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| 氏名 = 藤原経清 |
| 氏名 = 藤原 経清 |
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| 官位 = [[陸奥国司|陸奥権守]]、[[従七位|従七位下]]、[[従五位]]、散位、[[修理職|修理大夫]]? |
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| 妻 = [[安倍頼時]]娘・[[有加一乃末陪]] |
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| 子 = '''[[藤原清衡|清衡]]'''、刈田経元{{refnest|group="注釈"|官職は[[左衛門尉]]。[[白石氏]]の祖と伝わる<ref>『白石氏系図』</ref>。}}、経光<ref name="mutsu">『[[陸奥話記]]』</ref>、[[清原成衡|平成衡]]母?<ref> 『[[寛政重修諸家譜]]』</ref> |
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| 特記事項 = |
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'''藤原 経清'''(ふじわら の つねきよ)は[[平安時代]]中期の |
'''藤原 経清'''(ふじわら の つねきよ)は、[[平安時代]]中期の[[陸奥国]][[亘理郡]]の[[豪族]]。『[[尊卑分脈]]』によると[[藤原秀郷]]の6代後裔。奥州藤原氏の初代清衡の父。 |
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先祖は首都[[京都]]([[平安京]])の[[藤原氏]]であり、その子孫である[[従二位]]([[公卿]])・[[武蔵守]]([[東京都]]・[[神奈川県]]・[[埼玉県]])兼[[下野守]]([[栃木県]])兼[[鎮守府将軍]]である[[武門の棟梁]]・[[藤原秀郷]]の6代後裔(『[[尊卑分脈]]』)。母の再婚相手は[[正二位]]・[[公卿]]・[[参議]]~[[大納言]]である“[[朝廷]]の最重要級貴族”・[[藤原経輔]](ふじわらのつねすけ)。 |
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==経歴== |
== 経歴 == |
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{{出典の明記|date=2021年7月5日 (月) 14:13 (UTC)|section=1}} |
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経清は元来[[源頼義]]の弟・[[源頼清]]の郎従であり、頼清が陸奥守として[[長久]]年間(1040年〜1044年)に赴任した折に[[陸奥国]]に下向し、[[亘理郡]]を拝領したという<ref name="higuchi">『前九年・後三年合戦と兵の時代』 樋口知志 2016年 吉川弘文館</ref>。 |
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[[陸奥国司|陸奥権守]][[従七位|従七位下]]に叙せられたのち[[散位]]。亘理権大夫(わたりのごんのたいふ)と称したと言われている(大夫は五位の[[官人]]の異称)。『[[尊卑分脈]]』によれば「亘権守・亘理権大夫」とあるが、「権大夫」という職位がどんな役職であるか、実際にどのような官職であったか判明していない。ただ、子・[[藤原清衡|清衡]]も権大夫<ref>http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_41_21.html</ref>であったこともあり、地位を証明する信頼の置ける史料は現存していないが、[[在庁官人]]として陸奥国府[[多賀城]]に勤務していたと見られている。 |
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[[藤原経清]]の母は“[[陸奥国]]のナンバースリー”である父・[[藤原頼遠]]と離婚して、「50年間[[関白]]」・[[藤原頼通]]が君臨する“[[朝廷]]の最重要級[[貴族]]([[公卿]])”である[[正二位]]・[[藤原経輔]](ふじわらのつねすけ)と再婚した。 藤原経清の名前である「経清(つねきよ)」の「経」の漢字は藤原経輔の名前である「経輔(つねすけ)」の「経」の漢字を藤原経輔から賜ったものだとみられる。このように、有力な人物が身分が非常に高い人物から名前の一文字を与えられることを[[偏諱]]という。 藤原経清は朝廷の最重要級貴族である藤原経輔を“後ろ盾”とし、藤原経輔や経輔が“朝議の席で臨座する関白・藤原頼通”らの[[藤原氏]](日本)の最上層部から支援されていたとみられる。 |
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その名が登場する史料は、長年『[[陸奥話記]]』のみとされており、藤原姓も私称ではないかとされてきたが、[[永承]]2年([[1047年]])の五位以上の[[藤原氏]][[交名]]を記した『[[造興福寺記]]』に「経清六奥(六奥は陸奥の意)」と記されている。この史料によると、少なくとも藤原氏の一族の係累に連なる者と中央の藤原氏から認められており、[[従五位]]に昇叙し散位であったようである。 |
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藤原経清は「亘理権大夫(わたりのごんのたいふ)」と呼ばれた、位階(身分)が[[五位]]以上の[[貴族]]である。 藤原経清は、[[朝廷]]が日本全国の68ヵ国を国力別に大国・上国・中国・小国の4ランクに分類した中で“最上位の国”である[[大国]]であり、更に“面積が圧倒的に日本最大の国”でもある[[陸奥国]]([[宮城県]]・[[福島県]]・[[岩手県]]・[[青森県]])において、陸奥国の[[国府]]兼[[鎮守府]]である[[多賀城]]がある宮城県南部の[[亘理郡]]を領有する領主([[豪族]])でもある。 藤原経清の[[官位相当]]での本来の[[官職]](職業)は“大国の国司”である[[陸奥守]]・[[鎮守府将軍]]・[[陸奥按察使]]や[[山城守]]([[京都府]])等の“日本全国の国司達の中でトップレベルの国司”に相当するが、なぜか官職をもたない散位であった。 藤原経清は[1]国府の[[在庁官人]]として“[[陸奥国府]]・多賀城のナンバーツー”,すなわち“[[東北地方]]のナンバーツー”であり、同じ[[藤原氏]]である陸奥守・[[藤原登任]](当時[[正五位上]])の側近として、藤原登任と共に首都[[京都]]([[平安京]])から陸奥国へ下向(赴任)してきたとみられる。 |
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[[長久]]元年([[1040年]])より数ヵ年国府の推挙により、[[修理職|修理大夫]]として在京し、[[陸奥国司|陸奥守]]・[[藤原登任]]の下向に同行したとの説がある。[[俘囚]]長で[[奥六郡]]の支配者である[[安倍頼時|安倍頼良]](頼時)の娘(史料では「[[有加一乃末陪]]」と記載されている)を妻に迎え、曰理(わたり、現宮城県亘理郡)の[[鹿島神社]](現亘理町逢隈字鹿島)付近に居を構え、荘園経営を行うと同時に交通の要衝を支配し関所に金銀山米銭寺という寺社を建立し、そこを通過するものから交通税を課し財力を蓄えていたとされ<ref name="sugano">[[菅野円蔵]]『大鳥城記』[[山川出版社]]、1970年</ref>、さらに[[平国妙]]の外戚と言う記述が『[[奥州御舘系図]]』に見えることから2~3代以前から奥州に土着していたとするのが自然であるとする考えもある<ref>[[高橋富雄]]『<small>奥州藤原四代</small>平泉』[[教育社]]、1993年、ISBN 4-315-40158-7</ref>。 |
