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'''過 之綱'''(か しこう)は[[中華民国]]の軍人。[[北京政府]]、[[国民軍 (中華民国)|国民軍]]、[[国民政府]]([[国民革命軍]])に属した。[[馮玉祥]]配下の「'''十三太保'''」<ref>過之綱に加え、[[孫良誠]]、[[韓復榘]]、[[石友三]]、[[張維璽]]、[[劉汝明]]、[[聞承烈]]、[[佟麟閣]]、[[孫連仲]]、[[韓多峰]]、[[程希賢]]、[[葛金章]]、[[趙席聘]]の13人を指す。</ref>の1人としても知られる。[[字]]は'''羨五'''。 |
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中華民国が成立した[[1912年]]([[民国紀元|民国]]元年)より、馮玉祥の兵営に入隊し、軍歴を開始する。以後、馮率いる第16混成旅で昇進を重ねた。[[1917年]](民国6年)、一時失脚していた馮の復帰を他の軍官と共に支持し、[[張勲 (清末民初)|張勲]]討伐に従事している。[[1924年]](民国13年)2月、陸軍第11師歩兵第22旅第44団団長に昇進する。同年9月、陸軍少将に昇進した。翌[[1925年]](民国14年)3月、暫編陸軍第1師歩兵第2旅旅長となり、7月には陸軍中将に昇進している。[[1926年]](民国15年)、護路司令となり、その翌年には国民革命軍第2集団軍軍官教導団団長に任ぜられた。<ref name=Xu>徐主編(2007)、1668頁。</ref><ref name=Liu>劉主編(2005)、594頁。</ref> |
中華民国が成立した[[1912年]]([[民国紀元|民国]]元年)より、馮玉祥の兵営に入隊し、軍歴を開始する。以後、馮率いる第16混成旅で昇進を重ねた。[[1917年]](民国6年)、一時失脚していた馮の復帰を他の軍官と共に支持し、[[張勲 (清末民初)|張勲]]討伐に従事している。[[1924年]](民国13年)2月、陸軍第11師歩兵第22旅第44団団長に昇進する。同年9月、陸軍少将に昇進した。翌[[1925年]](民国14年)3月、暫編陸軍第1師歩兵第2旅旅長となり、7月には陸軍中将に昇進している。[[1926年]](民国15年)、護路司令となり、その翌年には国民革命軍第2集団軍軍官教導団団長に任ぜられた。<ref name=Xu>徐主編(2007)、1668頁。</ref><ref name=Liu>劉主編(2005)、594頁。</ref> |
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[[北伐 (中国国民党)|北伐]]終了後の[[1928年]](民国17年)8月、[[国防大学 (中華民国)|陸軍大学]]特別班第1期で学ぶ。翌年10月、国民革命軍第15軍軍長となる。その後、馮玉祥に従って反[[蔣介石]]戦争に加わり、[[中原大戦]]などを戦う。しかし、馮敗北後の国民革命軍再編によりポストを喪失し、過之綱は失意の余り[[北京市|北平]]に引退した。後に陸軍大学に復学し、[[1931年]](民国20年)10月に卒業したが、冷遇は変わらなかった。[[韓復 |
[[北伐 (中国国民党)|北伐]]終了後の[[1928年]](民国17年)8月、[[国防大学 (中華民国)|陸軍大学]]特別班第1期で学ぶ。翌年10月、国民革命軍第15軍軍長となる。その後、馮玉祥に従って反[[蔣介石]]戦争に加わり、[[中原大戦]]などを戦う。しかし、馮敗北後の国民革命軍再編によりポストを喪失し、過之綱は失意の余り[[北京市|北平]]に引退した。後に陸軍大学に復学し、[[1931年]](民国20年)10月に卒業したが、冷遇は変わらなかった。[[韓復榘]]により一時は[[山東省 (中華民国)|山東省]]政府顧問に招聘されたものの、結局[[1937年]](民国26年)以降は[[天津市|天津]]や北平に隠居している。[[1957年]]3月、病没。享年68。<ref name=Xu/><ref name=Liu/> |
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== 注 == |
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2020年9月15日 (火) 21:44時点における版
過之綱 | |
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プロフィール | |
出生: | 1890年(清光緒15年) |
死去: | 1957年3月 |
出身地: | 清安徽省潁州府蒙城県 |
各種表記 | |
繁体字: | 過之綱 |
簡体字: | 过之纲 |
拼音: | Guò Zhīgāng |
ラテン字: | Kuo Chi-kang |
和名表記: | か しこう |
発音転記: | グオ ヂーガン |
過 之綱(か しこう)は中華民国の軍人。北京政府、国民軍、国民政府(国民革命軍)に属した。馮玉祥配下の「十三太保」[1]の1人としても知られる。字は羨五。
事績
中華民国が成立した1912年(民国元年)より、馮玉祥の兵営に入隊し、軍歴を開始する。以後、馮率いる第16混成旅で昇進を重ねた。1917年(民国6年)、一時失脚していた馮の復帰を他の軍官と共に支持し、張勲討伐に従事している。1924年(民国13年)2月、陸軍第11師歩兵第22旅第44団団長に昇進する。同年9月、陸軍少将に昇進した。翌1925年(民国14年)3月、暫編陸軍第1師歩兵第2旅旅長となり、7月には陸軍中将に昇進している。1926年(民国15年)、護路司令となり、その翌年には国民革命軍第2集団軍軍官教導団団長に任ぜられた。[2][3]
北伐終了後の1928年(民国17年)8月、陸軍大学特別班第1期で学ぶ。翌年10月、国民革命軍第15軍軍長となる。その後、馮玉祥に従って反蔣介石戦争に加わり、中原大戦などを戦う。しかし、馮敗北後の国民革命軍再編によりポストを喪失し、過之綱は失意の余り北平に引退した。後に陸軍大学に復学し、1931年(民国20年)10月に卒業したが、冷遇は変わらなかった。韓復榘により一時は山東省政府顧問に招聘されたものの、結局1937年(民国26年)以降は天津や北平に隠居している。1957年3月、病没。享年68。[2][3]
注
参考文献
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。