ダウンシャー侯爵アーサー・ヒルとマリア・ウィンザー(Maria Windsor、1790年5月30日 – 1855年4月7日、第5代プリマス伯爵アザー・ウィンザーの娘[3])の三男として、1819年11月4日にダウン県のヒルズバラ城で生まれた[1]。イートン・カレッジで教育を受けた後[1]、1838年3月28日にオックスフォード大学ベリオール・カレッジに入学、1843年にB.A.の学位を修得し、1865年にM.A.の学位を授与された[4]。1844年から1845年にかけてアイルランド総督付寝室侍従(Gentleman of the Bedchamber)を務めた[1]。
1845年に父が死去して、ダウン選挙区選出庶民院議員だった兄アーサーがダウンシャー侯爵位を継承すると[3]、ヒルは同年6月にダウン選挙区の補欠選挙に出馬、無投票で当選した[5]。その後、1847年イギリス総選挙において無投票で再選、1852年と1857年の総選挙ではそれぞれ5,839票、4,654票(いずれも得票数1位)で再選した[5]。1859年、1865年、1868年の総選挙では無投票、1874年の総選挙では5,029票(得票数1位)で再選した[5]。1880年イギリス総選挙をもって議員を退任[5]、同年5月5日に連合王国貴族であるデンビー州ブリンキナルトのトレヴァー男爵に叙された[1][6]。
地方政治では1854年3月にノッティンガムシャーの副統監に任命された[2]。1862年8月11日に遠戚にあたる第3代ダンガノン子爵アーサー・ヒル=トレヴァーが死去すると、その遺産を相続し、これに伴い同年9月9日に認可状を得て姓をヒル=トレヴァーに改めた[1][7]。1863年2月24日、北シュロップシャー・ヨーマンリー連隊のSecond Majorに任命された[8]。南ノッティンガムシャー・ヨーマンリー連隊では中尉だったが、1863年3月ごろに辞任した[9]。また南ダウン民兵隊では副隊長(中佐)だった[1]。1883年時点でダウン県に11,010エーカー、アントリム県に8,372エーカー、アーマー県に1,219エーカー、シュロップシャーに1,743エーカー、フリントシャーに954エーカー、デンビーシャーに396エーカーの領地を所有し、合計で年収17,700ポンドに相当したほか、ナイツブリッジにも不動産を所有した[1]。
1894年12月25日にベルグレヴィアのベルグレイヴ・スクエア25号で病死、29日にデンビーシャーのチャーク(現クルイド州の一部)で埋葬された[1]。息子アーサー・ウィリアムが爵位を継承した[1]。
家族
[編集]1848年6月27日、メアリー・エミリー・サットン(Mary Emily Sutton、1830年ごろ – 1855年1月24日、第2代準男爵サー・リチャード・サットンの娘)と結婚[1]、1男1女をもうけた[10]。
- ガートルード・メアリー(1850年11月12日 – 1870年2月1日[10])
- アーサー・ウィリアム(1852年11月19日 – 1923年5月19日) - 第2代トレヴァー男爵[1]
1858年4月15日、メアリー・キャサリン・カーゾン(Mary Catherine Curzon、1837年12月14日 – 1911年8月20日、アルフレッド・カーゾン閣下の娘)と再婚[1]、6男6女をもうけた[10]。
- ジョージ・エドウィン(1859年11月15日 – 1922年7月21日) - 1893年4月26日、エセル・ジョージナ・メアリー・チャップマン(Ethel Georgina Mary Chapman、ヒルヤー・チャップマンの娘)と結婚、1男(1895年12月31日 – 1914年12月21日)をもうけたが、2人は1910年に離婚した。1910年10月22日にヘレン・スアート(Helen Suart、1919年5月28日没、トマス・スアートの娘)と再婚[11]
- イーディス・マリア(1861年3月30日 – 1940年11月14日) - 1890年7月31日、オーガスタス・ウィリアム・ウェスト(Augustus William West、1929年8月2日没、サー・アルジャーノン・ウェストの息子)と結婚[12]
- ニーナ・エミリー(1862年11月22日 – 1894年7月26日[11])
- チャールズ・エドワード(1863年12月22日 – 1950年12月22日) - 第3代トレヴァー男爵[1]
- マイケル・ローランド(1866年3月16日 – 1877年12月7日[11])
- メアリー・アリス(1867年1月30日 – 1867年8月20日[10])
- ネヴィル・ウィンザー(1869年1月23日 – 1900年1月24日) - 陸軍軍人。第二次ボーア戦争で戦死、生涯未婚[11]
- レイラ・ソフィー(1870年9月18日 – 1937年3月6日[12])
- マーカス・リチャード(1872年9月25日 – 1918年1月宇6日) - 第二次ボーア戦争と第一次世界大戦に参戦。生涯未婚[11]
- アーサー・ユースタス(1876年7月15日 – 1916年3月20日) - 生涯未婚[11]
- メアリー(1878年9月12日 – 1962年9月3日) - 1901年1月2日、庶民院議員ジェームズ・アーチボルド・モリソンと結婚して、子女をもうけたが、1913年に離婚した。1915年10月9日、探検家ダグラス・カラザーズと再婚[12]
- アン(1881年5月18日 – 1881年5月21日[11])
