ガイウス・センプロニウス・ブラエスス
ガイウス・センプロニウス・ブラエスス C. Sempronius Ti.f. Ti.n. Blaesus | |
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出生 | 不明 |
死没 | 不明 |
出身階級 | プレブス |
氏族 | センプロニウス氏族 |
官職 | 執政官(紀元前253年、紀元前244年) |
ガイウス・センプロニウス・ブラエスス(Gaius Sempronius Blaesus)は共和政ローマのプレブス(平民)出身の政治家・軍人。紀元前253年と紀元前244年に執政官(コンスル)を務めた。第一次ポエニ戦争では、陸戦、海戦双方の指揮を執った。
出自
[編集]センプロニウス氏族はパトリキ(貴族)系とプレブス系の双方があるが、ガイウス・センプロニウス・ブラエススはプレブス系である。プレブス系センプロニウス氏族は紀元前304年のプブリウス・センプロニウス・ソプス以降、多くの執政官を出している[1]。カピトリヌスのファスティによれば、父のプラエノーメン(第一名、個人名)ティベリウス、祖父もティベリウスである[2]。ブラエススはもともと彼自身のあだ名であったが、その子孫はコグノーメン(第三名、家族名)としてブラエススを名乗るようになった[3]。
いくつかの資料では、ブラエススには二人の息子があったとされている。一人は紀元前211年の護民官と紀元前210年のレガトゥス(高級幕僚)を務めたガイウス・センプロニウス[4]、もう一人は紀元前217年の会計官(クァエストル)を務めたティベリウス・センプロニウスである [5]。
経歴
[編集]ブラエススに関する最初の記録は、紀元前253年に執政官に就任した時点である。同僚執政官はパトリキのグナエウス・セルウィリウス・カエピオであった。この頃は第一次ポエニ戦争の最中であり、両執政官は共同して海軍の作戦の指揮を執ることとなった。シケリア(シチリア)西岸のリルバイウム(現在のマルサーラ)付近での作戦は成功しなかったが、両執政官は260隻からなる艦隊を率いてアフリカ沿岸を襲撃した。ポリュビオスは、彼らは「何度も上陸は行ったが、大きな戦果はあげられなかった」[6]とするが、他方オロシウスによれば、「海岸沿い全体を荒廃させ、占領・略奪した都市から多くの戦利品を持ち帰った」とされている[7]。艦隊は帰途中に嵐に遭遇し、積載物を全て投棄しなければならなかった[6]が、この処置のおかげで、無事にパノルムス(現在のパレルモ)に帰還することができた。しかし、イタリア沿岸のティレニア海で再び嵐に遭遇し、合計で150隻が失われてしまった[8]。オロシウスは、この海難の場所をルカニアのパルヌロ岬沖であるとしている[9]。この損失のために、ローマはしばらくの間海戦を行うことができなくなった。とはいえブラエススは凱旋式を実施している[8]。
紀元前244年に二度目の執政官に就任。今回の同僚執政官はパトリキのアウルス・マンリウス・トルクァトゥス・アッティクスであった。両執政官は共同して、シケリアのパノルムス付近で、カルタゴの将軍ハミルカル・バルカ(ハンニバルの父)に対する作戦を行った。この作戦に関する詳細は不明であるが、おおむね連日の小競り合いに終始し、決定的な会戦は発生しなかった[10]。両軍共に消耗戦を戦うこととなったが、結果としてはローマにとって成功であったと考えられている[11]。
脚注
[編集]- ^ Münzer F. "Sempronius" 1923, s. 1360.
- ^ カピトリヌスのファスティ
- ^ Münzer F. "Sempronius" 1923, s. 1368-1369.
- ^ Münzer F. "Sempronius" 29, 1923, s. 1369.
- ^ Münzer F. "Sempronius" 32, 1923, s. 1369.
- ^ a b ポリュビオス、I, 39.
- ^ オロシウス、IV, 9, 10.
- ^ a b Münzer F. "Sempronius" 28, 1923 , s. 1368.
- ^ オロシウス、 IV, 9, 11.
- ^ ポリュビオス、I, 56-57.
- ^ Rodionov E., 2005 , p. 126.
参考資料
[編集]古代の資料
[編集]研究書
[編集]- Rodionov E. Punic Wars. - St. Petersburg. : SPbGU, 2005. - 626 p. - ISBN 5-288-03650-0 .
- Broughton R. Magistrates of the Roman Republic. - New York, 1951. - Vol. I. - P. 600.
- Münzer F. Sempronius // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - 1923. - Bd. II, 2.-S. 1359-1360.
- Münzer F. Sempronius 28 // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - 1923. - Bd. II, 2.-S. 1368-1369.
- Münzer F. Sempronius 29 // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - 1923. - Bd. II, 2.-S. 1369.
- Münzer F. Sempronius 32 // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - 1923. - Bd. II, 2.-S. 1369.