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'''羅 沢南'''(ら たくなん、''Luo Zenan''、[[1807年]] - [[1856年]])は、[[清]]の[[朱子学]]者、[[湘軍]]の指揮官の一人。字は'''仲岳'''、号は'''羅山'''。[[湖南省]][[湘郷市|湘郷県]](現在の[[婁底市]][[双峰県]]石牛郷<ref>[http://www.ldnews.cn/qingchunloudi/rw/201111/92175.shtml 婁底新聞网 羅澤南]</ref>)出身。 |
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[[挙人]]出身で、兵書・[[春秋左氏伝]]・[[易経]]の研究を好んだ。[[左宗棠]]・[[李続賓]]・[[李続宜]]・[[蔣益澧|蔣益澧]]はみな門下生である。 |
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[[1853年]]、[[曽国藩]]と共同で湘軍を創設し、湘軍のうち3万数千人を統率した。これは曽国藩の率いる12万の主力に次ぐものであった。その後、湖南省・[[江西省]]・[[湖北省]]を転戦し、[[武漢市|武漢]]での戦いで功績を上げるなどして、浙江按察使・浙江布政使に至った。兵の訓練の時には易経を講義したので「儒将」と称された。 |
[[1853年]]、[[曽国藩]]と共同で湘軍を創設し、湘軍のうち3万数千人を統率した。これは曽国藩の率いる12万の主力に次ぐものであった。その後、湖南省・[[江西省]]・[[湖北省]]を転戦し、[[武漢市|武漢]]での戦いで功績を上げるなどして、浙江按察使・浙江布政使に至った。兵の訓練の時には易経を講義したので「儒将」と称された。 |
2020年9月15日 (火) 15:50時点における版
羅 沢南(ら たくなん、Luo Zenan、1807年 - 1856年)は、清の朱子学者、湘軍の指揮官の一人。字は仲岳、号は羅山。湖南省湘郷県(現在の婁底市双峰県石牛郷[1])出身。
挙人出身で、兵書・春秋左氏伝・易経の研究を好んだ。左宗棠・李続賓・李続宜・蔣益澧はみな門下生である。
1853年、曽国藩と共同で湘軍を創設し、湘軍のうち3万数千人を統率した。これは曽国藩の率いる12万の主力に次ぐものであった。その後、湖南省・江西省・湖北省を転戦し、武漢での戦いで功績を上げるなどして、浙江按察使・浙江布政使に至った。兵の訓練の時には易経を講義したので「儒将」と称された。
1856年の「第三次武漢争奪戦」で、太平天国軍の守将の韋俊に敗北し、羅沢南の部隊は武昌郊外で散り散りになった。霧の中で羅沢南は被弾し、数日後に死亡した。曽国藩はひざまずいて号泣し、全軍に喪に服すよう命じた。