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武漢と南昌の攻略後の1927年春、ソ連へ航空機と器材の購入のため[[陳済棠]]を領隊とする購機委員会に[[陳卓林]]、[[黄光鋭]]らと共に参加{{Sfn|馬|1994|p=390}}<ref name=Guangdong/>。しかし、7月に[[寧漢分裂]]が起こり、南京・武漢両政府が共産党を排除したため、航空機の購買交渉は白紙となった<ref name=Guangzhou_airforce>{{Cite web |url = http://www.gzzxws.gov.cn/gzws/gzws/fl/js/200809/t20080917_8916.htm |title = 回忆广东空军 |publisher = 广州文史 |author=陈晋;刘锦涛;郭玉麟等 |language = 中国語 |accessdate = 2020-04-03 }}</ref>。同年冬に帰国し、翌1928年1月に広東航空処長に就任{{Sfn|馬|1994|p=612}}。しかし、航空機購入の際に収賄を行ったとの嫌疑で更迭される<ref name=Guangdong/>。後任には{{仮リンク|張恵長|zh|张惠长}}が就いた。
武漢と南昌の攻略後の1927年春、ソ連へ航空機と器材の購入のため[[陳済棠]]を領隊とする購機委員会に[[陳卓林]]、[[黄光鋭]]らと共に参加{{Sfn|馬|1994|p=390}}<ref name=Guangdong/>。しかし、7月に[[寧漢分裂]]が起こり、南京・武漢両政府が共産党を排除したため、航空機の購買交渉は白紙となった<ref name=Guangzhou_airforce>{{Cite web |url = http://www.gzzxws.gov.cn/gzws/gzws/fl/js/200809/t20080917_8916.htm |title = 回忆广东空军 |publisher = 广州文史 |author=陈晋;刘锦涛;郭玉麟等 |language = 中国語 |accessdate = 2020-04-03 }}</ref>。同年冬に帰国し、翌1928年1月に広東航空処長に就任{{Sfn|馬|1994|p=612}}。しかし、航空機購入の際に収賄を行ったとの嫌疑で更迭される<ref name=Guangdong/>。後任には{{仮リンク|張恵長|zh|张惠长}}が就いた。


[[桂戦争]]が起こると陳卓林とともに離反し、広西省建設庁長・黄栄華の紹介で[[李宗仁]]、[[白崇禧]]、[[黄紹竑]]らの[[新広西派]]に参加。1930年冬、広西民用航空管理局局長{{Sfn|盧|1974|p=20}}として広西空軍設立に携わる。1933年4月5日、航空管理局は第四集団軍航空処に拡大され、航空処処長に就任{{Sfn|馬|1994|p=215}}。香港の[[ブリティッシュ・エアウェイズ]]関係者と人脈があったことからイギリスから人員や機材を集め、広西空軍の発展形成に努めるが、人事問題で副処長の陳卓林と対立。陳は広東空軍に戻ってしまう。これを発端とする航空処内の動揺を林一人では抑えきれなかったことから、李宗仁と白崇禧により陳の後任には第7軍参謀長の郭風崗があてがわれた。
[[桂戦争]]が起こると陳卓林とともに離反し、広西省建設庁長・黄栄華の紹介で[[李宗仁]]、[[白崇禧]]、[[黄紹竑]]らの[[新広西派]]に参加。1930年冬、広西民用航空管理局局長{{Sfn|盧|1974|p=20}}として広西空軍設立に携わる。1933年4月5日、航空管理局は第四集団軍航空処に拡大され、航空処処長に就任{{Sfn|馬|1994|p=215}}。香港の[[ブリティッシュ・エアウェイズ]]関係者と人脈があったことからイギリスから人員や機材を集め、広西空軍の発展形成に努めるが、人事問題で副処長の陳卓林と対立。陳は広東空軍に戻ってしまう。これを発端とする航空処内の動揺を林一人では抑えきれなかったことから、李宗仁と白崇禧により陳の後任には第7軍参謀長の郭風崗があてがわれた。


