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2020年9月15日 (火) 15:40時点における版
兪大維 | |
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プロフィール | |
出生: |
1898年1月10日 (清光緒23年12月18日) |
死去: |
1993年(民国82年)7月8日 台湾台北市 |
出身地: | 清浙江省紹興府山陰県 |
職業: | 政治家・軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 俞大維 |
簡体字: | 俞大维 |
拼音: | Yú Dàwéií |
ラテン字: | Yü Ta-wei |
和名表記: | ゆ だいい |
発音転記: | ユー ダーウェイ |
事跡
私立上海聖ヨハネ大学を卒業して文学士の学位を取得した。後にアメリカに留学してハーバード大学で哲学博士号を取得し、さらにドイツに移ってベルリン大学で研究を続けている。帰国後は国立中山大学教授、国立中央研究院歴史語言研究所専任研究員を歴任した。
1929年(民国18年)8月、兪大維は国民政府軍政部少将参事に起用され、参謀本部主任秘書、駐ドイツ大使館商務専員を歴任する。駐ドイツ大使館では兵器・軍需物資購入の任にあたった。1933年(民国22年)1月、軍政部兵工署署長に任ぜられる。1937年(民国26年)、軍事委員会作戦部副部長を兼任し、日中戦争(抗日戦争)でも軍需物資調達の任務を担当し続けた。1943年(民国32年)7月、三民主義青年団第1期中央評論議員として招聘される。その翌年12月には、軍政部常務次長に昇進した。
戦後の1946年(民国35年)2月、兪大維は陸軍中将位を授与された。同年5月、交通部長に起用され、6月には全国経済委員会委員も兼任している。以後、行政院綏靖区政務委員会委員、国防部科学委員会委員、行政院政務委員会委員なども兼任した。1949年(民国38年)3月、交通部長を退き、東南軍政長官公署政務委員会副主任委員に転じたが、国共内戦最終盤の同年11月にアメリカへ逃れている。
1950年(民国39年)3月、兪大維は国防部長にいったん任命されたが、実際には就任しなかった。翌1951年(民国40年)5月、美援会副主任兼駐米大使特別助理に任ぜられる。台湾に戻った後の1954年(民国43年)5月、国防部長に正式に就任した。以後、1965年(民国54年)1月まで10年余りこの地位に在り、その間の1958年(民国47年)には金門砲戦(金門島事件)に対処している。1962年(民国51年)12月から1971年(民国60年)5月まで行政院政務委員を務めた。また、1966年(民国55年)には総統府国策顧問に任ぜられ、1976年(民国65年)には総統府資政に移っている。
1993年(民国82年)2月、仏門に入り、法号は浄維とした。同年7月8日、台北市にて死去。享年96(満95歳)。
参考文献
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
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