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[[1832年]]、[[進士]]となり、[[庶吉士]]に選ばれ、編修の職を授かった。[[1841年]]、[[山西省]]の[[臨汾市|平陽]]知府となった。その後、冀寧道,広西按察使と昇進していった。[[1849年]]、湖北按察使となったが、就任前に[[湖南省]]で[[天地会]]の[[李ゲン発|李沅発]]の反乱が発生し、[[広西省]]に留まって防衛にあたった。 |
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[[1850年]]、広西布政使となった。[[1851年]]、[[太平天国の乱]]が発生すると、[[欽差大臣]][[サイシャンガ]](賽尚阿)の補佐にあたり、広西巡撫に昇進した。その後、[[陳開]]・[[李文茂]]ら天地会が[[桂平市|潯州]]などを占拠して[[大成国]]を建てると、湖南巡撫の[[駱秉章]]から[[蔣益澧|蔣益澧]]率いる[[湘軍]]を派遣してもらい、しばしば大成国軍を打ち破った。[[1859年]]、広東巡撫となり、[[両広総督]]を兼ねた。[[1861年]]には潯州に総攻撃をかけ、大成国を滅亡させた。 |
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[[1863年]]、[[雲貴総督]]となり、[[岑毓英]]・[[馬如龍]]らとともに[[雲南省]]の[[パンゼーの乱]]と[[貴州省]]の[[張秀眉]]率いる[[ミャオ族]]の反乱に対処した。1867年、在職のまま死去。太子太保と文毅の[[諡号]]が贈られた。 |
2020年9月15日 (火) 15:50時点における版
労 崇光(ろう すうこう、Lao Chongguang、1802年 - 1867年)は、清の官僚。字は辛陔。湖南省善化県出身。
1832年、進士となり、庶吉士に選ばれ、編修の職を授かった。1841年、山西省の平陽知府となった。その後、冀寧道,広西按察使と昇進していった。1849年、湖北按察使となったが、就任前に湖南省で天地会の李沅発の反乱が発生し、広西省に留まって防衛にあたった。
1850年、広西布政使となった。1851年、太平天国の乱が発生すると、欽差大臣サイシャンガ(賽尚阿)の補佐にあたり、広西巡撫に昇進した。その後、陳開・李文茂ら天地会が潯州などを占拠して大成国を建てると、湖南巡撫の駱秉章から蔣益澧率いる湘軍を派遣してもらい、しばしば大成国軍を打ち破った。1859年、広東巡撫となり、両広総督を兼ねた。1861年には潯州に総攻撃をかけ、大成国を滅亡させた。
1863年、雲貴総督となり、岑毓英・馬如龍らとともに雲南省のパンゼーの乱と貴州省の張秀眉率いるミャオ族の反乱に対処した。1867年、在職のまま死去。太子太保と文毅の諡号が贈られた。
出典
- 『清史稿』巻393・列伝180
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