1934年春、広西航空学校(校長:[[廖磊]])が設立されると副校長を兼任{{Sfn|盧|1974|p=20}}{{Sfn|馬|1994|p=217}}。1935年1月に校長となる{{Sfn|馬|1994|p=220}}。1936年、両広事変が起こると、飛機隊隊長の寧明階と共に練習機1機で広州へ脱走し、南京国民政府に投降{{Sfn|馬|1994|p=221}}<ref>{{Cite book|url=https://books.google.co.jp/books?id=dfe2AAAAQBAJ&pg=PA587#v=onepage&q&f=false| author = 李宗仁, 唐德剛 | title =李宗仁回憶錄(下) |year=2018 | publisher =遠流出版事業股份有限公司 |ISBN=978-957-32-6587-0 |page=587}}</ref>。同年8月、駐粤空軍第一路(指揮官:[[陳慶雲 (空軍軍人)|陳慶雲]])参謀長<ref>{{Cite web |url =http://www.flyingtiger-cacw.com/new_page_483.htm |title = 廣東空軍航校簡史 |publisher = 中國飛虎研究學會 |language = 中国語 |accessdate = 2018-05-22 }}</ref>。
1934年春、広西航空学校(校長:[[廖磊]])が設立されると副校長を兼任{{Sfn|盧|1974|p=20}}{{Sfn|馬|1994|p=217}}。1935年1月に校長となる{{Sfn|馬|1994|p=220}}。1936年、両広事変が起こると、飛機隊隊長の寧明階と共に練習機1機で広州へ脱走し、南京国民政府に投降{{Sfn|馬|1994|p=221}}<ref>{{Cite book|url=https://books.google.co.jp/books?id=dfe2AAAAQBAJ&pg=PA587#v=onepage&q&f=false| author = 李宗仁, 唐德剛 | title =李宗仁回憶錄(下) |year=2018 | publisher =遠流出版事業股份有限公司 |ISBN=978-957-32-6587-0 |page=587}}</ref>。同年8月、駐粤空軍第一路(指揮官:[[陳慶雲 (空軍軍人)|陳慶雲]])参謀長<ref>{{Cite web |url =http://www.flyingtiger-cacw.com/new_page_483.htm |title = 廣東空軍航校簡史 |publisher = 中國飛虎研究學會 |language = 中国語 |accessdate = 2018-05-22 }}</ref>。

2020年9月15日 (火) 15:24時点における版

林偉成
生誕 1900年5月17日[1]
清の旗 広東省博羅県
死没 (1947-11-28) 1947年11月28日(47歳没)
中華民国の旗 中華民国安徽省潜山県
所属組織 中華民国空軍
最終階級 空軍少将
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林 偉成(りん いせい / リン・ウェイチェン、林伟成)は、中華民国空軍軍人。広西空軍の中心的人物である。

経歴

1920年末、アメリカで医学を学んでいたが、それを止めてホノルルの華僑が資金を集めてサンフランシスコに創立した飛行学校「図強飛機公司[2]の飛行科で飛行技術を学習[3]

中国に帰国後は大元帥府航空局に参加。1923年3月、航空局飛機第2隊隊長[4][5]。4月、沈鴻英が反乱を起こすと、黄光鋭、黄秉衡とともに対地攻撃を行う[6]。1924年、広東航空学校校長に就任するが[7]、同年10月、陳卓林と共にソ連に視察[8]。1925年、航空局軍事処兼総務処処長[9]。1926年7月、航空局が航空処に縮小されると処長[10]。北伐では北伐航空隊隊長を兼任[10]

武漢と南昌の攻略後の1927年春、ソ連へ航空機と器材の購入のため陳済棠を領隊とする購機委員会に陳卓林黄光鋭らと共に参加[10][3]。しかし、7月に寧漢分裂が起こり、南京・武漢両政府が共産党を排除したため、航空機の購買交渉は白紙となった[11]。同年冬に帰国し、翌1928年1月に広東航空処長に就任[12]。しかし、航空機購入の際に収賄を行ったとの嫌疑で更迭される[3]。後任には張恵長中国語版が就いた。

蔣桂戦争が起こると陳卓林とともに離反し、広西省建設庁長・黄栄華の紹介で李宗仁白崇禧黄紹竑らの新広西派に参加。1930年冬、広西民用航空管理局局長[13]として広西空軍設立に携わる。1933年4月5日、航空管理局は第四集団軍航空処に拡大され、航空処処長に就任[14]。香港のブリティッシュ・エアウェイズ関係者と人脈があったことからイギリスから人員や機材を集め、広西空軍の発展形成に努めるが、人事問題で副処長の陳卓林と対立。陳は広東空軍に戻ってしまう。これを発端とする航空処内の動揺を林一人では抑えきれなかったことから、李宗仁と白崇禧により陳の後任には第7軍参謀長の郭風崗があてがわれた。

