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=== サンフレッチェ広島ユース ===
=== サンフレッチェ広島ユース ===
[[2002年]]、広島ユースに入団。ユースの同期に、広島下部組織出身の[[森脇良太]]、[[大屋翼]]、[[髙柳一誠]]、[[桒田慎一朗]]、前田同様に全国からスカウトされた[[佐藤昭大]]、[[萩洋次郎]]、[[藤井大輔 (サッカー選手)|藤井大輔]]、[[冨成慎司]]など。当初は主にトップ下を務めていたが、次第にストライカーとして頭角を表すようになる。
[[2002年]]、広島ユースに入団。ユースの同期に、広島下部組織出身の[[森脇良太]]、[[大屋翼]]、[[髙柳一誠]]、[[桒田慎一朗]]、前田同様に全国からスカウトされた[[佐藤昭大]]、[[萩洋次郎]]、[[藤井大輔 (サッカー選手)|藤井大輔]]、[[冨成慎司]]など。当初は主にトップ下を務めていたが、次第にストライカーとして頭角を表すようになる。


[[2003年]]、[[日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会|日本クラブユース選手権]]直前に腕を骨折、同大会と[[高円宮杯全日本ユースサッカー選手権 (U-18)大会|高円宮杯全日本ユース選手権]]は欠場。自分が不在のチームがクラブユース選手権初優勝、高円宮杯3位と快進撃を続けたことへの焦りと悔しさをバネに、復帰した同年末の[[Jリーグユース選手権大会]]でチームを優勝に導き、自身も得点王となる。準決勝の[[セレッソ大阪|セレッソ大阪U-18]]戦での、後方からのロングフィードをトラップすることなく右足で叩きこんだランニングボレーシュートは、映像が全国放送のテレビニュースで使用された。
[[2003年]]、[[日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会|日本クラブユース選手権]]直前に腕を骨折、同大会と[[高円宮杯全日本ユースサッカー選手権 (U-18)大会|高円宮杯全日本ユース選手権]]は欠場。自分が不在のチームがクラブユース選手権初優勝、高円宮杯3位と快進撃を続けたことへの焦りと悔しさをバネに、復帰した同年末の[[Jリーグユース選手権大会]]でチームを優勝に導き、自身も得点王となる。準決勝の[[セレッソ大阪|セレッソ大阪U-18]]戦での、後方からのロングフィードをトラップすることなく右足で叩きこんだランニングボレーシュートは、映像が全国放送のテレビニュースで使用された。

2020年11月30日 (月) 03:59時点における版

前田 俊介
名前
愛称 シュン、マエシュン
カタカナ マエダ シュンスケ
ラテン文字 MAEDA Shunsuke
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1986-06-09) 1986年6月9日(38歳)
出身地 奈良県桜井市
身長 173cm
体重 76kg
選手情報
在籍チーム 日本の旗 沖縄SV
ポジション FW
背番号 11
利き足 左足
ユース
2002-2004 サンフレッチェ広島ユース
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
2005-2008 サンフレッチェ広島 45 (7)
2007-2008 大分トリニータ (Loan) 25 (3)
2009-2011 大分トリニータ 49 (8)
2010 FC東京 (Loan) 6 (0)
2012-2015 コンサドーレ札幌 89 (9)
2016-2017 ガイナーレ鳥取 41 (5)
2018- 沖縄SV 34 (8)
代表歴
2002-2003 日本の旗 日本U-16/17
2003-2005 日本の旗 日本U-18/19/20
2006 日本の旗 日本U-21
1. 国内リーグ戦に限る。2019年12月3日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

前田 俊介(まえだ しゅんすけ、1986年6月9日 - )は、奈良県桜井市出身のサッカー選手九州サッカーリーグ沖縄SV所属。ポジションはフォワード

来歴

幼少期に、父親が指導者を務めていた桜井FCの練習について行っていたことをきっかけにサッカーを始める。小学校5年生の時「毎日サッカーが出来る」という理由で桜井FCより練習日の多い高田FCに移る。中学3年時に複数の高校やクラブチームからスカウトされ数チームに練習参加、当初は高校選手権への出場を夢見て高校サッカーへ行こうとしていたが、部活特有の厳しい上下関係や規律に馴染めず、それらに比べて自由な雰囲気のサンフレッチェ広島ユースに惹かれるようになる。

