「ガイウス・アウレリウス・コッタ (紀元前252年の執政官)」の版間の差分
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2020年9月17日 (木) 08:07時点における版
ガイウス・アウレリウス・コッタ C. Aurelius L.f. C.n. Cotta | |
---|---|
出生 | 不明 |
死没 | 不明 |
出身階級 | プレブス |
氏族 | アウレリウス氏族 |
官職 |
執政官(紀元前252年、紀元前248年) 監察官(紀元前241年) |
ガイウス・アウレリウス・コッタ(Gaius Aurelius Cotta)は共和政ローマのプレブス(平民)出身の政治家・軍人。紀元前252年と紀元前248年に執政官(コンスル)を務め、第一次ポエニ戦争で軍の指揮を執った。紀元前241年には監察官(ケンソル)に就任している。
経歴
ガイウス・アウレリウス・コッタはプレブスであるアウレリウス氏族の出身であり、カピトリヌスのファスティよると、父のプラエノーメン(第一名、個人名)はルキウス、祖父はガイウスである[1]。
コッタに関する最初の記録は、紀元前252年に執政官に就任した時点である。同僚執政官はパトリキのプブリウス・セルウィリウス・ゲミヌスであった[2]。この頃は第一次ポエニ戦争の最中であり、両執政官は共同して海軍の作戦の指揮を執ることとなった。コッタは軍を率いてシケリア(シチリア)での作戦に従事した。コッタはシケリア北岸のカルタゴ最後の拠点であったテルマエ・ヒメレンシスを占領し[3]、続いてエオリア諸島のリーパリに上陸、これを包囲した。その直後にコッタは、鳥占いのためにメッセナ(現在のメッシーナ)戻る必要ができ、軍を親戚のトリブヌス・ミリトゥム(高級士官)であるプブリウス・アウレリウス・ペクニオラに委ねてリーパリを離れた。しかし、コッタの留守中にローマ軍野営地は焼き討ちにあい、ローマ軍全体が捕虜となる寸前となってしまった。コッタはペクニオラを鞭打ち刑に処し、さらに一兵士に降格させた[4][5]。その後すぐにリーパリは陥落した。その年のうちにコッタはローマに帰還し、凱旋式を実施した[6]。
紀元前248年に二度目の執政官に就任。今回の同僚執政官も前回と同じゲミヌスであった[7]。また翌年の執政官の一人はルキウス・カエキリウス・メテッルスであった。E. Badianはアウレリウス氏族、セルウィリウス氏族、カエキリウス・メテッルス家の強い結びつきを示唆している。この関係は紀元前2世紀の終わりまで継続した[8]。
第一次ポエニ戦争は続いており、両執政官はシケリアでの作戦を実施したが、大きな成果は得られなかった。両国共に長引く戦争に疲弊しており、軍事行動も緩慢になっていた。カルタゴはリリュバイウム(現在のマルサーラ)とドレパナ(現在のトラパーニ)から動かず、コッタもゲミヌスもこれを攻略できなかった[9]。
紀元前241年、コッタは監察官(ケンソル)に就任。位は執政官の方が上であるが、当時の慣習で監察官に就任できるのは執政官経験者であったため、実質的にはこれがコッタの最高職となった。同僚監察官はパトリキ出身のマルクス・ファビウス・ブテオであった[10]。センサス(人口調査)では、ローマの人口(市民権を有する成人男子のみ)は、260,000[11]または250,000[12]とされている。
コッタに関する最後の記録は紀元前231年のものである。この年に独裁官(ディクタトル)ガイウス・ドゥイリウスのマギステル・エクィトゥム(副官)に就任しているが、戦争のためではなく選挙の管理のためであった[9][13]。
E. Badianによると、コッタには二人の息子があったと推定している。紀元前216年のレガトゥスであったガイウス・アウレリウス・コッタ、同年の按察官(アエディリス)を務めたマルクス・アウレリウス・コッタである。紀元前200年の執政官ガイウス・アウレリウス・コッタは孫にあたる[14]。
脚注
- ^ カピトリヌスのファスティ
- ^ Broughton R., 1951 , p. 212.
- ^ Rodionov E., 2005, p. 112.
- ^ ウァレリウス・マクシムス、II, 4, 7.
- ^ フロンティヌス、IV, 1, 31.
- ^ Clebs E. "Aurelius" 94, 1896 , s. 2481.
- ^ Broughton R., 1951, p. 215.
- ^ Bédian E., 2010 , p. 167-168.
- ^ a b Clebs E. "Aurelius" 94, 1896, s. 2482.
- ^ Broughton R., 1951, p. 219.
- ^ エウセビオス『年代記』、Arm. sub Ol.134.3
- ^ ヒエロニムス『年代記』、sub Ol.134.1
- ^ Broughton R., 1951 , p. 226.
- ^ Bédian E., 2010 , p. 169.
参考資料
古代の資料
- ウァレリウス・マクシムス"Factorum ac Dictorum Memorabilium libri IX"
- セクストゥス・ユリウス・フロンティヌス『戦略書』
- エウセビオス『年代記』
- ヒエロニムス『年代記』
- カピトリヌスのファスティ
研究書
- Bédian E. Cepion and Norban (notes on the decade of 100-90 BC) // Studia Historica. - 2010. - number X . - P. 162-207 .
- Egorov A. Julius Caesar. Political biography. - St. Petersburg. : Nestor-History, 2014. - 548 p. - ISBN 978-5-4469-0389-4 .
- Rodionov E. Punic Wars. - St. Petersburg. : SPbGU, 2005. - 626 p. - ISBN 5-288-03650-0 .
- Broughton R. Magistrates of the Roman Republic. - New York, 1951. - Vol. I. - P. 600.
- Clebs E. Aurelius 94 // RE. - 1896. - T. II, 2 . - С. 2481-2482 .