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藤原経清の名前が登場する史料は『[[陸奥話記]]』だけで、藤原経清の[[姓]]である「藤原」の姓は私称(嘘)ではないかと、歴史学者(大学教授)や保守層の一部の人達から長年疑問視され、差別されてきた。 しかし[[1992年]]、藤原氏の[[氏長者]]である“50年間[[関白]]”[[藤原頼通]]が永承2年([[1047年]])に[[位階]]が[[貴族]]である[[五位]]以上の藤原一門に[[奈良]]・[[興福寺]]の修造資金の寄付を要請した文書である『[[造興福寺記]]』([[重要文化財]])の中に、藤原経清の名前が書かれていることが判明した。この発見によって、藤原経清が京都の藤原氏と同じ藤原一門であることが証明された。しかし、その後も現在まで、[[右翼]]の[[人種差別]]主義者を中心とする藤原経清と[[奥州藤原氏]]への[[日本史]]上の差別と認識不足が、改められることなく続いている。[[東北地方]]([[宮城県]]・[[福島県]]・[[山形県]]・[[岩手県]]・[[秋田県]]・[[青森県]])における“東北地方南部の[[宮城県]]”へ移住した藤原経清は、首都[[京都]]([[平安京]])から[[関東地方]]へ移住した藤原氏である[[従二位]]・[[公卿]]の[[藤原秀郷]]([[武蔵守]]([[東京都]]・[[神奈川県]]・[[埼玉県]]))・[[下野守]]([[栃木県]])・[[鎮守府将軍]]・[[武門の棟梁]]の6代目の子孫であり、“首都・[[平安京]]([[京都]])の次ぎに人口が多かった第二の平安京”である[[世界遺産]]・[[平泉]]をつくった[[奥州藤原氏]]の創始者・[[藤原清衡]]の父親でもある。 |
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[[安倍氏 (奥州)|安倍氏]]が朝廷への貢租を怠る状態になったため、[[永承]]6年([[1051年]])に、陸奥守・藤原登任は安倍氏征討の兵を出したが[[前九年の役#鬼切部の戦い|鬼切部の戦い]]で敗れた([[前九年の役]]の始まり)。この戦いで経清は安倍氏側に属していたが、翌永承7年([[1052年]])に、更迭された登任の後任として[[源頼義]]が陸奥守に任じられ、大赦によって許された頼時が[[朝廷 (日本)|朝廷]]に帰服すると、経清もまた頼義に従った。 |
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ただし藤原清衡の母は、“[[東北地方]]北部([[岩手県]]・[[秋田県]]・[[青森県]])”に住む“非征服者である事実上の半奴隷”[[俘囚]]であり、その“俘囚の[[豪族]]たちの中の最強の豪族”である俘囚長・[[安倍頼良]]([[安倍頼時]])([[岩手県]]南部の[[奥州市]]旧[[衣川村]])の長女(史料では[[有加一乃末陪]]と記載されている)だった。 |
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“[[日本列島]]の全域”には遥か大昔から日本人が住んでいたとみられ、そのあと日本人が3万年前に作った石器が発見され、1万6000年前以降は[[縄文式土器]]を作る[[縄文人]]が“日本列島の全域”に住んでいた。この[[縄文時代]]の日本は“東高西低(とうこうせいてい)”の時代だった。特に([[北海道]]および[[沖縄]]等の[[西南諸島]]を除く)“大雑把な意味での[[東日本]]”すなわち[[北日本]]である[[東北地方]]と東日本である[[関東地方]]の人口は[[西日本]]の人口よりはるかに多く、“(東北地方を含む)東日本”は西日本に対して“先進地帯”だった。 |
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“日本列島の全域に[[先住民]]である[[縄文人]]が住んでいた”ということは[[考古学]]で証明されていて、縄文時代の西日本に人が住んでいないはずもなく、日本列島全域に縄文人が住んでいたことは普通に考えてみれば当然のことなのだが、ほとんどの日本人はこのことを知らず、日本人は“縄文人は[[東北地方]]と[[関東地方]]にだけ住んでいた”と非常に大きな錯覚をしている。 |
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日本人にこの非常に大きな錯覚をさせている原因は、教科書等に載っている[[縄文式土器]]と[[弥生式土器]]の“分布地図”に代表される日本の非常に偏った歴史教育の結果であり、一言で言えば“日本の歴史教育では縄文時代がほぼ無視されている”。 |
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しかし実際には縄文文化は“日本が世界に誇れる非常に優れた文化”で、[[青森県]]・[[三内丸山遺跡]]に至っては[[メキシコ]]の古代文明と同様に“世界の[[四大文明]]”に匹敵する“[[文明]]”だと主張する学者もいるほどである。 |
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この“日本の[[原住民]]”である縄文人が暮らしていた非常に長く平和な時代が続いた日本に、今から約2400年前の紀元前3世紀以降、[[朝鮮半島]]から[[九州地方]]北部に[[弥生人]]と呼ばれる[[朝鮮人]]が侵入してきて、日本に[[戦争]]をもたらした。こうして日本では“戦争の時代”が始まった。侵入者である朝鮮人(弥生人)は縄文人が持っていなかった[[金属]]製の武器を駆使して“日本人”である縄文人を大量殺戮し、小国家を造っていった。この朝鮮人の小国家のことは[[中国]][[王朝]]の記録に書かれていて、最初は「100余国」あった朝鮮人の小国家は戦争による他国の征服によってやがて「30余国」となった。それらの国々の中で[[九州地方]]北部の[[シャーマン]]である[[卑弥呼]]を“旗頭”の女王に擁立した諸国連合国家,[[邪馬台国]]が強大化した(最高実力者は卑弥呼の弟)。更に約1700年前の4世紀後半、「[[朝鮮半島]]南部の[[任那]]出身である[[御真城入彦]](みまきいりひこ)が“[[奈良盆地]]の[[豪族]]連合である地方王国”[[大和]]王国([[奈良県]][[桜井市]])の初代[[大王]]([[天皇]])になった。これが[[応神天皇]]で、大和王国は“母国”である[[朝鮮]]に“逆進出”して朝鮮の王国を征服するまでに強大化した(6世紀前半に朝鮮半島から撤退)。この頃大和王国は[[大阪平野]]の海沿いに巨大な[[古墳]]をたくさん造った([[百舌鳥古墳群]]の[[大山古墳]](旧[[仁徳天皇]]陵など))。既にこの頃までに大和王国は、他の地方王国である[[中国地方]]西部([[山陰地方]])の[[出雲]]王国([[島根県]]),中国地方東部の[[[吉備]]王国([[岡山県]]),[[九州地方]]南部の[[博多]]王国([[福岡県]][[福岡市]])などを“緩やかな上下関係”で連合服属させていた。大和王国はその後も[[関東地方]]の“日本最大の川”[[利根川]]上流域([[嫡川]])を本拠地とする[[毛野]]王国([[群馬県]][[高崎市]]),[[東北地方]]南部([[宮城県]]・[[福島県]]・[[山形県]])の“東北地方最大の平野”[[仙台平野]]を本拠地とする[[仙台]]王国([[宮城県]][[仙台市]])などを、同じやり方で服属させた。こうして大和王国が本州でまだ征服していない地方王国は、“東北地方北部([[岩手県]]・[[秋田県]]・[[青森県]])”の[[北上盆地]]を本拠地とする日高見王国([[日高見国]])(岩手県[[奥州市]])だけとなった。 |
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[[朝廷]]は“最後の敵”である日高見王国を征服するために、現在の[[東北地方]]南部([[宮城県]]・[[福島県]]・[[山形県]])における旧[[仙台]]王国の首都だった宮城県[[仙台市]]に、[[陸奥国]]の[[国府]]兼[[鎮守府]]である[[郡山城]]([[郡山遺跡]])を造り、日高見王国との戦争の最重要拠点とした。鎮守府は“朝廷の最大の軍事組織”で、“日本でただ一人だけの存在”である鎮守府の長官は、[[令外官]]の[[鎮守府将軍]]である。鎮守府は[[幕府]]より古い時代の軍事組織で、“常時の地方[[軍政府]]”が鎮守府であり、“臨時の地方軍政府”が幕府である。その意味で本来は、[[源頼朝]]から始まる幕府による長期的な[[武家]]政治は、“違法な越権行為”なのである。こうして宮城県は、日本における“侵略の[[フロンティア]]”となった。 |
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当時日本の[[九州地方]]には“文化の玄関口”である[[大宰府]]はまだ存在しない。九州に大宰府ができたあとの[[724年]]、陸奥国の国府兼鎮守府は[[仙台市]]に隣接する[[多賀城市]]に遷って、[[多賀城]]が陸奥国の国府兼鎮守府となった。そして日本はそれ以降、首都・[[平城京]]([[奈良県]])を日本の中心としながら“北の多賀城”と“南の大宰府”が、“日本の3大重要拠点”となった。つまり仙台市にあった陸奥国の国府兼鎮守府である郡山城は、“日本の副首都格の重要拠点”だった。 |
