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「トマス・ハワード (第3代ノーフォーク公)」の版間の差分

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== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 公爵位継承まで ===
=== 公爵位継承まで ===
[[1473年]]に後に第2代[[ノーフォーク公爵]]となる[[トマス・ハワード (第2代ノーフォーク公)|トマス・ハワード]]とその妻{{仮リンク|エリザベス・ティルニー (サリー伯爵夫人)|label=エリザベス(旧姓ティルニー)|en|Elizabeth Tilney, Countess of Surrey}}の息子として生まれる<ref>{{Cite web |url= http://thepeerage.com/p10299.htm#i102981 |title=Thomas Howard, 2nd Duke of Norfolk|accessdate= 2014-11-15 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref><ref name="CP DN">{{Cite web|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/norfolk1483.htm|title=Norfolk, Duke of (E, 1483)|accessdate=2016-06-19|last=Heraldic Media Limited|work=[http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage]|language=英語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110823031400/http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/Norfolk1483.htm|archivedate=2011年8月23日|deadurldate=2017年9月}}</ref>。
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祖父[[ジョン・ハワード (初代ノーフォーク公)|ジョン・ハワード]]は[[リチャード3世 (イングランド王)|リチャード3世]]の即位に貢献し、[[1483年]]に[[ノーフォーク公爵]]位を与えられたが、[[1485年]]8月にはリチャード3世と共に戦死した([[ボズワースの戦い]])<ref name="森(1987)24">[[#森(1987)|森(1987)]] p.24-25</ref>。父トマスもリチャード3世に従って参戦し、捕虜になっていたため、[[イギリス議会|議会]]は10月に父の私権剥奪を決議した。これにより父は[[1489年]]まで監禁生活を送った<ref name="海保(1999)209">[[#海保(1999)|海保(1999)]] p.209</ref>。
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2020年12月4日 (金) 05:05時点における版

第3代ノーフォーク公爵
トマス・ハワード
Thomas Howard
3rd Duke of Norfolk
ノーフォーク公ハワード家
第3代ノーフォーク公の肖像画(ハンス・ホルバイン画)
続柄 先代の長男

称号 第3代ノーフォーク公爵、第2代サリー伯爵ガーター勲章勲爵士(KG)、枢密顧問官(PC)
敬称 Your Grace(公爵閣下)
出生 1473年
死去 1554年8月25日(満81歳没)
イングランド王国の旗 イングランド王国 サフォークフラムリンガム英語版フラムリンガム城英語版
配偶者 アン王女英語版
  エリザベス(旧姓スタッフォード)英語版
子女 長男トマス、次男サリー伯ヘンリー、三男初代ビンドンのハワード男爵トマス英語版、長女メアリー英語版
父親 第2代ノーフォーク公トマス・ハワード
母親 エリザベス(旧姓ティルニー)英語版
役職 海軍卿英語版(1513年-1525年)、大蔵卿英語版(1524年-1546年)、軍務伯(1524年-1547年1553年-1554年)、貴族院議員
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第3代ノーフォーク公爵トマス・ハワード英語: Thomas Howard, 3rd Duke of Norfolk, KG, PC1473年 - 1554年8月25日)は、イングランドの貴族、廷臣。

第2代ノーフォーク公爵トマス・ハワードの息子として生まれる。1513年のスコットランド軍の侵攻を父とともに撃退したことでイングランド王ヘンリー8世の信任を得、その宮廷で権勢をふるった。1524年に第3代ノーフォーク公爵位を継承。姪2人(アン・ブーリンキャサリン・ハワード)をヘンリー8世の王妃にしたが、この2人の姪はいずれも姦通罪で処刑された。やがて彼自身もヘンリー8世の信任を失い、1546年ロンドン塔に投獄されたが、1553年メアリー女王即位に貢献したとされて釈放と復権が認められた。1554年に死去。爵位は孫のトマスが継承した。

生涯

公爵位継承まで

1473年に後に第2代ノーフォーク公爵となるトマス・ハワードとその妻エリザベス(旧姓ティルニー)英語版の息子として生まれる[1][2]

祖父ジョン・ハワードリチャード3世の即位に貢献し、1483年ノーフォーク公爵位を与えられたが、1485年8月にはリチャード3世と共に戦死した(ボズワースの戦い[3]。父トマスもリチャード3世に従って参戦し、捕虜になっていたため、議会は10月に父の私権剥奪を決議した。これにより父は1489年まで監禁生活を送った[4]

1489年に釈放された父は、13人の子女を使って婚姻関係でうまく勢力を伸ばしていった[5]。その一環でトマスは1495年ヘンリー7世の義妹アン王女英語版エドワード4世の娘)と結婚することになった。しかし彼女との子供は夭折し、また1512年にはアンに先立たれてしまった(後にバッキンガム公エドワード・スタフォードの娘エリザベスと再婚する)[6]

1513年ヘンリー8世フランス遠征の隙をついてスコットランドジェームズ4世が4万のスコットランド軍を率いてイングランド侵攻を開始したが、トマスは老齢の父とともに2万6000のイングランド軍を率いてスコットランド軍を撃破し、ジェームズ4世も敗死させた。この恩賞で父の第2代ノーフォーク公爵への復権が勅許された[7]。トマスも父の爵位サリー伯爵を継承することが認められ[2][6]海軍卿英語版[要リンク修正]大蔵卿英語版等の官職を歴任してヘンリー8世の宮廷に仕えた[8]

51歳の時の1524年に父が死去したことで第3代ノーフォーク公爵位を継承した[9]

