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県で発生した殺人事件について、偽りの自白をした者がいたが、胡質は嘘を見抜いて厳しく吟味し、事実を明らかにして刑に服させた。その後、丞相東曹議令史となり中央に呼ばれたが、州の要請により治中として留まった。 |
県で発生した殺人事件について、偽りの自白をした者がいたが、胡質は嘘を見抜いて厳しく吟味し、事実を明らかにして刑に服させた。その後、丞相東曹議令史となり中央に呼ばれたが、州の要請により治中として留まった。 |
2020年9月15日 (火) 15:29時点における版
胡 質(こ しつ、? - 250年)は、中国三国時代の武将、政治家。魏に仕えた。字は文徳。父は胡敏(胡通達)。子は胡威・胡羆。孫は胡奕。『三国志』魏志に伝がある。
概要
揚州の名士として蔣済・朱績(呉の朱績とは別人の可能性もある)と並んで名を馳せていた。父は徳の高い人物として知られていたという。蔣済が曹操に仕え揚州の別駕に任命されたとき、曹操は父胡敏の子孫について蔣済に尋ねて胡質のことを知り、即座に頓丘県令に登用した。そのときに蔣済から「父に品行と智謀の面では及ばないが、事務処理の精密さの面においては長けている」と評価された。
県で発生した殺人事件について、偽りの自白をした者がいたが、胡質は嘘を見抜いて厳しく吟味し、事実を明らかにして刑に服させた。その後、丞相東曹議令史となり中央に呼ばれたが、州の要請により治中として留まった。
当時の刺史は温恢であった。また近隣に張遼が駐屯していたが、張遼は武周と仲違いを起こしていた。あるとき張遼は胡質の評判を聞き、部下にしたいと温恢に申し出たことがあった。しかし胡質が病気を理由にそれを断ると、張遼はわざわざその理由を尋ねるために胡質の元へやって来た。このため胡質は張遼に「武伯南(武周)は正しい人物です。張遼殿は昔、武周を尊敬しておられましたが、今は仲違いされております。ましてや私のような拙い者では、張遼殿と上手く付き合えないと思うのです。」と答えた。これを聞いた張遼は感心し、武周との仲違いを解消したと伝わる。
再び曹操に召され、丞相属となった。黄初年間には吏部郎となり、地方に出て常山太守・東莞太守となった。再び殺人事件を解決する一方で軍功も積んだが、褒美は人々に分け与えたため家に余財が残らなかった。郡での務めは九年間に及んだ。228年、呉侵攻では賈逵に従い満寵と共に監軍として参加したが、揚州方面から侵攻した曹休が呉領深く侵攻し大敗したため、失敗した(魏志「賈逵伝」)(石亭の戦い)。
その後、荊州刺史になり、振威将軍・関内侯となった。237年、柤中に侵攻した呉の朱然を蒲忠と共に迎撃したが、朱然の果敢な戦略や奮闘で前方の蒲忠が退却してしまったため、後方にいた胡質も退却した(魏志「明帝紀」・呉志「朱然伝」)。241年、朱然が2万の兵を率いて樊城に侵攻して来たが、周囲の反対を押し切り軽装の軍を率いて救援し、城内を安んじると司馬懿が到着する前に、朱然が樊城から撤退した。(芍陂の役)(魏志「明帝紀)。
のちに征東将軍・仮節都督青徐諸軍事となり、農業と防備の充実に力を注いだ。
250年に死去。家には余財が残らなかったため、楊陵亭侯に昇進させられた上で領地を百戸与えられた。貞侯と諡され、子が跡を継いだ。
254年、同じく故人となっていた徐邈・田豫らと共に清廉さを顕彰され、家に銭と穀物が与えられている。
小説『三国志演義』では、石亭の戦いで曹休を援護するときの出陣場面のみが描かれている。