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朝廷や「朝廷の遠の朝廷(とおのみかど)」である多賀城の人々は、東北地方北部の住民である日高見王国の国民を、[[エミシ]]という[[蔑称]]で呼んだ。 |
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エミシは「野蛮人」の意味で、非人間的で動物的な「悪者」のイメージをもつ名称である。もちろんこれは、朝廷が征服しようとしている敵国の国民への“単なる悪口”でしかなく、第2次世界大戦の頃、日本を支配していた軍部がイギリス人とアメリカ人を「鬼畜米英」だと盛んに宣伝し、国民に「アメリカ人とイギリス人は鬼のような獣(けだもの)だ」と信じ込ませようとしたのと同じである。 |
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ところが「エミシ」を漢字で書くと「蝦夷」となり、のちの時代に「蝦夷」は「エゾ」と発音するようになって、その「意味」が全く変わってしまったため、非常に複雑で厄介な問題が発生する。 |
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朝廷は日高見王国との戦争を開始したが、日高見王国には名馬がたくさんいて日高見王国は強力な騎馬軍団をもつ強い国だったため、朝廷は日高見王国をなかなか征服することが出来なかった。そればかりか朝廷は逆に、“東北地方最大の川”である[[北上川]]流域での戦いで大量の戦死者をだして大敗したことまであった。 |
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しかし、朝廷と日高見王国との戦争中から、朝廷は日高見王国の[[豪族]]を[[懐柔]]して、戦わずして日高見王国の有力者を服属させていた。これは大和王国([[朝鮮人]])による“日本征服戦争”の序盤である[[出雲]]王国を服属させたときから行われてきた“大和王国の常套手段”である。 |
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このような、戦争中から朝廷に降伏した「エミシ」を[[俘囚]]と言う。俘囚は非征服者である半[[奴隷]]として扱われた。この“俘囚の豪族たちの中で最も有力な豪族”は、東北地方を南北に縦断する“日本最大の山脈”[[奥羽山脈]]によって[[太平洋]]側の陸奥国([[宮城県]]・[[福島県]]・[[山形県]])と[[日本海]]側の出羽国([[岩手県]]・[[秋田県]]・[[青森県]])の2ヵ国に、それぞれに一人ずつ朝廷から俘囚長に任命された。 |
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そうした状況にあった[[東北地方]]南部の[[宮城県]]北部・伊治郡(これはりぐん)(誤記・上治郡(かみはりぐん))(宮城県[[栗原市]]旧[[栗駒町]])の大領(だだいりょう)(郡長)である俘囚(降伏エミシ),[[伊治砦麻呂]](これはりのあざまろ)は、[[位階]]が[[従五位下]]の[[貴族]]だったが[[外]]従五位下である[[傍流]]の貴族で、[[出自]](家柄)が俘囚だということで、朝廷系(中央系)の[[牡鹿群]]大領(郡長)である[[道嶋大盾]](宮城県[[石巻市]]旧[[牡鹿町]])などから侮辱されていた。[[780年]]、伊治砦麻呂はこれまでの自分に対する侮辱に激怒し、居城・伊治城に招いた“東北地方のトップスリー”である[[陸奥守]]・[[大伴真綱]],[[陸奥按察使]]兼[[鎮守府]]副将軍・[[紀広純]],道嶋大盾を襲撃し、逃走した大伴真綱を除く道嶋大盾と紀広純を殺害し、3人に付き従ってきた将兵を撃破して多賀城まで南下し、多賀城を攻撃して朝廷軍を敗り、多賀城を略奪したあと多賀城を放火して焼き落とした。ここに“対日高見国戦争の最重要拠点”は壊滅し、復讐を果たした伊治砦麻呂は将兵と共に母国・日高見王国([[岩手県]])へ戻って行き、以後消息不明となった。 |
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このように日高見王国の豪族は、エミシも俘囚も非常に強かった。 |
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そうした状況の中、[[794年]]に新首都・[[平安京]]を造営した[[桓武天皇]]は[[坂上田村麻呂]]を初代[[征夷大将軍]]に任命し、坂上田村麻呂は[[801年]]、強敵・日高見王国と“偽の講和”をして2人の共同統治者,〔[大墓君阿弖流為]](たのものきみ・あてるい)と[[磐具君母礼]](ばんぐのきみ・もれ)を“騎馬兵500人の大軍”と共に造営したばかりの新たな首都[[平安京]]までおびき出し、日高見王国の2人の共同統治者を含む日高見王国の有力者たちを殺害して、日高見王国を滅ぼすことに成功した。「君」は天皇の重要臣下であることを意味する称号だが、もちろん阿弖流為と母礼は天皇の臣下ではなく独立した王国の王である。朝廷が阿弖流為に付けた名前である「大墓君阿弖流為」は、この国王が「主戦派である強力な軍事力をもつ王だったが偽の和議によってこの王の軍事力を防ぐことに成功した」ということを意味しているとみられる。同じく朝廷がもう一人の王を「磐具君母礼」と名付けたのは、この王が「坂上田村麻呂が礼節を尽くして贈り物をするなどの懐柔をしたことによって偽の和睦に応じた」ということを意味しているとみられる。その後の間を空けた[[811年]]、桓武天皇の息子・[[嵯峨天皇]]は[[文屋綿麻呂]]に日高見王国の残党勢力を一掃させ、日高見王国との戦争は完全に終わった。こうして日高見王国は滅亡し、東北地方北部(岩手県・秋田県・青森県)の住民は朝廷から奴隷扱いされた。そして東北地方北部の住民は戦前の征服されるまえに“動物的な野蛮人”を意味する蔑称である「[[エミシ]]」と呼ばれたのと同様に、朝廷に国を征服されて奴隷扱いされるようになってからも「エミシ」と呼ばれ続けた。それは当時の東北地方北部の住民にとって、奴隷にふさわしい呼び名になってしまった。 |
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この「エミシ」という蔑称は漢字で書くと「蝦夷」であり、のちの時代に「蝦夷」は「エゾ」とも発音するようになり、「蝦夷」は“意味”が全く変わって、「蝦夷(エゾ)」は現在も[[北海道]]([[渡島]]・[[蝦夷ヶ島]])に住んでいる[[少数民族]]・[[アイヌ]]を意味するようになった。 |
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アイヌは“[[縄文人]]の子孫”で、日本人([[朝鮮人]])とは[[民族]]も[[人種]]も違う。だから“東北地方北部の住民である蝦夷(エミシ)”と“北海道の住民である蝦夷(エゾ=アイヌ)”は、漢字で書くと同じ文字だが“人種が違う”。 |
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しかし日本人はみな「蝦夷」を「エミシ」とは呼ばず「エゾ」と呼んでいて、「エミシ」のことなど知らない。 |
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そして日本人の大半が“東北地方北部([[岩手県]]・[[秋田県]]・[[青森県]])の住民”は「蝦夷」(エゾ)なのだから[[アイヌ]]と同じようなものだと思って、東北地方北部の住民を延々と差別してきた。 |
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そればかりか日本人の大半が“東北地方南部の住民”を含む“東北地方の住民全員”は「蝦夷」(エゾ)なのだから[[アイヌ]]と同じようなものだと思って、東北地方の住民を延々と差別してきた。 |
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東北地方南部([[宮城県]]・[[福島県]]・[[山形県]])の住民は朝廷に友好的なかたちで服属した旧[[仙台]]王国の子孫であり、特に宮城県の[[仙台市]]とその隣の[[多賀城市]]には陸奥国の国府兼鎮守府である日本唯一の地方軍政府があり、対日高見王国戦争の最重要拠点として朝廷の東北地方北部征服、すなわち(北海道と沖縄等を除く)日本統一の最大の功労者である。その朝廷の日本統一の最大の功労者が恩賞を与えられて優遇されるどころか、逆に人種が違う蝦夷扱いをされて延々と差別されてきた。これままさに朝廷による東北地方南部の住民への“裏切り・詐欺”に他ならない。朝廷は東北地方南部を利用するときだけ利用して戦わせ、目的を達成したあと逆に差別し続けた。 |
