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2代ランカスター伯[[トマス (第2代ランカスター伯)|トマス]]<small>(1278頃-1322)</small>は、従兄弟にあたる国王[[エドワード2世 (イングランド王)|エドワード2世]]の寵臣政治に反抗し、国王に[[バラブリッジの戦い]]を仕掛けるも敗れて処刑された{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=290}}。この際に爵位と所領は一時没収されたが、[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]即位後の[[1329年]]にトマスの弟[[ヘンリー (第3代ランカスター伯)|ヘンリー]]<small>(1281頃-1345)</small>に継承が認められた{{sfn|尾野比左夫|1992|p=17}}。 |
2代ランカスター伯[[トマス (第2代ランカスター伯)|トマス]]<small>(1278頃-1322)</small>は、従兄弟にあたる国王[[エドワード2世 (イングランド王)|エドワード2世]]の寵臣政治に反抗し、国王に[[バラブリッジの戦い]]を仕掛けるも敗れて処刑された{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=290}}。この際に爵位と所領は一時没収されたが、[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]即位後の[[1329年]]にトマスの弟[[ヘンリー (第3代ランカスター伯)|ヘンリー]]<small>(1281頃-1345)</small>に継承が認められた{{sfn|尾野比左夫|1992|p=17}}。 |
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3代伯ヘンリーの息子である4代ランカスター伯[[ヘンリー・オブ・グロスモント (初代ランカスター公)|ヘンリー・オブ・グロスモント]]<small>(1310頃-1361)</small>は、襲爵前の1337年3月16日にダービー伯に叙された<ref name="CP">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk |
3代伯ヘンリーの息子である4代ランカスター伯[[ヘンリー・オブ・グロスモント (初代ランカスター公)|ヘンリー・オブ・グロスモント]]<small>(1310頃-1361)</small>は、襲爵前の1337年3月16日にダービー伯に叙された<ref name="CP">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/earlyplantagenet.htm|title=The Early House of Plantagenet (1154 - 1327)|accessdate= 2016-04-25 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref><ref name="thepeerage.com4">{{Cite web |url= http://www.thepeerage.com/p10215.htm#i102141 |title=Henry Grosmont of Derby Plantagenet, 1st Duke of Lancaster|accessdate= 2016-04-25 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref>。父から三伯領を継承したのに加えて伯母{{仮リンク|アリス・ド・レイシー (第4代リンカーン女伯爵)|label=アリス・ド・レイシー|en|Alice de Lacy, 4th Countess of Lincoln}}(2代伯トマスの妻)から[[リンカーン伯爵|リンカーン伯]]領を継承し{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=444}}、[[1349年]][[8月20日]]にはリンカーン伯に叙された<ref name="CP" /><ref name="thepeerage.com4" />。また[[スコットランド王国|スコットランド]]戦争や[[百年戦争]]で戦功をあげたため{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=444}}{{sfn|尾野比左夫|1992|p=17}}、[[1351年]][[3月6日]]に[[ランカスター公]]に叙された<ref name="CP" /><ref name="thepeerage.com4" />。 |
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しかし初代ランカスター公ヘンリーには男子がなく、娘の[[ブランシュ・オブ・ランカスター|ブランシュ]]が女子相続人だった。彼女は1359年にエドワード3世の四男[[ジョン・オブ・ゴーント]]<small>(1340-1399)</small>と結婚した{{sfn|尾野比左夫|1992|p=17}}。このジョン・オブ・ゴーントは先立つ1342年9月20日に[[リッチモンド伯]]に叙されるとともに<ref name="thepeerage.com5">{{Cite web |url= http://www.thepeerage.com/p10188.htm#i101878|title=John of Gaunt, Duke of Lancaster|accessdate= 2016-04-25 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref>、リッチモンド伯領を与えられていた{{sfn|尾野比左夫|1992|p=17}}。初代ランカスター公ヘンリーが死去するとその所領を継承し、1361年7月にはダービー伯<ref name="thepeerage.com5" />、同年8月にはランカスター伯の継承を認められ<ref name="thepeerage.com5" />、さらに1362年にはランカスター公に叙された{{sfn|尾野比左夫|1992|p=17}}{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=444}}。 |
