コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「通潤橋」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
歴史: 読点調整
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m cewbot: ウィキ文法修正 104: Unbalanced quotes in ref name
51行目: 51行目:
[[重要文化財]]指定後、水需要の増大に対応できるよう、上流の川底に送水管(内径0.8メートルの[[ヒューム管]])が埋設され、[[通潤用水]]ではこれがメインで使われるようになった。そのほか通潤橋近くの河川から取水する下井手や電気揚水施設もある。重文指定による文化財の保護目的と観光放水による漏水の発生が頻発することで、現役から引退し、その後は主に放水用に通水されている。ただし、定期的にメンテナンスは行われており、大量の水が必要な時期には通潤地区土地改良区が、一時使用している。
[[重要文化財]]指定後、水需要の増大に対応できるよう、上流の川底に送水管(内径0.8メートルの[[ヒューム管]])が埋設され、[[通潤用水]]ではこれがメインで使われるようになった。そのほか通潤橋近くの河川から取水する下井手や電気揚水施設もある。重文指定による文化財の保護目的と観光放水による漏水の発生が頻発することで、現役から引退し、その後は主に放水用に通水されている。ただし、定期的にメンテナンスは行われており、大量の水が必要な時期には通潤地区土地改良区が、一時使用している。


通潤橋と用水路の完成により、約100ヘクタールの新しい水田がつくられた。用水路は、現在も白糸台地の農業を支えている。橋の近くには、布田保之助を神様とする布田神社があり、今も地元の人びとにより祀られている<ref name="熊本偉人伝/>。
通潤橋と用水路の完成により、約100ヘクタールの新しい水田がつくられた。用水路は、現在も白糸台地の農業を支えている。橋の近くには、布田保之助を神様とする布田神社があり、今も地元の人びとにより祀られている<ref name="熊本偉人伝" />。


== 歴史 ==
== 歴史 ==

2020年11月29日 (日) 00:00時点における版

通潤橋
通潤橋(通潤用水)(2007/06/10)
通潤橋(2007年6月撮影)
基本情報
日本の旗 日本
所在地 熊本県上益城郡山都町
交差物件 緑川水系五老ヶ滝
建設 1854年
座標 北緯32度40分54.1秒 東経130度59分37.3秒 / 北緯32.681694度 東経130.993694度 / 32.681694; 130.993694
構造諸元
形式アーチ橋
材料
全長 78m
6.3m
高さ 20m
最大支間長 28m
関連項目
橋の一覧 - 各国の橋 - 橋の形式
テンプレートを表示
通潤橋(通潤用水)(2005/08/22)
通潤橋 上部石管(2005/08/22)
通潤橋 放水(2007/5/4)
放水の様子(2005/8/13)
放水の様子(2005/8/13)
通潤橋の位置(熊本県)
通潤橋
通潤橋
通潤橋の位置(熊本県)

通潤橋(つうじゅんきょう)は、熊本県上益城郡山都町(やまとちょう)にある石造単アーチ橋江戸時代嘉永7年(1854年)に阿蘇外輪山の南側の五老ヶ滝川(緑川水系)の谷に架けられた水路橋で、水利に恵まれなかった白糸台地へ通水するための通潤用水上井手(うわいで)水路の通水管が通っている。

概要

石造単アーチ橋で、橋長は78メートル、幅員は6.3メートル、高さは20メートル余、アーチ支間は28メートルである[1]。橋の上部には3本の石管が通っている。肥後石工の技術レベルの高さを証明する歴史的建造物であり、国の重要文化財に指定[2]されている。なお通潤橋を含む通潤用水日本を代表する用水のひとつとして農林水産省疏水百選に選定され、橋と白糸台地一帯の棚田景観は、通潤用水と白糸台地の棚田景観の名称で国の重要文化的景観として選定[3]されている。

