「広州国民政府 (1931年-1936年)」の版間の差分
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'''広州国民政府'''(こうしゅうこくみんせいふ、[[広東政府|第5次広東政府]])とは、[[1931年]]に[[陳済棠]]によって[[中華民国]][[広東省]]に建てられた地方政権。首都は[[広州市]]。反[[蔣介石]]派がこれに加わったが、[[満州事変]]の勃発による融和や蔣側の切り崩しにより自立性と勢威を失い、最後は陳済棠が逃亡して瓦解した。 |
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[[1925年]]([[民国紀元|民国]]14年)7月、[[汪兆銘]]が主席委員をつとめる[[広州国民政府 (1925年-1926年)|広州国民政府]]が成立すると、広東派の軍人であった[[陳済棠]]は第11師師長に昇進し、[[蔣介石]]のもとで戦歴を重ねた。[[1929年]](民国18年)3月、陳の上司にあたる[[李済深]]が蔣との対立の末に軟禁下に置かれると、陳はこれを機に蔣にさらに接近し、討逆軍第8路軍総司令に任命されて広東の軍権を掌握した。[[1930年]](民国19年)の[[中原大戦]]でも、陳は[[李宗仁]]らの広西軍の背後を衝いて、蔣軍の勝利に貢献した。しかし、蔣介石は直系ではない陳済棠に警戒心を解かなかった。しかも、中原大戦後は陳に軍備縮小を求めてきたため、陳はこれに反発を抱くようになった。[[1931年]](民国20年)、[[中国国民党]]長老の[[胡漢民]]が蔣介石と対立して軟禁下に置かれると、陳は反蔣派の政治家たちに協力して、ついに反蔣の旗幟を掲げた。 |
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広州市民の住宅問題を解決する平民宮は、1931年末に完成した。設計は{{仮リンク|林克明|zh|林克明}}。]] |
広州市民の住宅問題を解決する平民宮は、1931年末に完成した。設計は{{仮リンク|林克明|zh|林克明}}。]] |
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1931年5月には、反蔣介石派が[[広州市|広州]]に結集して、非常会議を開催し、[[蔣介石政権]](南京国民政府)とは別個の国民政府(広州国民政府)を樹立した。陳済棠の広東支配は、[[1929年]](民国18年)から7年におよんでいるが、ついに公然と蔣介石の政府に抵抗姿勢を示したのである。この政府には、蔣介石に監禁されたのち釈放された胡漢民も参加した<ref name=hosaka151>[[#保阪|保阪(1999)pp.151-153]]</ref>。また、汪兆銘、[[孫科]]、[[許崇智]]、[[唐紹儀]]なども広州国民政府に加わった<ref name=hosaka151/>。その背後で、[[新広西派]]の軍人たちも反蔣介石の動きを強めたのであった<ref name=hosaka151/>。 |
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1931年5月の広州国民政府成立以降、南京と広州の両「国民政府」の間では互いに中傷・誹謗がくり返され、それは、軍事的衝突に発展しかねない勢いであった。ところが9月18日、[[柳条湖事件]]に端を発して[[満州事変]]が勃発したため、南京・広州両政府は決定的な対決を回避するようになった<ref name=hosaka151/>。広東を半独立状態とする陳済棠政権に対し、 |
1931年5月の広州国民政府成立以降、南京と広州の両「国民政府」の間では互いに中傷・誹謗がくり返され、それは、軍事的衝突に発展しかねない勢いであった。ところが9月18日、[[柳条湖事件]]に端を発して[[満州事変]]が勃発したため、南京・広州両政府は決定的な対決を回避するようになった<ref name=hosaka151/>。広東を半独立状態とする陳済棠政権に対し、蔣介石はしばらくは融和姿勢をとり、反蔣の政治家たちもやがて広東国民政府から離れ、事態の急変に対処すべくそれぞれ行動を開始した<ref name=hosaka151/>。陳もまた蔣介石の意向に従い、[[中国共産党]]討伐に協力している。[[1933年]](民国22年)の[[福建事変]]でも、陳は蔣を支持して福建人民政府([[中華共和国]])を討伐し、これを崩壊させた<ref name=kotobank>[https://kotobank.jp/word/%E7%A6%8F%E5%BB%BA%E4%BA%BA%E6%B0%91%E6%94%BF%E5%BA%9C-125126 コトバンク「福建人民政府」]</ref>。 |
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[[1936年]] 政権が瓦解するまでの間、陳済棠が行ったさまざまな産業振興、[[インフラ]]・交通の整備・拡充などの政策については評価が高く、広東に安定と発展をもたらした。教育面では[[孔子]]崇拝を強化し、「四維八徳」を幅広く宣伝した。その一方で、陳は[[占星術]]や[[風水]]も信じ、人事や財務にまで影響を及ぼすという事態も招いている。 |