しかし初代ランカスター公ヘンリーには男子がなく、娘の[[ブランシュ・オブ・ランカスター|ブランシュ]]が女子相続人だった。彼女は1359年にエドワード3世の四男[[ジョン・オブ・ゴーント]]<small>(1340-1399)</small>と結婚した{{sfn|尾野比左夫|1992|p=17}}。このジョン・オブ・ゴーントは先立つ1342年9月20日に[[リッチモンド伯]]に叙されるとともに<ref name="thepeerage.com5">{{Cite web |url= http://www.thepeerage.com/p10188.htm#i101878|title=John of Gaunt, Duke of Lancaster|accessdate= 2016-04-25 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref>、リッチモンド伯領を与えられていた{{sfn|尾野比左夫|1992|p=17}}。初代ランカスター公ヘンリーが死去するとその所領を継承し、1361年7月にはダービー伯<ref name="thepeerage.com5" />、同年8月にはランカスター伯の継承を認められ<ref name="thepeerage.com5" />、さらに1362年にはランカスター公に叙された{{sfn|尾野比左夫|1992|p=17}}{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=444}}。 |
2020年12月4日 (金) 05:22時点における版
ランカスター伯爵(英語: Earl of Lancaster)は、イングランド貴族の伯爵位。
歴史
ヘンリー3世の次男エドマンド(クラウチバック)(1245-1296)は、1267年6月30日にイングランド北西部ランカスター地域に莫大な所領を与えられ、ランカスター伯爵に叙された。これがランカスター家の創始となる[1][2]。エドマンドはその2年前にレスター伯領やダービー伯領を受けていたので(1265年10月26日にはレスター伯に叙される[3])、その所領はダービー、スタッフォード、レスター、ノーサンプトン、トレント峡谷諸地域を中心とし、加えてランカシャーからヨークシャー沿岸、南ウェールズからスコットランド国境地帯までに及ぶ広大なものとなった[4]。
2代ランカスター伯トマス(1278頃-1322)は、従兄弟にあたる国王エドワード2世の寵臣政治に反抗し、国王にバラブリッジの戦いを仕掛けるも敗れて処刑された[5]。この際に爵位と所領は一時没収されたが、エドワード3世即位後の1329年にトマスの弟ヘンリー(1281頃-1345)に継承が認められた[6]。
3代伯ヘンリーの息子である4代ランカスター伯ヘンリー・オブ・グロスモント(1310頃-1361)は、襲爵前の1337年3月16日にダービー伯に叙された[7][8]。父から三伯領を継承したのに加えて伯母アリス・ド・レイシー(2代伯トマスの妻)からリンカーン伯領を継承し[2]、1349年8月20日にはリンカーン伯に叙された[7][8]。またスコットランド戦争や百年戦争で戦功をあげたため[2][6]、1351年3月6日にランカスター公に叙された[7][8]。
しかし初代ランカスター公ヘンリーには男子がなく、娘のブランシュが女子相続人だった。彼女は1359年にエドワード3世の四男ジョン・オブ・ゴーント(1340-1399)と結婚した[6]。このジョン・オブ・ゴーントは先立つ1342年9月20日にリッチモンド伯に叙されるとともに[9]、リッチモンド伯領を与えられていた[6]。初代ランカスター公ヘンリーが死去するとその所領を継承し、1361年7月にはダービー伯[9]、同年8月にはランカスター伯の継承を認められ[9]、さらに1362年にはランカスター公に叙された[6][2]。
この時点でジョン・オブ・ゴーントは、5つの伯爵領(自身が与えられたリッチモンド伯領、妻を通じてランカスター伯領・レスター伯領・ダービー伯領・リンカーン伯領)を保有していたことになる。その領地は東部ではノーフォークとサフォーク、南部ではサセックスとケントとサマセット、バークシャー、ウィルトシャー、ドーセット、ハンティンドンシャー、ハンプシャー、グロスターシャー、中部ではダービー、スタッフォードシャー、ウォリックシャー、タトバリ、レスター、ラトランド、ノッティンガムシャー、ノーサンプトンシャー、北部ではノーサンバランドシャー、ヨークシャー、ランカシャー、チェシャーという広大な範囲に及んだ。イングランドのみならずウェールズにも領地をもっていた。その地代総額は12,000ポンドを超えていた(当時の貴族の平均的地代総額は1,000ポンドから3,000ポンド)[10]。
ジョン・オブ・ゴーントの長男ヘンリー・ボリングブルック(1367-1413)は、1380年に第7代ヘレフォード伯ハンフリー・ド・ブーンの女子相続人メアリー・ド・ブーンと結婚し、これによってウィルトシャー、グロスターシャー、ハートフォードシャー、ウェールズ西部に及ぶヘレフォード伯ハンフリー家の領地を相続することになった。この相続を基礎として1397年にはヘレフォード公爵に叙された[10]。父ジョンの持つ上記の莫大な所領も合わせれば、ランカスター家はイングランド最大の貴族であった[10]。