橋の中央上部両側に放水口が設置されており(川の上流側に2つ、下流側に1つ)、灌漑利用が少ない農閑期には観光客用に時間を区切って15分程度の放水を行っている[4]。この放水の本来の目的は、石管水路の内部にたまった泥や砂を除くためのものである。最近では全国から通潤橋の放水風景を見に来る観光客も多い。

通潤橋は、白糸台地一帯に水を送るために農業用水路(通潤用水)の一部としてつくられた水路橋である。白糸台地(通潤橋史料館から見て右側の高台)は、川が削り取った深い谷に囲まれていた。そのため、通潤橋がつくられるまでは湧き水などを利用した農業に限られていた[5]

この場所に石橋が建造されたのは最も谷が狭かったからであるが、200メートル程下流には五老ヶ滝(落差50m)があり原料となる石材が上下流の川底に大量に存在していたことも理由の1つである。江戸時代に造られた石橋としてはアーチの直径ならびに全体の高さは日本国内最大である。常時人が渡れるもののあくまで水路のための橋であるため手摺等は一切ないが、これまで転落した人は1人もいないという。

重要文化財指定後、水需要の増大に対応できるよう、上流の川底に送水管(内径0.8メートルのヒューム管)が埋設され、通潤用水ではこれがメインで使われるようになった。そのほか通潤橋近くの河川から取水する下井手や電気揚水施設もある。重文指定による文化財の保護目的と観光放水による漏水の発生が頻発することで、現役から引退し、その後は主に放水用に通水されている。ただし、定期的にメンテナンスは行われており、大量の水が必要な時期には通潤地区土地改良区が、一時使用している。

通潤橋と用水路の完成により、約100ヘクタールの新しい水田がつくられた。用水路は、現在も白糸台地の農業を支えている。橋の近くには、布田保之助を神様とする布田神社があり、今も地元の人びとにより祀られている[6]

歴史

通潤橋は嘉永7年(1854年)、水源に乏しい白糸台地へ水を送るために架けられた通水橋である[7]。白糸台地には阿蘇山からの火山灰が降り積もってできたため、雨水はたちまち地下深くに浸透し、貯水が出来ず、人々は水不足に悩まされていた[7]。建造にあたっては地元の惣庄屋であった布田保之助が中心となって計画を立案[8][7][6]。地元の役所・矢部手永の資金や、細川藩の資金を借り[6]、熊本八代の種山村にあった著名な石工技術者集団種山石工に協力をあおぎ[7][6]、近隣農民がこぞって建設作業に参加した[7][6]。布田保之助は、矢部地域の発展のため、通潤橋のほかにもたくさんの道路や用水路、石橋などをつくった[6]。この通潤橋の建設も、布田保之助が代表となって計画立案し、工事が進められた[7]

この水路付き石橋は、アーチ型の木枠(支保工)を大工が作った上に、石工が石を置き、石管と木樋(緩衝材の役目)による水路を設置して橋が完成したところで木枠を外す工法により建造された。

通潤橋の工事は、1852(嘉永5)年12月に開始され、約1年8ヶ月の長い期間をかけて1854(嘉永7・安政元)年8月に完成した。この間、大工や石工(石工頭は種山石工の宇一)のほか、白糸台地や矢部地域の大勢の人の力で工事が行われた。 また、通潤橋より下流の白糸台地内を流れる用水路は、1855(安政2)年頃に完成している[5]。 石橋の木枠を外す最終段階には橋の中央に白装束を纏った布田翁が鎮座し、石工頭も切腹用の短刀を懐にして臨んだという逸話が残っている。

霊台橋より7年はやい昭和35年(1960年)に、国の重要文化財の指定[2]を受けた。またくまもとアートポリス選定既存建造物にも選定され、地域の名物・象徴となっている。この地域には通潤橋の他にも規模の大きなアーチ石橋が架けられており、遠く鹿児島や東京などにも石工技術者が招かれて石橋を作った。