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東北地方の面積は[[関東地方]]の面積の約2倍である。関東地方とほぼ同じ面積である東北地方北部に住む住民は非征服者として奴隷扱いされたが、東北地方北部の住民も東北地方南部の住民も、東北地方が朝廷に征服される以前に朝廷に征服された関東地方の住民と、“身体的特徴が同じ”である。すなわちこのことは、“東北地方北部の住民も東北地方南部の住民も全く同じ日本人である”ということを示している。 |
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ところが、東北地方北部の住民が朝廷に征服されたあと“奴隷扱いされて「エミシ」(蝦夷)と呼ばれ”、更に“征服者”である東北地方南部の住民までが“蝦夷の子孫”だと思われているのに対して、関東地方の住民は「エビス」と呼ばれて「エビス」も漢字で書くと「蝦夷」であるのに、関東地方の「蝦夷」は「エミシ」や「アイヌ」や「縄文人」と同じように扱われるどころか、逆に[[七福神]]の一つである神,「恵比寿」様として祭られている。 |
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[[天喜]]4年([[1056年]])、[[阿久利川事件]]をきっかけに安倍氏が蜂起し再び合戦に至ると、経清は陸奥守頼義に従って参戦するが、経清と同じく頼時の娘を妻に迎えていた[[平永衡]]が謀反の疑い(甲冑をことさら派手にして舅の頼時に自軍の位置を知らせたとの讒言による嫌疑)で殺された。我が身にも同様の危機が迫っていると判断した経清は安倍氏の多賀城奇襲の噂を流し、頼義が急遽多賀城に引き上げた機に兵800を率い再び安倍氏に属する。翌天喜5年([[1057年]])の[[黄海の戦い]]で安倍氏が大勝した後、戦況は膠着し、[[康平]]2年([[1059年]])ごろには[[衣川]]以南の住民も国府の命令(赤符)に服さず経清の徴税の札(白符)に従うほど、安倍氏はその勢力を誇示した。 |
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昔から歴史学者が“謎の民族”としきた[[北海道]]([[渡島]]・[[蝦夷ヶ島]])の[[アイヌ]]は[[沖縄県]]の住民である[[沖縄県民]]と身体的特徴が似ていて、アイヌと沖縄県民は“先祖が同じ[[縄文人]]”であるばかりではなく“[[人種]]的に近い”とみられる。 |
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日本人は“縄文人([[アイヌ]])と[[弥生人]]([[朝鮮人]])の混血”である。しかし、[[本州島]]や[[九州島]]などのアイヌが“朝鮮人との混血”を繰り返されたのに対して、海で隔てられている北海道や沖縄のアイヌは朝鮮人との混血がなかったためアイヌの身体的特徴が残った。 |
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康平5年([[1062年]])、頼義は膠着した戦況を打開するため、安倍氏と同じ俘囚の長であった[[出羽国]][[仙北三郡]]の[[出羽清原氏|清原氏]]に多くの財宝を送って援兵を求めた。清原氏の協力で頼義は安倍氏を滅ぼし、前九年の役は終結した。頼義の苦戦の一因として徴税の札(白符)に象徴されるような経清の経済力によるところや計略があったとする説もあり<ref name="sugano"/>、経清に対する頼義の恨みは殊のほか深く、経清は捕縛された後、頼義の面前に引出され、苦痛を長引かせるため錆び刀で[[鋸挽き]]によって斬首された{{refnest|group="注釈"|「将軍深悪之故以鈍刀漸斬其首」との記録がある<ref name="mutsu">『[[陸奥話記]]』</ref>。}}。 |
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このアイヌとほぼ同族である沖縄県民に関し、2016年に沖縄で警察官(大阪府警)が沖縄県民を「土人」という[[差別用語]]で侮辱する[[人種差別]]をして大きな問題になるなど、[[右翼]]の人種差別主義者などによる人種差別は、[[朝鮮人]]・[[韓国人]]・[[中国人]]を含む[[アジア]]諸国などに住む[[外国人]]差別に象徴されるように非常に陰湿で根深い。 |
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しかし、その一方で1990年代以降、日本では沖縄県出身の歌手や女優などの[[芸能人]]多数(歌手・[[安室奈美恵]]や女優・[[仲間由紀恵]]など)が人気者となり、若い世代を中心に沖縄県出身の芸能人が“憧れの存在”となって「沖縄美人」という流行語も発生・定着するなど、沖縄県民の社会的地位が一躍向上した。これは日本人のほとんどが沖縄県民がアイヌと同じであるということを知らないということと大きく関係している。沖縄県民はかつてのアイヌとは異なり、男性は“就職差別”をされ女性は“結婚差別”をされて人生を潰されるという人種差別の被害を受けなかった。なお、アイヌや沖縄県民の身体的特徴は[[インド・ヨーロッパ語族]]の[[コーカソイド]]([[白色人種]])の身体的特徴と似ていて、日本の歴史学会には「アイヌ白人説」も存在する。 |
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長久元年([[1040年]])より数ヵ年国府の推挙により、修理大夫として在京し、陸奥守・藤原登任の下向に同行したとの説がある。俘囚長で奥六郡の支配者である安倍頼良(のちに改名して安倍頼時)の娘(史料では「[[有加一乃末陪]]」と記載されている)を妻に迎え、曰理(わたり、現宮城県[[亘理郡]])の鹿島神社(現亘理町逢隈字鹿島)付近に居を構え、[[荘園]]経営を行うと同時に交通の要衝を支配し関所に金銀山米銭寺という寺社を建立し、そこを通過するものから交通税を課し財力を蓄えていたとされる[2]。さらに、平国妙の外戚と言う記述が『奥州御舘系図』にあることで、藤原経清の2~3代前の先祖から東北地方に住んでいたとする考えもある[3]。 |
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朝廷は全国の68ヵ国を国力で4つのランクに分類していて、[[陸奥国]]は“最上位の[[大国]]”であると共に“面積が他国より圧倒的に広い日本最大の国”でもあり、陸奥国の[[国司]]である[[陸奥守]]は“陸奥国と出羽国の両国を監督する”[[陸奥按察使]](むつあぜち)をしばしば兼任した。 |
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また、陸奥国の[[国府]]である[[多賀城]]には“朝廷の最大の軍事組織の長官”である[[令外の官]]の[[鎮守府将軍]]が在駐し、[[鎮守府]]がある[[多賀城]](宮城県[[多賀城市]])は“日本唯一の地方[[軍政府]]”だった([[朝鮮総督府]]や[[台湾総督府]]と同じ)。 |
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鎮守府とは“常時の地方軍政府”のことで、鎮守府の長官が鎮守府将軍で、“臨時の地方軍政府”であるにが[[幕府]]で、幕府の長官が[[征夷大将軍]]である。 |
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多賀城に国府と鎮守府が移転するまえは、宮城県[[仙台市]][[太白区]]の郡山城([[郡山遺跡)]]が陸奥国の国府と鎮守府を有する地方軍政府だった。 |
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また、[[奈良時代]]に設置された[[按察使]]は、日本全国の国司の中で“自分が国司を務める国を除く3ヶ国程度(2ヶ国から4ヶ国)を監督する立場の国司”として選ばれて、按察使は全国に11人ほどいた。 |
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しかし、奈良時代に陸奥国と出羽国を監督する[[陸奥按察使]]以外は陸奥按は廃止され、陸奥按察使は“日本唯一の地方軍政府の長官”である陸奥守の“別格のスーパー国司”としての力の大きさを示す官職となっていた。 |
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この陸奥国から独立する形でつくられた出羽国は、朝廷が“国を国力で4ランク”に分類した中で“第2ランクに位置する[[上国]]”だったが、陸奥国が“日本トップレベルの非常に強力な国”だったため、出羽国は陸奥国より“格下の国”となっていた。 |
