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「ルキウス・ユニウス・プッルス」の版間の差分

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==経歴==
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同僚執政官は[[プブリウス・クラウディウス・プルケル]]であったが、紀元前249年にプルケルは[[ドレパナ沖の海戦]]で[[カルタゴ]]海軍に敗北し、その艦隊のほとんどを失ってしまった。このためプルケルはローマに呼び戻され、その失敗に対して罰金刑を科された。しばらく後にはプッルスが率いていた艦隊も、嵐とカルタゴの嫌がらせ攻撃により壊滅してしまった。前年から[[ガイウス・アティリウス・レグルス・セッラヌス]]と[[ルキウス・マンリウス・ウルソ・ロングス]]がシケリア([[シチリア]])に残されたカルタゴ軍根拠地であるリルバイウム(現在の[[マルサーラ]])を包囲していたが、ローマ海軍の敗北により包囲を解いて撤退せざるを得なくなった。
同僚執政官は[[プブリウス・クラウディウス・プルケル (紀元前249年の執政官)|プブリウス・クラウディウス・プルケル]]であったが、紀元前249年にプルケルは[[ドレパナ沖の海戦]]で[[カルタゴ]]海軍に敗北し、その艦隊のほとんどを失ってしまった。このためプルケルはローマに呼び戻され、その失敗に対して罰金刑を科された。しばらく後にはプッルスが率いていた艦隊も、嵐とカルタゴの嫌がらせ攻撃により壊滅してしまった。前年から[[ガイウス・アティリウス・レグルス・セッラヌス]]と[[ルキウス・マンリウス・ウルソ・ロングス]]がシケリア([[シチリア]])に残されたカルタゴ軍根拠地であるリルバイウム(現在の[[マルサーラ]])を包囲していたが、ローマ海軍の敗北により包囲を解いて撤退せざるを得なくなった。


艦隊を失ったことによりプッルスは消沈し、ローマに戻ってプルケルのような恥を受けることを望まず、自ら命を絶った<ref>[[:en:Polybius|Polybius]] i. 52-55; [[:en:Diodorus Siculus|Diodorus Siculus]] Frag. XXIV. 1</ref><ref>[[:en:Eutropius (historian)|Eutropius]] ii. 15. S. 26, [[:en:Orosius|Orosius]] iv. 10</ref><ref>[[:en:Valerius Maximus|Valerius Maximus]] I. 4. § 3</ref><ref>[[:en:Cicero|Cicero]] ''de Div''. i. 16, ii. 8, 33, ''de Nat. Deor''. ii. 3</ref><ref>[[:en:Censorinus|Censorinus]] ''Die Nat''. 17.</ref>。
艦隊を失ったことによりプッルスは消沈し、ローマに戻ってプルケルのような恥を受けることを望まず、自ら命を絶った<ref>[[:en:Polybius|Polybius]] i. 52-55; [[:en:Diodorus Siculus|Diodorus Siculus]] Frag. XXIV. 1</ref><ref>[[:en:Eutropius (historian)|Eutropius]] ii. 15. S. 26, [[:en:Orosius|Orosius]] iv. 10</ref><ref>[[:en:Valerius Maximus|Valerius Maximus]] I. 4. § 3</ref><ref>[[:en:Cicero|Cicero]] ''de Div''. i. 16, ii. 8, 33, ''de Nat. Deor''. ii. 3</ref><ref>[[:en:Censorinus|Censorinus]] ''Die Nat''. 17.</ref>。
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2020年9月17日 (木) 08:07時点における版


ルキウス・ユニウス・プッルス
L. Junius C.f. L.n. Pullus
出生 不明
死没 紀元前249年または紀元前248年
出身階級 プレブス
氏族 ユニウス氏族
官職 執政官(紀元前249年)
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ルキウス・ユニウス・プッルス(Lucius Junius Pullus、紀元前249年または紀元前248年没)は共和政ローマ中期の政治家、将軍である。紀元前249年執政官(コンスル)に選出され、第一次ポエニ戦争を戦った。

経歴

同僚執政官はプブリウス・クラウディウス・プルケルであったが、紀元前249年にプルケルはドレパナ沖の海戦カルタゴ海軍に敗北し、その艦隊のほとんどを失ってしまった。このためプルケルはローマに呼び戻され、その失敗に対して罰金刑を科された。しばらく後にはプッルスが率いていた艦隊も、嵐とカルタゴの嫌がらせ攻撃により壊滅してしまった。前年からガイウス・アティリウス・レグルス・セッラヌスルキウス・マンリウス・ウルソ・ロングスがシケリア(シチリア)に残されたカルタゴ軍根拠地であるリルバイウム(現在のマルサーラ)を包囲していたが、ローマ海軍の敗北により包囲を解いて撤退せざるを得なくなった。

艦隊を失ったことによりプッルスは消沈し、ローマに戻ってプルケルのような恥を受けることを望まず、自ら命を絶った[1][2][3][4][5]

参考資料

  1. ^ Polybius i. 52-55; Diodorus Siculus Frag. XXIV. 1
  2. ^ Eutropius ii. 15. S. 26, Orosius iv. 10
  3. ^ Valerius Maximus I. 4. § 3
  4. ^ Cicero de Div. i. 16, ii. 8, 33, de Nat. Deor. ii. 3
  5. ^ Censorinus Die Nat. 17.

関連項目


公職
先代
ガイウス・アティリウス・レグルス・セッラヌス
ルキウス・マンリウス・ウルソ・ロングス
ローマ執政官(コンスル)
紀元前249年
同僚
プブリウス・クラウディウス・プルケル
次代
ガイウス・アウレリウス・コッタ
プブリウス・セルウィリウス・ゲミヌス