2016年4月14日に発生した熊本地震で亀裂が入り、水漏れが発生する被害を受けた。橋の石垣がずれて飛び出したり、通水管のつなぎ目がひび割れたりする被害があった[9]。修理中の2018年5月には豪雨により石垣が崩落した。

2020年3月までに修理を終え、翌月より放水を再開する予定であった[10]が、新型コロナウイルス感染症の流行を受けて当面の間休止されることとなった[11]

2020年7月21日、新型コロナウイルス感染症の流行のため延期していた一般公開を4年3か月ぶりに再開、記念放水が行われた[12]

技術

この橋は2つの地区を水路で結んでいるが橋の位置は送水先の白糸大地よりも低い位置にあるため、水を通す時には取入口と吹上口の高低差による噴水管(逆サイフォン)の原理を利用している状態になる。ゴムなどのシーリング材料の無い時代であり、石で作られた導水管の継ぎ目を特殊な漆喰で繋いで漏水しないように密封して橋より高台の白糸台地まで用水を押し上げている。こうした通水管の仕組みは、当時「吹上樋」と呼ばれ、水路橋である通潤橋の最も重要な部分であった[13]

通潤橋は日本の独自技術で実現した最初の噴水管(逆サイフォン)の橋と考えられており、NHKの番組「新日本紀行」などで紹介された。またこの橋の建設を物語にした『肥後の石工』という児童文学作品があり、国語の教科書への採用例もある。戦前にも文部省の修身教科書に逸話が掲載されていた[14]

交通

脚注

  1. ^ 『解説版 新指定重要文化財 13 建造物III』、p.93による。橋長等の数値は資料により若干の差がある。
  2. ^ a b 通潤橋 - 文化遺産オンライン文化庁
  3. ^ 通潤用水と白糸台地の棚田景観 - 文化遺産オンライン文化庁
  4. ^ 2020放水カレンダー”. 山都町. 2020年11月14日閲覧。
  5. ^ a b 通潤橋について山都町、2020年11月14日閲覧
  6. ^ a b c d e f シリーズ 熊本偉人伝 Vol.17( 旅ムック83号掲載 )ふたやすのすけ”. Ace publishing. 2020年11月14日閲覧。
  7. ^ a b c d e f 渇いた台地を潤わせた、空の水路”. クボタ. 2020年11月14日閲覧。
  8. ^ 通潤橋 日本最大級の水路橋~熊本県山都町”. 日本放送協会. 2018年5月12日閲覧。
  9. ^ “肥後のシンボル危機 熊本城、阿蘇神社、通潤橋”. 西日本新聞. (2016年4月16日). オリジナルの2016年4月17日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160417131713/http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/238792 2016年4月17日閲覧。 
  10. ^ 復旧中の通潤橋「来春には雄姿」 山都町が現場公開 - ウェイバックマシン(2019年11月29日アーカイブ分) - 西日本新聞、2019年8月14日
  11. ^ 【通潤橋】2020年放水カレンダー(2020年4月17日更新) - ウェイバックマシン(2020年6月29日アーカイブ分)-山都町
  12. ^ アーチから噴き出す水に歓声、地震被害の「通潤橋」保存修理工事が完了 : 社会 : ニュース”. 読売新聞オンライン (2020年7月21日). 2020年7月21日閲覧。
  13. ^ 日本経済新聞 朝刊31ページ(2019/4/8)熊本地震、被災の棚田復興、都会の市民と共に汗(風紋)
  14. ^ 文部省(編)、1943、『初等科修身 第3』、文部省 pp. 28-35

参考文献・出典

  • 『矢部町史』 矢部町
  • 『通潤橋架橋150周年記念誌』 矢部町・通潤土地改良区著
  • 『解説版 新指定重要文化財 13 建造物III』、毎日新聞社、1982

関連項目

通潤橋へ分水している『円形分水』(2007年6月10日撮影)
昭和31年(1956年)に笹原川緑川上流に位置する一支流)の脇に設置され、ここで採分水された水が通潤橋を通って白糸台地へと送られている。

外部リンク