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陸奥国の俘囚長は朝廷から[[奥六郡]]の支配を公認されている[[安倍頼良]](のちに改名して[[安倍頼時]])(本拠地は[[岩手県]]南部の[[奥州市]]旧[[衣川村]])で、出羽国の俘囚長は仙北三郡([[山形県]]・[[秋田県]])の支配を公認されている清原光頼(本拠地は秋田県[[横手市]])だった。そして安倍頼良と清原光頼は、同じの[[俘囚]]の大豪族である親戚同士だった。 |
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11世紀前半、安倍頼良の勢力が頼良の勢力圏と朝廷の勢力圏の“事実上の国境の川”である[[衣川]](岩手県の奥州市と[[世界遺産]]・[[平泉町]]の境界線)を越えて[[宮城県]]北部まで南下・拡大し、更に安倍頼良に納税の不備が生じた。 |
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これよりまえに、首都[[京都]]([[平安京]])から[[位階]]が[[五位]]の[[貴族]]である[[藤原経清]]らと共に[[陸奥国府]][[多賀城]]に下向(赴任)してきた[[正五位上]]・[[陸奥守]]の[[藤原登任]]は、しばしば[[出羽守]](所在地は[[山形県]][[鶴岡市]][[酒田市]])が任命されないことがある“出羽国のナンバーツー”である[[秋田城]][[介]](あきたじょうのすけ)として、軍事貴族である[[平氏]]一門の[[平繁成]]の就任を、[[朝廷]]を支配する「50年間関白」の[[藤原頼通]]に要請し、朝廷は平繁成を秋田城介に任命した。 |
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なお、藤原頼通の父は、[[藤原氏]]によって“約210年間行われた[[摂関政治]]”において、藤原頼通と同様に“摂関政治の最盛期”を現出した[[御堂関白]]こと[[藤原道長]]で、藤原道長の[[国宝]]である[[『御堂関白記』]]は歴史的記録物として、当時”太陽が沈まない帝国“と称えられた“世界最大の植民地をもつ帝国”[[スペイン王国]]の首都[[マドリッド]]の[[スペイン王国]]および“[[キリスト教]][[西方協会]]である[[カトリック]]の[[総本山]]]・[[バチカン]]の[[ローマ法王]]のもとへ“日本初の政治外交使節を派遣”した初代[[仙台藩]][[藩主]]・[[伊達政宗]]の[[国宝]]である「[[慶長遣欧使節関係資料]]」と共に、“日本初の[[世界遺産]]”である。 |
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永承6年(1051年)、陸奥守・藤原登任は秋田城介・平繁成に陸奥国への出兵を要請し、藤原登任と平繁成は“陸奥出羽連合軍”(北日本連合軍)を結成。こうしてして藤原登任と平繁成の朝廷軍は俘囚長・安倍頼良との戦いを開始した。 |
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しかし朝廷軍は、安部頼良の勢力圏となっていた宮城県北部の[[鬼切部の戦い]](おにきりべのたたかい)([[大崎市]]旧[[鳴子町]][[鬼首温泉]](おにこうべおんせん)付近)で安倍軍に大敗し、秋田城介・平繁成は捕虜となった。 |
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翌年の永承7年(1052年)、関白・藤原頼通は安部頼良との戦いに敗れた陸奥守・藤原登任と秋田城介・平繁成を解任した。陸奥守を解任された藤原登任は、皇族が国司になる親王任国を除き、陸奥守等と共に“全国の国司の中で格付けナンバーワンレベルの国司”である山城守(京都府)に転任した。関白・藤原頼通は藤原登任の後任として、軍事貴族の源頼義を陸奥守に任命した。その一方で藤原頼通は、姉である“国母”・太皇太后の上東院門(藤原彰子)の病気が治ったとの理由で大赦を発令し、安倍頼良の反乱を許した。これを受けて安倍頼良は朝廷に帰服し、頼良は関白・藤原頼通への忠誠の証として、新任の陸奥守・源頼義の「頼義(よりよし)」という名前と自分の「頼良(よりよし)」という名前の発音が同じであることを恐縮して、自分の名前を「頼時(よりとき)」に改名した。こうして“北日本の独立”という可能性すらあったこの大事件は、最悪の事態に至ることなく収束した。そうした意味で安倍頼良は、まさに“第二の平将門”であった。 |
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安倍頼良の反乱事件は一見落着した。ところが4年後の天喜4年(1056年)、陸奥守の在任中に安倍頼時から多額の金品を得て懐を肥やしていた源頼義は、陸奥守の任期切れ直前に阿久利川事件を起こして安倍頼時の長男・安倍貞任を謀反人に下手あげ、安倍頼時に貞任の処刑を要求した。この要求を拒否した安倍頼時は、源頼義との戦いを開始した(前九年の役)。“陸奥国府・多賀城のナンバーツー”である藤原経清は、源頼義に従って参戦した。ところが、朝廷軍の有力武将である宮城県南部伊具郡の領主である平氏一門の平永衡(妻は安部頼時の娘)が、戦いのさ中に源頼義から謀反の疑いをかけられて殺されるという事件が起きた。その謀反の疑いとは、平永衡が4年前の鬼切り部の戦いに参戦したとき銀色の甲冑を身に付けて戦い義父・安倍頼時が率いる安部軍から自分が矢を射られないようにした、というものだった。藤原経清の妻も平永衡の妻と同様に安倍頼良の娘であり藤原経清と平永衡は“義理の兄弟”だったので、藤原経清はこのままでは自分も源頼義に殺されてしまうかもしれないと思い、敵である安倍頼時のもとへ逃れることを決断した。藤原経清は安倍頼時が多賀城を奇襲するという噂を流して源頼義を急遽多賀城に引き上げさせると、兵800の大軍を率いて安倍頼時のもとへ逃れた。多賀城の常駐兵力は1500人なので、朝廷軍は兵力の半分以上を失って分裂した。 こうして安部軍は強化されて安部・藤原連合軍となり、反朝廷軍は安部・藤原連合軍となった。翌年の天喜5年(1057年)、安倍・藤原軍は黄海の戦いで朝廷軍に圧勝し、以後前九年の役は安倍・藤原軍が優位に立った。 |
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ところが同1057年、安部頼時の親戚である俘囚(朝廷に降伏したエミシ)の豪族・安倍富忠が安部頼時に逆らっため、安部頼良は安部富忠を説き伏せるために自ら出陣したが、待ち伏せしていた伏兵の攻撃に遭い戦死するという大事件が起きた。そのため安部頼時の長男である安倍貞任が安部家の新たな当主となり、“義理の兄弟”である藤原経清の藤原軍と共に、劣勢な朝廷軍との戦いを続けた。 |
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康平2年(1059年)、藤原経清は国府(天皇)が税金を徴収する札である赤符を否定して自らが発行した徴税の札である白符を使い、衣川(岩手県奥州市と平泉町の境界線)以南の岩手県南部(一関市など)から宮城県北部(大崎市など)にかけての住民が、藤原経清の命令に従って税金を納めた。こうしてこの地域は事実上日本から独立したかたちとなり、日本は再び“北日本の独立”という大問題に直面した。 |
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前九年の役は戦争開始以降、安倍頼時と同じ出羽国(山形県・秋田県)における“ただ一人の俘囚長”である仙北三郡(秋田県)の支配者・清原光頼 (本拠地は厨川の柵)が安部頼時に事実上味方して“中立”の立場をとってきた。 しかし、苦境に陥っていた源頼義は清原光頼に多くの財宝を送って、清原光頼を朝廷側に寝返らせることに成功した。こうして今まで朝廷を裏切って親戚である安部頼良と藤原経清に味方してきた清原光頼は、今度は“勝ち戦目前”の安部貞任と藤原経清を裏切って、前九年の役に朝廷軍として参戦することを決定した。清原光頼は弟の清原武則に清原軍を預け、清原軍の司令官となった清原武貞は、“朝廷軍の大半を占める朝廷軍の主力軍”として前九年の役に参戦した。前九年の役は清原氏の大軍が参戦したことによって戦況が一挙に逆転し、戦いは朝廷軍の優位となった。苦戦を強いられた安部・藤原軍は、安部氏の本拠地である居城を奥六郡の衣川(岩手県奥州市旧衣川村)から厨川の柵(厨川城、岩手県盛岡市)に移した。しかし5年(1062年)、安倍・藤原軍は厨川の戦いで朝廷軍に敗れ、安倍貞任は戦死し藤原経清は捕縛された。源頼義は自分の命を脅かした藤原経清を苦しめながら処刑するために、切れ味の悪い鈍刀で藤原経清を斬首した。この源頼義による藤原経清の処刑は鋸引き(のこぎりびき)であるとごく一部の右翼が主張しているが、そのような記録は一切存在しない[4]。なお、源頼義の苦戦の一因として徴税の札(白符)に象徴されるような藤原経清の経済力によるところや計略があったとする説もある[5] |