サンフレッチェ広島ユース

2002年、広島ユースに入団。ユースの同期に、広島下部組織出身の森脇良太大屋翼髙柳一誠桒田慎一朗、前田同様に全国からスカウトされた佐藤昭大髙萩洋次郎藤井大輔冨成慎司など。当初は主にトップ下を務めていたが、次第にストライカーとして頭角を表すようになる。

2003年日本クラブユース選手権直前に腕を骨折、同大会と高円宮杯全日本ユース選手権は欠場。自分が不在のチームがクラブユース選手権初優勝、高円宮杯3位と快進撃を続けたことへの焦りと悔しさをバネに、復帰した同年末のJリーグユース選手権大会でチームを優勝に導き、自身も得点王となる。準決勝のセレッソ大阪U-18戦での、後方からのロングフィードをトラップすることなく右足で叩きこんだランニングボレーシュートは、映像が全国放送のテレビニュースで使用された。

2004年、「10」番を背負い、チームをクラブユース選手権と高円宮杯の優勝に導くとともに、前年のJリーグユース選手権大会から3大会連続の得点王に輝き、クラブユース選手権ではMVPも獲得した。クラブユース史上初の3冠を目指したJリーグユース選手権大会では、決勝で鹿島アントラーズユースにPK戦の末敗れ、準優勝となった。

また、この年は2種登録選手としてJ1に数試合出場、2ndステージジュビロ磐田戦でJリーグ初得点、チームの勝利とJ1残留を決定付ける決勝点を挙げた。

プロ入り後

2005年サンフレッチェ広島トップチームへ昇格する形で入団。同期は、ユースからの同時昇格である佐藤、森脇、髙柳、桒田と、入船和真中尾真那西河翔吾。第3節の名古屋グランパスエイト戦で初のベンチ入りと89分よりの交代出場を果たす。第5節の東京ヴェルディ1969戦では先発出場して1得点1アシストの活躍を見せ、開幕以来ナビスコカップを含めて6戦連続勝ち星のなかったチームに初勝利をもたらした。その後も途中出場が中心ながらコンスタントに試合出場を続け、3度の決勝点(うちロスタイムに2度)を挙げ、チームの上位進出に貢献した。

また、同年のU-20日本代表では2005 FIFAワールドユース選手権のメンバーに選出された。グループステージ・オーストラリア戦と決勝トーナメント初戦・モロッコ戦に交代出場。オーストラリア戦では、グループステージ敗退寸前に追い込まれたチームを決勝トーナメントへと導く貴重な得点を挙げた。尚、本大会にはリオネル・メッシも参戦している。

2006年、広島は新布陣が機能せず、クラブワーストとなるリーグ戦10試合未勝利を記録するなど低迷した。前田も、相手ラインの裏を取るプレーよりも徹底して足元でボールを受けて個人技で抜きにかかるプレースタイルが研究され、ボールを持って前を向くより先に囲まれて簡単にボールを奪われるシーンが目立った。結果として、ライン突破にかけては日本屈指の技術を誇りチームトップクラスのスコアラーである佐藤寿人ウェズレイの前に、前田はレギュラー争いで厚い壁に阻まれることになった。

2007年、佐藤寿人、ウェズレイの存在に加えて平繁龍一の台頭もあり、広島での出番を得られなくなった。同年6月、FWに怪我人が続出し得点力不足に陥っていた大分トリニータに期限付き移籍。その大分でも出場機会は多くなかったが、残留争いの大一番となった大宮アルディージャ戦で後半43分に決勝点を挙げ、大分のJ1残留へ向けて貴重な勝利をもたらした。