二人の姪を王妃に

トマスがノーフォーク公を継承した頃、妹エリザベス・ブーリンの娘アン・ブーリンがフランスの宮廷仕えを終えてイングランドに帰国し、王妃キャサリン付きの女官として宮廷仕えするようになった。ヘンリー8世はいつまでも男子を産めない王妃キャサリンに嫌気がさしており、このアン・ブーリンとの再婚を考えるようになり、1529年頃から彼女と肉体関係を持ち始めたという。ノーフォーク公はそれまで姪アンにさして関心を持っていなかったが、彼女が国王の御手付きになったと知ると二人の結婚を全力で推進した。ヘンリー8世とキャサリンの離婚に反対するローマ教皇に圧力をかけたり、大法官枢機卿トマス・ウルジーを失脚させるなどの工作を行った[10]

1533年にアンを2番目の王妃にすることに成功したが、生まれたのは女子のエリザベス王女(後のエリザベス1世)だけあり、また1536年にアンが姦通罪で処刑されたため、ノーフォーク公の当ては外れた。なおアンに死刑判決を下した特別裁判所の裁判長はノーフォーク公が務めていた。公爵は自分の保身を優先し、姪に温情を示すことはなかったという[11]

1540年に初代エセックス伯爵トマス・クロムウェルが実現させたヘンリー8世とユーリヒ=クレーフェ=ベルク公女アンの結婚は、ヘンリー8世の我がままによりすぐに離婚となった。この離婚準備中にヘンリー8世はノーフォーク公の弟エドムンド・ハワード卿英語版の娘キャサリン・ハワードに手を付けた。ノーフォーク公はこれを利用し、結婚の失敗についてクロムウェルの責任を厳しく追及し、1540年7月28日には彼を処刑に追いやることに成功した。ついで8月8日にヘンリー8世とキャサリンの結婚を実現させた。しかしこの2年後の1542年にはキャサリンは姦通罪に問われて処刑されている[12]

失脚と復権

これ以降、ヘンリー8世のノーフォーク公に対する信用は低下していき、初代ハートフォード伯爵エドワード・シーモア(後の初代サマセット公爵)ら政敵に付け入れられるようになった[13]

1546年12月には長男サリー伯爵ヘンリー・ハワードとともに大逆罪容疑で逮捕され、ロンドン塔に投獄された。その翌年1547年1月19日にまずサリー伯爵が処刑され、ついでノーフォーク公も処刑されるはずであったが、直前の1月27日にヘンリー8世が崩御したため、処刑中止となった。もっともエドワード6世の治世中には釈放されることはなかった[4]

1553年のエドワード6世の崩御後、摂政である初代ノーサンバランド公爵ジョン・ダドリージェーン・グレイを女王に擁立した際には、自分と同じカトリックのメアリー王女(メアリー女王)を所領に匿った。その功績でメアリー女王即位後の1553年8月に釈放とノーフォーク公爵位への復権が認められた[4][14]

1554年8月25日サフォークフラムリンガム城英語版において81歳で死去した[14]。ノーフォーク公爵位は孫(処刑された長男サリー伯爵ヘンリーの遺児)のトマスが継いだが、この孫も1572年エリザベス1世への大逆罪で処刑される運命にある[4]

栄典

爵位

1514年2月1日の父トマス・ハワードのノーフォーク公爵位復権とともに以下の爵位を継承した[2][6]

1524年5月21日の父の死去により以下の爵位を継承した[2][6]

1547年1月28日に私権剥奪。1553年8月に回復[2][6]

勲章

家族

1495年アン王女英語版エドワード4世の娘)と結婚し、1496年に彼女との間に長男トマスを儲けたが、この長男は1508年に夭折した[6]。アン王女も1511年には死去した。

ついで1512年バッキンガム公爵エドワード・スタフォードの娘エリザベス英語版と再婚し、以下の2男1女を儲けた[6]

脚注

注釈

出典

  1. ^ Lundy, Darryl. “Thomas Howard, 2nd Duke of Norfolk” (英語). thepeerage.com. 2014年11月15日閲覧。
  2. ^ a b c d e Heraldic Media Limited. “Norfolk, Duke of (E, 1483)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2011年8月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年6月19日閲覧。
  3. ^ 森(1987) p.24-25
  4. ^ a b c d 海保(1999) p.209
  5. ^ 森(1987) p.28
  6. ^ a b c d e f g h Lundy, Darryl. “Thomas Howard, 3rd Duke of Norfolk” (英語). thepeerage.com. 2014年11月15日閲覧。
  7. ^ 海保(1999) p.166
  8. ^ 森(1987) p.28-29
  9. ^ 森(1987) p.29
  10. ^ 森(1987) p.29-30
  11. ^ 森(1987) p.30
  12. ^ 森(1987) p.30-31
  13. ^ 森(1987) p.31
  14. ^ a b 森(1987) p.32

参考文献

  • 海保眞夫『イギリスの大貴族』平凡社平凡社新書020〉、1999年。ISBN 978-4582850208 
  • 森護『英国の貴族 遅れてきた公爵』大修館書店、1987年。ISBN 978-4469240979 
公職
先代
エドワード・ハワード英語版
海軍卿英語版[要リンク修正]
1513年 - 1525年
次代
初代リッチモンド=サマセット公爵
先代
第2代ノーフォーク公爵
大蔵卿英語版
1524年 - 1546年
次代
初代サマセット公爵
紋章院総裁
1524年 - 1547年
先代
初代ノーサンバーランド公爵
紋章院総裁
1553年 - 1554年
次代
第4代ノーフォーク公
イングランドの爵位
先代
トマス・ハワード
第3代ノーフォーク公爵
1524年 - 1547年剥奪
1553年回復 - 1554年
次代
トマス・ハワード
先代
トマス・ハワード
第2代サリー伯爵
1514年1547年剥奪
1553年回復-1554年