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戦後,“50年間関白”藤原頼通は、前九年の役は“源頼義が東北地方に勢力を拡大するための個人的な野望に基づく私戦”だと認定し、源頼義に恩賞を一切与えず、前九年の役で“朝廷軍が逆転勝ちをした最大の功労者”である清原軍の司令官,清原武則を“エミシとして史上初めて”鎮守府将軍に任命した。清原光頼は事実上引退し、清原武則が清原家の新たな当主となった。 |
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前九年の役で藤原経清と安倍貞任(安部氏)が滅亡したとき、藤原経清の妻・有加 一乃末陪が清原武則の長男である清原武貞の戦利品として武貞の妻にされ(のち息子・家衡を出産)、有加の連れ子である藤原経清の息子・6歳の藤原清衡も清原家に入った。この藤原清衡がのちに後三年の役の勝利者として奥州藤原氏の初代当主となり、“首都京都(平安京)の次に人口が多い第2の京都である大都市”平泉や、世界遺産・中尊寺金色堂などの世界的な仏教文化をつくった。 |
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同じく前九年の役で藤原経清と安倍貞任(安倍氏)が滅亡したとき、安部・藤原連合軍が戦いに敗れるまえの段階で源頼義に降伏した安倍貞任の弟である安倍宗任が、処刑されずに西日本への追放処分となり辛うじてエミシである安倍氏の命脈を保った。この安倍宗任の子孫の一人に安倍晋三元首相(2020年,首相在任期間史上最長記録を樹立)がいる。 なお、安倍元首相の祖父は岸信介元首相で、岸元首相の弟は佐藤栄作元首相である。 佐藤元首相の先祖は陸奥守兼鎮守府将軍・藤原秀衡の家臣である佐藤継信・佐藤忠信の“佐藤兄弟”で、佐藤兄弟は源義経(兄は源頼朝)の側近である。 佐藤兄弟と同じ時代にみちのく・東北地方の旅をしたした“日本を代表する俳人”として、同じ佐藤一門の西行法師こと佐藤義清(朝廷(京都御所)の元北面の武士)がいる。 佐藤義清(西行法師)の先祖は従二位・公卿・参議である佐藤公清(藤原公清)である。 佐藤公清より前の時代の貴族である藤原経清と佐藤公清は、共に先祖が従二位・公卿・下野守・武蔵守・鎮守府将軍・武門の棟梁の藤原秀郷である。 藤原秀郷の先祖は藤原氏の宗家(本家)である藤原北家で、北家の当主は“藤原一門のナンバーワン”である氏長者(うじのちょうじゃ)”である。 藤原氏の本家である北家は南家・式家・京家と共に藤原四家と呼ばれていて、藤原四家をつくった4人の兄弟である藤原四子の父は、事実上大宝律令をつくり「日本の歴史」である『日本書紀』等もつくって“現在の日本の基礎”である律令制国家日本を完成させた藤原不比等である。 藤原不比等の父は“初代藤原氏”である藤原鎌足で、藤原鎌足は大化の改新(大化のクーデター・乙巳の変)で中大兄皇子(天智天皇)を助けて蘇我入鹿・蘇我蝦夷親子の蘇我氏を倒した。 そして中大兄皇子の母は、“大化の改新の黒幕”である“朝廷の最高実力者”皇極天皇(斉明天皇)である。 |
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== 系譜 == |
== 系譜 == |
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**男子:刈田経元 |
**男子:刈田経元 |
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**男子:藤原経光 |
**男子:藤原経光 |
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== 備考 == |
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現在では誤伝であることが確定しているが、子の清衡が建立した中尊寺金色堂に納められた経清の玄孫にあたる泰衡の首については、経清の首という伝承も伝えられていた。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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<references/> |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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== 関連 |
== 関連作品 == |
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<!--[[Wikipedia:関連作品]]より「記事の対象が、大きな役割を担っている(主役、準主役、メインキャラクター、キーパーソン、メインレギュラー、メインライバル、メイン敵役、ラスボス等)わけではない作品」や未作成記事作品を追加しないで下さい。--> |
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;藤原経清関連の史跡 |
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; 小説 |
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*[[朝廷]](大和王国)発祥の地である朝廷の本拠地 |
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[[奈良盆地]]([[奈良県]][[桜井市]]) |
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*朝廷から独立していた[[エミシ]](蝦夷)の地方王国,[[日高見国]](日高見王国)の本拠地 |
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[[北上盆地]]([[岩手県]]) |
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*朝廷から独立していた[[エミシ]](蝦夷)の地方王国の支配層(大[[豪族]])の墓 |
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[[江釣子古墳群]]([[岩手県]][[北上市]])・・・朝廷の刀剣とは形が違う、のちの[[日本刀]]のオリジナルである[[蕨手刀]]等が発掘された |
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*エミシの地方王国を征服した[[桓武天皇]](臣下の[[征夷大将軍]]・[[坂上田村麻呂]])が[[陸奥国府]]・[[多賀城]]の[[鎮守府]]を移転させて造った城,[[胆沢城跡]](岩手県[[平泉町]]) |
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*[[安倍氏]]側の謎の大商人,[[金売り吉次]]の居館跡であるとの伝説が伝わる安部氏が造った大寺院,[[長者原廃寺跡]](岩手県[[奥州市]]) |
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*[[藤原経清]]の居城,[[中島館跡]]([[宮城県]][[山元町]]) |
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*[[藤原経清]]と妻と息子,[[藤原清衡]]の居館(居城) |
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[[豊田館跡]](豊田城跡)([[岩手県]][[奥州市]](旧[[江刺市]]) |
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*藤原経清と安倍頼時親子を滅ぼした同族の[[摂関政治]]最盛期の大[[関白]]・[[藤原頼通]](父は摂関政治最盛期の関白・[[藤原道長]]) |
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*[[藤原経清]]と家臣団の墓 |