2008年、期限付き移籍延長の形で大分に残留。開幕当初は高松大樹家長昭博の負傷もあり、多くの出場機会を得て活躍。また、必死でチェイスに走るなど、課題とされてきた前線守備にも成長が見られた。しかし継続した結果が出ず、シーズン途中には高松や家長の復帰、森島康仁の加入により、ポジションを奪われてベンチ入りすら出来ないことも増えた。

2009年、大分へ完全移籍。ウェズレイ、森島、高松らの怪我で期待されるも、運動量の少なさから前半での交代や、フォワードは住田貴彦と二人のみにもかかわらず、打開力のあるMF金崎夢生のFWのコンバートが優先され、ベンチ入りも叶わないなど苦闘を強いられ、チームもJ2降格を経験する事となった。

2010年はJ2に戦いの舞台を移したが、そこでも出番が少なく、8月11日J1FC東京への期限付き移籍が発表された。FC東京監督の大熊清は「前で時間を作れるタイプ[1][2]」「(控え組主体の)練習試合をすると一番結果を出している[3]」と評価し、第90回天皇杯4回戦千葉戦で加入以来初の先発フル出場を果たした。期限付き移籍期間満了により同年限りで退団。

2011年は大分に復帰。森島と共に攻撃陣の中心として活躍し、リーグ戦では自己最多となる8得点を挙げた。9月3日富山戦で2度の警告を受け退場を命じられた際、主審に暴力並びに異議行為を行ったとして、リーグ戦6試合・第91回天皇杯2回戦の計7試合の出場停止が言い渡された。

2012年、J1に昇格するコンサドーレ札幌に完全移籍した。札幌監督の石崎信弘が大分での活躍を高く評価したためである。シーズン序盤、そのキープ力から1トップとして期待され、第7節の川崎フロンターレ戦ではゴールを決める。しかし、前線で相手DFに潰され、その結果札幌の攻撃を滞らせる場面が目立った。その結果、7失点を喫した第12節の鹿島アントラーズ戦での前半途中での負傷退場を最後に出場機会が激減した。チームも低迷し、最終的に1年でのJ2降格となってしまった。

2013年2014年2015年と、札幌では2012年に加え4シーズンプレーした。

2016年、ガイナーレ鳥取へ移籍[4]。2017年シーズン限りで契約満了[5]

2018年、九州サッカーリーグに所属する沖縄SVへ加入[6][7]。4得点11アシストの成績を残し、アシスト王とベストイレブンを受賞した[8]

人物

コンサドーレ札幌時代には、当時監督の石崎信弘に「あいつは天才じゃろ」と言わしめる高度な技術を持つ稀代のテクニシャンであった[要出典]

時折見せる曲芸的なドリブル、シュートからカルト的人気を集める[9][10]。その一方で、運動量が少なく、守備を不得手とする選手としても知られ、広島在籍時のミハイロ・ペトロヴィッチ[11] やFC東京在籍時の大熊清[12] からは、その姿勢に苦言を呈された。このプレースタイルもあってか、希有な才能を持ちながら、開花しなかった前田俊介を揶揄した「前俊を諦めない。」という言葉が生まれている[10]

所属クラブ

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
2003 広島Y 8 - - - 1 0 1 0
2004 広島 34/36
[注 1]
J1 11 1 2 0 1 0 14 1
2005 24 26 5 1 0 2 0 29 5
2006 8 1 1 0 0 0 9 1
2007 0 0 0 0 - - 0 0
大分 19 10 1 0 0 0 0 10 1
2008 15 2 6 1 0 0 21 3
2009 8 0 4 2 1 0 13 2
2010 J2 11 0 - - 11 0
FC東京 32 J1 6 0 0 0 3 0 9 0
2011 大分 19 J2 30 8 - 1 0 31 8
2012 札幌 11 J1 14 1 2 1 1 0 17 2
2013 J2 36 4 - 3 0 39 4
2014 31 4 - 2 1 33 5
2015 8 0 - 2 1 10 1
2016 鳥取 48 J3 16 1 - 2 1 18 2
2017 25 4 - 1 0 26 4
2018 沖縄SV 11 九州 18 4 - - 18 4
2019 16 4 - 2 0 18 4
2020 -
通算 日本 J1 98 11 16 4 8 0 122 15
日本 J2 116 16 - 8 2 124 18
日本 J3 41 5 - 3 1 44 6
日本 九州 34 8 - 2 0 36 8
日本 - - 1 0 1 0
総通算 289 40 16 4 22 3 327 47