国王リチャード2世は絶大な力を持ったランカスター家に脅威を感じ、1398年にヘンリーを国外追放に追いやるとともに1399年のジョン・オブ・ゴーントの死去に際してその所領の没収を宣言した。これに反発したヘンリーはヨークシャー・ラヴェンスパに上陸して反撃に打って出てリチャード2世を撃破して代わって王位に就いた(ランカスター朝国王ヘンリー4世)[11][12]。
これによりランカスター伯位を含むその保有爵位は王冠にマージされることとなった。
ランカスター伯 (1267年)
画像 | 名前 | 受爵期間 | 備考 |
---|---|---|---|
初代ランカスター伯 エドマンド(クラウチバック) (1245-1296) |
1267年6月30日 -1296年6月5日 |
ヘンリー3世の次男 1265年にレスター伯 | |
2代ランカスター伯 トマス (1278頃-1322) |
1298年9月8日 -1322年3月22日 |
先代の息子 バラブリッジの戦いに敗れて処刑 | |
3代ランカスター伯 ヘンリー (1281頃-1345) |
1326年10月26日 -1345年9月22日 |
先代の弟 | |
4代ランカスター伯 初代ランカスター公 ヘンリー(オブ・グロスモント) (1310頃-1361) |
1345年9月22日 -1361年3月23日 |
先代の息子 1337年にダービー伯 1349年にリンカーン伯 1351年にランカスター公 | |
5代ランカスター伯 初代ランカスター公 ジョン(オブ・ゴーント) (1340-1399) |
1361年8月14日 -1399年2月3日 |
先代の娘婿 エドワード3世の三男 1342年にリッチモンド伯 1362年にランカスター公 | |
6代ランカスター伯 2代ランカスター公 ヘンリー(ボリングブルック) (1367-1413) |
1399年2月3日 -1399年9月30日 |
先代の息子 1397年にヘレフォード公 1399年にヘンリー4世に即位 |
家系図
ヘンリー3世 (1207–1272) | |||||||||||||||||||||||
ランカスター伯, 1267年 | |||||||||||||||||||||||
エドワード1世 (1239-1307) | 初代ランカスター伯 エドマンド (1245–1296) | ||||||||||||||||||||||
エドワード2世 (1284–1327) | 2代ランカスター伯 トマス (1278頃–1322) | 3代ランカスター伯 ヘンリー (1281頃–1345) | |||||||||||||||||||||
ランカスター公, 1351年 | |||||||||||||||||||||||
エドワード3世 (1312–1377) | 4代ランカスター伯 ヘンリー・オブ・グロスモント (1310頃–1361) | ||||||||||||||||||||||
ランカスター公, 1362年 | |||||||||||||||||||||||
5代ランカスター伯 初代ランカスター公 ジョン・オブ・ゴーント (1340–1399) | ブランシュ・オブ・ランカスター (1345–1368) | ||||||||||||||||||||||
6代ランカスター伯 2代ランカスター公 ヘンリー・ボリングブルック (ヘンリー4世) (1367–1413) | |||||||||||||||||||||||
ランカスター公, 1399年 | |||||||||||||||||||||||
初代ランカスター公 ヘンリー・オブ・モンマス (ヘンリー5世) (1386–1422) | |||||||||||||||||||||||
ヘンリー6世 (1421–1471) | |||||||||||||||||||||||
出典
- ^ 尾野比左夫 1992, p. 16.
- ^ a b c d 青山吉信(編) 1991, p. 444.
- ^ Lundy, Darryl. “Edmund 'Crouchback' Plantagenet, Earl of Leicester” (英語). thepeerage.com. 2016年4月25日閲覧。
- ^ 尾野比左夫 1992, p. 16-17.
- ^ 青山吉信(編) 1991, p. 290.
- ^ a b c d e 尾野比左夫 1992, p. 17.
- ^ a b c Heraldic Media Limited. “The Early House of Plantagenet (1154 - 1327)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2016年4月25日閲覧。
- ^ a b c Lundy, Darryl. “Henry Grosmont of Derby Plantagenet, 1st Duke of Lancaster” (英語). thepeerage.com. 2016年4月25日閲覧。
- ^ a b c Lundy, Darryl. “John of Gaunt, Duke of Lancaster” (英語). thepeerage.com. 2016年4月25日閲覧。
- ^ a b c 尾野比左夫 1992, p. 18.
- ^ 尾野比左夫 1992, p. 18-19.
- ^ 青山吉信(編) 1991, p. 444-445.
参考文献
- 青山吉信(編) 編『イギリス史〈1〉先史〜中世』山川出版社〈世界歴史大系〉、1991年。ISBN 978-4634460102。
- 尾野比左夫『バラ戦争の研究』近代文芸社、1992年。ISBN 978-4773311747。