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[[五位塚墳丘群]]([[岩手県]][[奥州市]](旧[[江刺市]])) |
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*[[藤原清衡]]の居城(居館) |
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[[豊田館跡]](豊田城跡)・・・岩手県奥州市(旧江刺市)にある藤原経清が造った豊田館とは異なる、藤原経清の息子・藤原経清が造った、奥州藤原氏の[[平泉]]政権の政庁となった、同じ名前の居館(居城)のこと(岩手県平泉町) |
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*[[奥州藤原氏]]初代当主・[[藤原清衡]]が造った、当時の人口が首都[[京都]]([[平安京]])の次に多かった[[ユネスコ]][[世界遺産]]に登録されている大都市(のちの時代に[[マルコ・ポーロ]]の著者『[[東方見聞録]]』で「黄金の国・[[ジパング]]」として[[西欧]]に紹介された)。 |
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[[平泉]] |
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*奥州藤原氏の政庁跡 |
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[[柳之御所遺跡]](岩手県[[平泉]]) |
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*奥州藤原氏の政庁 |
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[[伽羅之御所跡]] |
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*奥州藤原氏の寺院 |
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[[中尊寺]]と[[中尊寺金色堂]](岩手県平泉町)・・・奥州藤原氏を滅ぼして[[平泉]]を征服した[[源頼朝]]が真似をして頼朝の本拠地[[鎌倉]]に造った二階建ての寺,[[永福寺]]のオリジナルである[[二階大堂跡]]([[大長寿院跡]]) |
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*奥州藤原氏の寺院 |
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[[毛越寺跡]]と[[毛越寺庭園]][[大泉ヶ池]](岩手県平泉町) |
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*奥州藤原氏の寺院 |
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[[無量光院跡]](岩手県平泉町) |
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*[[藤原清衡]]以来の[[奥州藤原氏]]([[藤原秀衡]])による[[北日本]]自治支配を公認し、秀衡が擁立した[[源義経]]を後援した[[治天の君]] |
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[[後白河法王]] |
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*後白河法王の最有力武将だったが後白河法王と対立した“日本初の武家政権創始者”[[平清盛]]([[院政]]を創始した[[白河上皇]]の“落とし種”) |
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*奥州藤原氏第4代当主・[[藤原泰衡]]に攻め滅ぼされた[[源義経]]の居館 |
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[[義経堂]] |
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*弟・[[源義経]]の活躍により[[源平合戦]]でライバルの[[平氏]]を滅ぼし、対立・逃亡した義経が保護者である[[奥州藤原氏]]のもとへ戻ると義経を追跡逮捕するとの口実で[[後白河法王]]に[[守護]]・[[地頭]]の任命権を認めさせ、[[奥州藤原氏]]を滅ぼして“日本初の[[武家政治]]”である[[鎌倉幕府]]を樹立し[[征夷大将軍]]にも任命された軍事貴族 |
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[[源頼朝]] |
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*[[平清盛]]に幽閉されていた軍事貴族・[[源頼朝]]の監視役でありながら長女・[[北条政子]]を頼朝と結婚させ、頼朝の側近として[[源平合戦]]で[[平氏]]を滅ぼし、更に[[奥州合戦]]で[[奥州藤原氏]]を滅ぼし、征夷大将軍・源頼朝の変死直後に[[執権政治]]を開始して頼朝の長男である征夷大将軍・義家を自殺させて[[鎌倉幕府]]を乗っ取り、更にライバルの幕府幹部たちを討滅して権力を強化したが、側室の息子を後継者にしようとしたため娘・政子と息子・義時に引退させられて失脚した |
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[[北条時政]] |
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*[[平清盛]]に幽閉されていた[[源頼朝]]の妻となり、父・北条時政および7歳年下の弟・[[北条義時]]と共に“[[北条氏]]の日本支配”を目指し、夫・源頼朝の変死後に頼朝の長男である征夷大将軍・義家と次男である征夷大将軍・実朝を殺して源氏を滅ぼし、更に弟・義時と共に父・時政を引退させ、[[尼将軍]]として[[承久の乱]]を起こし[[治天の君]]・[[後鳥羽上皇]]に圧勝、「天皇の時代」である[[古代]]を終わらせ[[中世]]を切り開いた |
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[[北条政子]] |
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*[[北条時政]]の次男(長男は戦死)である[[北条政子]]の弟として父・姉と共に権力の掌握に努め、義理の兄である征夷大将軍将軍・源頼朝を変死させたあと頼朝の長男である征夷大将軍・源義家を自殺させ、更に側室の息子を後継者にしようとした父・北条時政を姉・政子と共に引退・失脚させ、[[執権政治]]を推進して[[武家政権]]を確立し、源頼朝の次男である征夷大将軍・源実朝を暗殺して征夷大将軍である源氏親子を3代続けて殺して滅亡させ、[[治天の君]]・[[後鳥羽上皇]]の[[朝廷]]が全国の諸大名に義時追討の[[勅令]]を発して[[承久の乱]]が起こると朝廷軍に圧勝し、上皇3人を[[島流し]]にして天皇を[[退位]]させ新天皇を擁立、以後,首都・[[京都]]([[平安京]])を制圧した[[鎌倉]]などの田舎に住む[[関東地方]]の[[武士]]達が、朝廷の[[貴族]]の妻や娘などの高貴な身分の女性達に歓迎されながら彼女達を手にいれた |
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[[北条義時]] |
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;藤原経清関連の博物館・歴史資料館・歴史テーマパーク |
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*安倍頼良(安部頼時)と安倍一族の歴史資料館 |
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[[奥州衣川歴史ふれあい館]](岩手県奥州市(旧[[衣川村]])) |
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*藤原経清と奥州藤原氏の歴史テーマパークおよびNHK大河ドラマ『炎立つ』のロケ地「[[えさし藤原の郷]](さと)」(岩手県[[奥州市]](旧[[江刺市]]) |
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*奥州藤原氏の歴史資料館 |