[[1936年]] 政権が瓦解するまでの間、陳済棠が行ったさまざまな産業振興、[[インフラ]]・交通の整備・拡充などの政策については評価が高く、広東に安定と発展をもたらした。教育面では[[孔子]]崇拝を強化し、「四維八徳」を幅広く宣伝した。その一方で、陳は[[占星術]]や[[風水]]も信じ、人事や財務にまで影響を及ぼすという事態も招いている。 |
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1936年(民国25年)5月、陳済棠は李宗仁らと連合して、安内(国内統一)を攘外(対外戦争)に優先させる |
1936年(民国25年)5月、陳済棠は李宗仁らと連合して、安内(国内統一)を攘外(対外戦争)に優先させる蔣介石に対し、攘外=抗日を優先すべきと主張して挙兵した([[両広事変]])。一方の蔣は広東政権の切崩し工作を開始し、[[余漢謀]]・[[李漢魂]]といった陳配下の有力軍人を次々と帰順させた。政略で劣勢に立たされた陳は、同年7月に敗北して[[香港]]へ逃亡した。こうして、広東国民政府は瓦解し、陳済棠による広東支配は終わった。 |
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2020年9月15日 (火) 14:51時点における版
広州国民政府(こうしゅうこくみんせいふ、第5次広東政府)とは、1931年に陳済棠によって中華民国広東省に建てられた地方政権。首都は広州市。反蔣介石派がこれに加わったが、満州事変の勃発による融和や蔣側の切り崩しにより自立性と勢威を失い、最後は陳済棠が逃亡して瓦解した。
概要
1925年(民国14年)7月、汪兆銘が主席委員をつとめる広州国民政府が成立すると、広東派の軍人であった陳済棠は第11師師長に昇進し、蔣介石のもとで戦歴を重ねた。1929年(民国18年)3月、陳の上司にあたる李済深が蔣との対立の末に軟禁下に置かれると、陳はこれを機に蔣にさらに接近し、討逆軍第8路軍総司令に任命されて広東の軍権を掌握した。1930年(民国19年)の中原大戦でも、陳は李宗仁らの広西軍の背後を衝いて、蔣軍の勝利に貢献した。しかし、蔣介石は直系ではない陳済棠に警戒心を解かなかった。しかも、中原大戦後は陳に軍備縮小を求めてきたため、陳はこれに反発を抱くようになった。1931年(民国20年)、中国国民党長老の胡漢民が蔣介石と対立して軟禁下に置かれると、陳は反蔣派の政治家たちに協力して、ついに反蔣の旗幟を掲げた。
1931年5月には、反蔣介石派が広州に結集して、非常会議を開催し、蔣介石政権(南京国民政府)とは別個の国民政府(広州国民政府)を樹立した。陳済棠の広東支配は、1929年(民国18年)から7年におよんでいるが、ついに公然と蔣介石の政府に抵抗姿勢を示したのである。この政府には、蔣介石に監禁されたのち釈放された胡漢民も参加した[1]。また、汪兆銘、孫科、許崇智、唐紹儀なども広州国民政府に加わった[1]。その背後で、新広西派の軍人たちも反蔣介石の動きを強めたのであった[1]。
1931年5月の広州国民政府成立以降、南京と広州の両「国民政府」の間では互いに中傷・誹謗がくり返され、それは、軍事的衝突に発展しかねない勢いであった。ところが9月18日、柳条湖事件に端を発して満州事変が勃発したため、南京・広州両政府は決定的な対決を回避するようになった[1]。広東を半独立状態とする陳済棠政権に対し、蔣介石はしばらくは融和姿勢をとり、反蔣の政治家たちもやがて広東国民政府から離れ、事態の急変に対処すべくそれぞれ行動を開始した[1]。陳もまた蔣介石の意向に従い、中国共産党討伐に協力している。1933年(民国22年)の福建事変でも、陳は蔣を支持して福建人民政府(中華共和国)を討伐し、これを崩壊させた[2]。
1936年 政権が瓦解するまでの間、陳済棠が行ったさまざまな産業振興、インフラ・交通の整備・拡充などの政策については評価が高く、広東に安定と発展をもたらした。教育面では孔子崇拝を強化し、「四維八徳」を幅広く宣伝した。その一方で、陳は占星術や風水も信じ、人事や財務にまで影響を及ぼすという事態も招いている。
1936年(民国25年)5月、陳済棠は李宗仁らと連合して、安内(国内統一)を攘外(対外戦争)に優先させる蔣介石に対し、攘外=抗日を優先すべきと主張して挙兵した(両広事変)。一方の蔣は広東政権の切崩し工作を開始し、余漢謀・李漢魂といった陳配下の有力軍人を次々と帰順させた。政略で劣勢に立たされた陳は、同年7月に敗北して香港へ逃亡した。こうして、広東国民政府は瓦解し、陳済棠による広東支配は終わった。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 保阪正康『蔣介石』文藝春秋〈文春新書〉、1999年4月。ISBN 4-16-660040-0。