1934年春、広西航空学校(校長:廖磊)が設立されると副校長を兼任[13][15]。1935年1月に校長となる[16]。1936年、両広事変が起こると、飛機隊隊長の寧明階と共に練習機1機で広州へ脱走し、南京国民政府に投降[17][18]。同年8月、駐粤空軍第一路(指揮官:陳慶雲)参謀長[19]

1937年5月19日、宋美齢の推薦で中国航空公司副董事長兼総経理に就任。第二次上海事変が勃発すると、南京の輸送機を徴用して軍用の物資を輸送したため、後に免職されることになった。

1937年8月18日、空軍上校[20]

1938年3月、航空委員会訓練処長[21]

1939年5月、航空委員会訓練監(総監:沈徳燮)副監兼教育処長[22][23]

1941年4月、航空委員会軍政所(所長:黄光鋭)副所長[24]

後に訓練処長、教育処長、参謀長、駐インド弁事処長などを歴任した。1943年3月、北アフリカ観戦団(長:胡献群)に空軍からは黄褚彪とともに参加、カイロに赴く[25]。1944年1月帰国。

1945年6月28日、空軍少将[26]

1946年6月、空軍総司令部主席諮議官[27]

1947年11月、空軍軍官学校からジープに乗って潜山で狩猟に行く際に交通事故に遭って死去。

栄典

出典

  1. ^ 現役軍官資績簿 第三冊” (PDF) (中国語). 臺灣華文電子書庫. pp. 82. 2018年5月21日閲覧。
  2. ^ 中国航空工业史编修办公室『中国近代航空工业史(1909-1949)』航空工业出版社、2013年、73-74頁。 
  3. ^ a b c 陈晋. “广东航空史略” (中国語). 广州文史. 2020年4月3日閲覧。
  4. ^ 盧 1974, p. 27.
  5. ^ 馬 1994, p. 302.
  6. ^ 黄严. “近代广东航空事业” (中国語). 广州文史. 2020年4月3日閲覧。
  7. ^ 陳存恭 (1978-6). “中國航空的發軔(1906-1929)” (PDF). 中央研究院近代史研究所集刊 (中央研究院近代史研究所) 7: 321-420. http://www.mh.sinica.edu.tw/MHDocument/PublicationDetail/PublicationDetail_1133.pdf 2019年12月10日閲覧。. 
  8. ^ 馬 1994, p. 304.
  9. ^ 盧 1974, p. 31.
  10. ^ a b c 馬 1994, p. 390.
  11. ^ 陈晋;刘锦涛;郭玉麟等. “回忆广东空军” (中国語). 广州文史. 2020年4月3日閲覧。
  12. ^ 馬 1994, p. 612.
  13. ^ a b 盧 1974, p. 20.
  14. ^ 馬 1994, p. 215.
  15. ^ 馬 1994, p. 217.
  16. ^ 馬 1994, p. 220.
  17. ^ 馬 1994, p. 221.
  18. ^ 李宗仁, 唐德剛 (2018). 李宗仁回憶錄(下). 遠流出版事業股份有限公司. p. 587. ISBN 978-957-32-6587-0. https://books.google.co.jp/books?id=dfe2AAAAQBAJ&pg=PA587#v=onepage&q&f=false 
  19. ^ 廣東空軍航校簡史” (中国語). 中國飛虎研究學會. 2018年5月22日閲覧。
  20. ^ 国民政府広報第2436号(民国26年8月19日)” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2017年11月7日閲覧。
  21. ^ 馬 1994, p. 415.
  22. ^ 盧 1974, p. 232.
  23. ^ 馬 1994, p. 418.
  24. ^ 盧 1974, p. 247.
  25. ^ 首次公开!国军少将飞行员与北非盟军轰炸意大利” (中国語). 網易. 2019年5月6日閲覧。
  26. ^ 国民政府広報 渝字801号(民国34年7月11日)” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2017年10月1日閲覧。
  27. ^ 盧 1974, p. 284.
  28. ^ 国民政府広報第2201号(民国25年11月13日)” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2020年3月18日閲覧。
  29. ^ 国民政府広報渝字第701号(民国33年8月16日)” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2017年11月8日閲覧。
  30. ^ 国民政府広報渝字第929号(民国34年12月11日)” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2018年1月2日閲覧。

参考

  • 马毓福編著 (1994). 1908-1949中国军事航空. 航空工业出版社 
  • 盧克彰編著 (1974). 空軍建軍史話. 空軍總部政治作戰部 
  • 第一节人物传略*林伟成” (中国語). 上海市地方志办公室. 2017年11月7日閲覧。