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「藍朝鼎」の版間の差分

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'''藍 朝鼎'''(らん ちょうてい、''Lan Zhaoding''、? - [[1861年]])は、[[清]]末の[[順天 (李永和)|順天]]軍の蜂起の指導者。'''藍二順'''ともいう。
'''藍 朝鼎'''(らん ちょうてい、''Lan Zhaoding''、? - [[1861年]])は、[[清]]末の[[順天 (李永和)|順天]]軍の蜂起の指導者。'''藍二順'''ともいう。


[[雲南省]][[大関県|大関]]出身。貧しい労働者であったが、[[1859年]]に[[李永和]]と兄弟の[[藍朝柱]]とともに「不交租・不納糧」「打富済貧」をスローガンに蜂起して、「大元帥」を称した。順天軍は[[四川省]]に入り、[[宜賓市|叙州]]を包囲した後、[[犍為県|犍為]]・[[楽山市|楽山]]を占領した。犍為・楽山は製塩業が盛んであったが、塩工たちが順天軍に参加して軍勢はたちまち10数万人に膨れ上がった。[[1860年]]の段階で順天軍の活動範囲は40余りの州県に及んだ。李永和と藍朝鼎・藍朝柱は兵力を分け、李永和が犍為・楽山一帯を守り、藍朝鼎・藍朝柱は北上して[[成都市|成都]]付近の州県を攻略していき、[[1861年]]5月より[[綿陽市|綿州]]を包囲した。しかし4カ月たっても攻略することができず、[[四川総督]][[駱秉章]]が反撃を開始した。藍朝鼎軍は壊滅し、[[丹ロウ県|丹棱]]に撤退したが、包囲され、突破しようとしたところで戦死した。
[[雲南省]][[大関県|大関]]出身。貧しい労働者であったが、[[1859年]]に[[李永和]]と兄弟の[[藍朝柱]]とともに「不交租・不納糧」「打富済貧」をスローガンに蜂起して、「大元帥」を称した。順天軍は[[四川省]]に入り、[[宜賓市|叙州]]を包囲した後、[[犍為県|犍為]]・[[楽山市|楽山]]を占領した。犍為・楽山は製塩業が盛んであったが、塩工たちが順天軍に参加して軍勢はたちまち10数万人に膨れ上がった。[[1860年]]の段階で順天軍の活動範囲は40余りの州県に及んだ。李永和と藍朝鼎・藍朝柱は兵力を分け、李永和が犍為・楽山一帯を守り、藍朝鼎・藍朝柱は北上して[[成都市|成都]]付近の州県を攻略していき、[[1861年]]5月より[[綿陽市|綿州]]を包囲した。しかし4カ月たっても攻略することができず、[[四川総督]][[駱秉章]]が反撃を開始した。藍朝鼎軍は壊滅し、[[丹県|丹棱]]に撤退したが、包囲され、突破しようとしたところで戦死した。


==参考文献==
==参考文献==

2020年9月18日 (金) 21:57時点における最新版

藍 朝鼎(らん ちょうてい、Lan Zhaoding、? - 1861年)は、末の順天軍の蜂起の指導者。藍二順ともいう。

雲南省大関出身。貧しい労働者であったが、1859年李永和と兄弟の藍朝柱とともに「不交租・不納糧」「打富済貧」をスローガンに蜂起して、「大元帥」を称した。順天軍は四川省に入り、叙州を包囲した後、犍為楽山を占領した。犍為・楽山は製塩業が盛んであったが、塩工たちが順天軍に参加して軍勢はたちまち10数万人に膨れ上がった。1860年の段階で順天軍の活動範囲は40余りの州県に及んだ。李永和と藍朝鼎・藍朝柱は兵力を分け、李永和が犍為・楽山一帯を守り、藍朝鼎・藍朝柱は北上して成都付近の州県を攻略していき、1861年5月より綿州を包囲した。しかし4カ月たっても攻略することができず、四川総督駱秉章が反撃を開始した。藍朝鼎軍は壊滅し、丹棱に撤退したが、包囲され、突破しようとしたところで戦死した。

参考文献

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  • 郭穀生・史式編『太平天国大辞典』中国社会科学出版社
  • 『中国歴史大辞典・清史(下)』上海辞書出版社