※2004年は2種登録選手として出場

その他の国際公式戦
ユース所属 (2004年)
66分に交代出場 66分駒野友一に代わって出場
61分に交代出場 61分外池大亮に代わって出場
フル出場
  • Jリーグ初得点:2004年11月20日J1リーグ2ndステージ第13節 対ジュビロ磐田戦 (広島ビ)
81分に交代出場 81分大木勉に代わって出場、1得点(83分)
トップチーム (2005年-)
89分に交代出場 89分大木勉に代わって出場
  • 初得点:2005年4月13日J1リーグ第5節 対東京ヴェルディ1969戦 (味スタ)
先発、66分に交代退場 66分池田昇平と交代・1得点(25分)、FKで1アシスト(62分森崎和幸)

タイトル

クラブ

サンフレッチェ広島ジュニアユース

サンフレッチェ広島ユース

大分トリニータ

沖縄SV

個人

  • 高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会 MVP:1回(2004年)
  • Jユースカップ 得点王:1回(2003年)
  • 日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会 得点王:1回(2004年)
  • 高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会 得点王 :1回(2004年)
  • 九州サッカーリーグ アシスト王:1回(2018年
  • 九州サッカーリーグ ベストイレブン:1回(2018年)

代表・選抜歴

脚注

注釈
  1. ^ 自身が一時期2種登録を外れていた<要検証>ため、シーズン途中に背番号が変わった。このため西河翔吾(34、特別指定選手)、髙柳一誠(36、2種登録選手)と同じ背番号をつけている。ちなみに、この年西河と一緒にリーグ戦ではベンチ入りした試合があるが、髙柳と一緒にベンチ入りした試合はない。
出典
  1. ^ 【第90回天皇杯4回戦 FC東京 vs 千葉】プレビュー:残留争うF東京、昇格目指す千葉。リーグ終盤を盛り上げる救世主は生まれるか!? J's GOAL、2010年11月16日
  2. ^ 【第90回天皇杯4回戦 FC東京 vs 千葉】大熊清監督記者会見コメント J's GOAL 2010年11月18日
  3. ^ [FC東京]天皇杯千葉戦に闘志を燃やす前田選手。「怒られているうちが華。期待に応えたいですね」。 エル・ゴラッソweb版 2010年11月16日
  4. ^ "前田 俊介選手 完全移籍加入のお知らせ" (Press release). ガイナーレ鳥取. 6 January 2016.
  5. ^ 契約満了選手のお知らせ ガイナーレ鳥取、2017年11月29日
  6. ^ 前田 俊介選手 移籍先決定のお知らせ ガイナーレ鳥取 2018年2月1日
  7. ^ 前田俊介選手、安藝正俊選手 新加入のお知らせ 沖縄SV 2018年2月1日
  8. ^ 2018.11.30”. 沖縄SV (2018年11月30日). 2019年1月21日閲覧。
  9. ^ 大分から前田獲り…札幌 報知新聞 2011年12月9日
  10. ^ a b 『前俊を諦めない』、テクニックだけでなくメンタリティ80という精神的強さ サッカー専門新聞 エル・ゴラッソ BLOGOLA 2012年3月8日
  11. ^ 広島のペトロビッチ監督が前田俊介にかけた言葉”. サポティスタ (2010年9月28日). 2010年10月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年11月9日閲覧。
  12. ^ 大熊新監督がMF前田に「何やってんだ」 日刊スポーツ 2010年9月21日

関連項目

外部リンク