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[[平泉文化史館]](岩手県平泉町) |
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*奥州藤原氏の歴史資料館 |
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[[平泉文化遺産センター]](岩手県平泉町) |
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;藤原経清を扱った作品 |
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* [[今東光]]『蒼き蝦夷の血』 [[新人物往来社]]/徳間文庫 |
* [[今東光]]『蒼き蝦夷の血』 [[新人物往来社]]/徳間文庫 |
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* [[高橋克彦]]『[[炎立つ (小説)|炎立つ]]』 [[日本放送出版協会]]/講談社文庫 |
* [[高橋克彦]]『[[炎立つ (小説)|炎立つ]]』 [[日本放送出版協会]]/講談社文庫 |
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* [[江宮隆之]]『経清記』 - 第13回[[歴史文学賞]]受賞作品 |
* [[江宮隆之]]『経清記』 - 第13回[[歴史文学賞]]受賞作品 |
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; テレビドラマ |
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* [[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]『[[炎立つ (NHK大河ドラマ)|炎立つ]]』([[1993年]] - [[1994年]]、第1部主演:藤原経清・[[渡辺謙]]、助演:藤原経清の妻である安倍頼良の娘(姉),結有・[[古手川祐子]]、安倍頼良・[[里見浩太朗]]、金売り吉次・[[西村晃]]、金売り吉次の息子(弟),乙那・[[寺田稔]]、安倍頼良の側室であり金売り吉次の娘(姉)である[[異教]]の[[シャーマン]],沙羅・[[多岐川裕美]]、陸奥守,藤原登任・[[名古屋章]]、藤原登任配下の有力武将である安倍頼良の娘婿,平永衡・[[新沼謙治]]、平永衡の妻である安倍頼良の娘(妹),菜香・[[鈴木京香]]、安倍頼良の息子,安倍貞任・[[村田雄浩]]、陸奥守,源頼義・[[佐藤慶]]。第2部主演:藤原経清の息子,藤原清衡(清原清衡)・[[村上弘明]]、助演:藤原経清の未亡人である清衡の母,結有・[[古手川祐子]]、清原家当主である清衡の兄,清原真衡・[[萩原流行]]、清衡の弟,清原家衡,[[豊川悦司]]、源頼義の息子である陸奥守,源義家・[[佐藤浩市]]、清衡の妻,貴梨・[[坂本冬美]]、清原家の長老,古彦秀武・[[蟹江敬三]]。第3部主演:藤原泰衡・渡辺謙(2役)、藤原秀衡・[[渡瀬恒彦]]([[北大路欣也]]が不倫発覚で出演中止)、金売り吉次の子孫,橘似(きちじ)・[[紺野美沙子]] 、先例を踏襲して奥州藤原氏の“北日本自治支配”を公認した後白河法王・[[中尾彬]] 、藤原秀衡が金売り吉次(橘似)から買って支援育成した源頼朝の弟,源義経・野村宏伸、義経の側近,武蔵坊弁慶・[[時任三郎]]、奥州藤原氏を滅ぼして鎌倉幕府をつくった征夷大将軍,源頼朝・長塚京三。 |
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* [[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]『[[炎立つ (NHK大河ドラマ)|炎立つ]]』([[1993年]] - [[1994年]]、演:[[渡辺謙]]) |
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2024年12月16日 (月) 02:08時点における最新版
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時代 | 平安時代中期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 康平5年9月17日(1062年10月22日) |
別名 | 亘権守、亘理権大夫 |
官位 | 陸奥権守、従七位下、従五位、散位、修理大夫? |
氏族 | 奥州藤原氏 |
父母 | 父:藤原頼遠、母:平国妙姉妹 |
兄弟 | 経清、連国[注釈 1]、重久[2]、頼久[2]、遠久[2] |
妻 | 安倍頼時娘・有加一乃末陪 |
子 | 清衡、刈田経元[注釈 2]、経光[4]、平成衡母?[5] |
藤原 経清(ふじわら の つねきよ)は、平安時代中期の陸奥国亘理郡の豪族。『尊卑分脈』によると藤原秀郷の6代後裔。奥州藤原氏の初代清衡の父。
経歴
[編集]経清は元来源頼義の弟・源頼清の郎従であり、頼清が陸奥守として長久年間(1040年〜1044年)に赴任した折に陸奥国に下向し、亘理郡を拝領したという[2]。
陸奥権守従七位下に叙せられたのち散位。亘理権大夫(わたりのごんのたいふ)と称したと言われている(大夫は五位の官人の異称)。『尊卑分脈』によれば「亘権守・亘理権大夫」とあるが、「権大夫」という職位がどんな役職であるか、実際にどのような官職であったか判明していない。ただ、子・清衡も権大夫[6]であったこともあり、地位を証明する信頼の置ける史料は現存していないが、在庁官人として陸奥国府多賀城に勤務していたと見られている。
その名が登場する史料は、長年『陸奥話記』のみとされており、藤原姓も私称ではないかとされてきたが、永承2年(1047年)の五位以上の藤原氏交名を記した『造興福寺記』に「経清六奥(六奥は陸奥の意)」と記されている。この史料によると、少なくとも藤原氏の一族の係累に連なる者と中央の藤原氏から認められており、従五位に昇叙し散位であったようである。
長久元年(1040年)より数ヵ年国府の推挙により、修理大夫として在京し、陸奥守・藤原登任の下向に同行したとの説がある。俘囚長で奥六郡の支配者である安倍頼良(頼時)の娘(史料では「有加一乃末陪」と記載されている)を妻に迎え、曰理(わたり、現宮城県亘理郡)の鹿島神社(現亘理町逢隈字鹿島)付近に居を構え、荘園経営を行うと同時に交通の要衝を支配し関所に金銀山米銭寺という寺社を建立し、そこを通過するものから交通税を課し財力を蓄えていたとされ[7]、さらに平国妙の外戚と言う記述が『奥州御舘系図』に見えることから2~3代以前から奥州に土着していたとするのが自然であるとする考えもある[8]。
安倍氏が朝廷への貢租を怠る状態になったため、永承6年(1051年)に、陸奥守・藤原登任は安倍氏征討の兵を出したが鬼切部の戦いで敗れた(前九年の役の始まり)。この戦いで経清は安倍氏側に属していたが、翌永承7年(1052年)に、更迭された登任の後任として源頼義が陸奥守に任じられ、大赦によって許された頼時が朝廷に帰服すると、経清もまた頼義に従った。
天喜4年(1056年)、阿久利川事件をきっかけに安倍氏が蜂起し再び合戦に至ると、経清は陸奥守頼義に従って参戦するが、経清と同じく頼時の娘を妻に迎えていた平永衡が謀反の疑い(甲冑をことさら派手にして舅の頼時に自軍の位置を知らせたとの讒言による嫌疑)で殺された。我が身にも同様の危機が迫っていると判断した経清は安倍氏の多賀城奇襲の噂を流し、頼義が急遽多賀城に引き上げた機に兵800を率い再び安倍氏に属する。翌天喜5年(1057年)の黄海の戦いで安倍氏が大勝した後、戦況は膠着し、康平2年(1059年)ごろには衣川以南の住民も国府の命令(赤符)に服さず経清の徴税の札(白符)に従うほど、安倍氏はその勢力を誇示した。
康平5年(1062年)、頼義は膠着した戦況を打開するため、安倍氏と同じ俘囚の長であった出羽国仙北三郡の清原氏に多くの財宝を送って援兵を求めた。清原氏の協力で頼義は安倍氏を滅ぼし、前九年の役は終結した。頼義の苦戦の一因として徴税の札(白符)に象徴されるような経清の経済力によるところや計略があったとする説もあり[7]、経清に対する頼義の恨みは殊のほか深く、経清は捕縛された後、頼義の面前に引出され、苦痛を長引かせるため錆び刀で鋸挽きによって斬首された[注釈 3]。
系譜
[編集]藤原秀郷-千晴-千清-正頼-頼遠-経清-清衡-基衡-秀衡-泰衡
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]関連作品
[編集]- 小説
- テレビドラマ