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n Cokayne, George Edward; White, Geoffrey H., eds. (1959). The Complete Peerage, or a history of the House of Lords and all its members from the earliest times (Tracton to Zouche) (英語). Vol. 12.2 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press. p. 33.
- ^ a b "No. 21534". The London Gazette (英語). 24 March 1854. p. 939.
- ^ a b Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, H. Arthur, eds. (1916). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Dacre to Dysart) (英語). Vol. 4 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 459–460.
- ^ Foster, Joseph (1888–1892). . Alumni Oxonienses: the Members of the University of Oxford, 1715–1886 (英語). Vol. 4. Oxford: Parker and Co. p. 1438. ウィキソースより。
- ^ a b c d Walker, B.M., ed. (1978). Parliamentary Election Results in Ireland, 1801-1922 (英語). Dublin: Royal Irish Academy. pp. 207–208. ISBN 0901714127。
- ^ "No. 24840". The London Gazette (英語). 30 April 1880. p. 2786.
- ^ "No. 22666". The London Gazette (英語). 26 September 1862. p. 4633.
- ^ "No. 22712". The London Gazette (英語). 27 February 1863. p. 1234.
- ^ "No. 22722". The London Gazette (英語). 31 March 1863. p. 1826.
- ^ a b c d Lodge, Edmund, ed. (1902). The Peerage and Baronetage of the British Empire as at Present Existing (英語) (71st ed.). London: Hurst and Blackett. pp. 698–699.
- ^ a b c d e f g Burke, Sir Bernard; Burke, Ashworth Peter, eds. (1934). A Genealogical and Heraldic History of the Peerage and Baronetage, The Privy Council, and Knightage (英語). Vol. 2 (92nd ed.). London: Burke's Peerage, Ltd. p. 2354.
- ^ a b c Mosley, Charles, ed. (2003). Burke’s Peerage, Baronetage & Knightage Clan Chiefs Scottish Feudal Barons (英語). Vol. 3 (107th ed.). London: Burke's Peerage Limited. p. 3938. ISBN 978-0-97119662-9。
外部リンク
[編集]- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Lord Arthur Hill
- エドウィン・ヒル=トレヴァー - ナショナル・ポートレート・ギャラリー
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会 | ||
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先代 ヒルズバラ伯爵 カースルレー子爵 |
庶民院議員(ダウン選挙区選出) 1845年 – 1880年 同職:カースルレー子爵 1845年 – 1852年 デイヴィッド・ステュアート・カー 1852年 – 1857年 ウィリアム・ブラウンロー・フォード 1857年 – 1874年 ジェームズ・シャーマン・クロフォード 1874年 – 1878年 カースルレー子爵 1878年 – 1880年 |
次代 アーサー・ヒル卿 カースルレー子爵 |
イギリスの爵位 | ||
爵位創設 | トレヴァー男爵 1880年 – 1894年 |
次代 アーサー・ヒル=トレヴァー |