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1925年1月、[[黄埔軍官学校]]に入学し、第3期歩兵隊に配属された<ref>{{Cite web |author = 中国黄埔軍校網 |url = http://www.hoplite.cn/Templates/hpbxx30000-1.html|title = 黄埔本校第三期歩兵隊学員姓名籍貫表 | language = 中国語 |accessdate=2016-06-04}}</ref>。1926年1月、卒業。同年3月、第5期区隊長<ref>{{Cite web |author = 中国黄埔軍校網 |url = http://www.hoplite.cn/Templates/hpbxj5q0013.html |title = 黄埔本校第五期入伍生部、学生隊成員学員姓名籍貫表 | language = 中国語 |accessdate = 2016-06-04 }}</ref>。第4軍中尉代連長を経て<ref name=taiwan>{{Cite web | format=PDF |url = http://taiwanebook.ncl.edu.tw/pdfjs_dual/web/viewer.html?file=/ebkFiles/DRNH-9900006882/DRNH-9900006882F01.PDF |title = 現役軍官資績簿 第二冊 |publisher = 臺灣華文電子書庫 | pages = 100 |language = 中国語 |accessdate = 2018-02-28 }}</ref>、1928年5月当時、国民政府警衛旅第3団(旅長:{{仮リンク|兪済時|zh|俞济时}}、団長:{{仮リンク|馮聖法|zh|馮聖法}})第2営第7連連長(上尉)として[[ |
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その後、第98師は第18軍から第54軍の管轄となり、[[湖南省]]に移る。また、夏楚中が軍長に転任した。1939年、第98師第293団団長。1941年ごろ、王甲本が第98師師長に就任したため第98師副師長。同年12月26日、第98師は常徳を出発して[[第二次長沙作戦|第三次長沙会戦]]に参加、28日より翌年1月までの間、決戦地区に指定された[[撈刀河]]にて[[第6師団]](長:[[神田正種]])などと激戦を繰り広げた<ref>{{Cite web |author = 民革长沙市委员会 |url = http://www.hncsmg.cn/shownews.asp?nlt=3252 |title = 朱建军主委赴开福区调研 再推秀峰山抗战烈士陵园建设 | language = 中国語 |accessdate=2018-03-03}}</ref>。1942年8月6日、陸軍歩兵[[大佐|上校]]<ref>{{Cite web | format=PDF |url = http://twinfo.ncl.edu.tw/tiqry/hypage.cgi?HYPAGE=search/merge_pdf.hpg&dtd_id=12&sysid=E0627452&jid=79001163&type=g&vol=31080800&page=%E9%A0%815-8 |title = 国民政府広報渝字第490号(民国31年8月8日) |publisher = 政府広報資訊網 |language = 中国語 |accessdate = 2020-03-17 }}</ref>。 |
2020年9月15日 (火) 14:43時点における版
李逸泰 | |
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生誕 |
1905年4月5日 大韓帝国平安北道 |
死没 | 不明 |
所属組織 | 国民革命軍 |
最終階級 | 少将 |
李 逸泰(リ・イルテ、리일태)は国民革命軍の軍人。黄埔軍官学校に最初に入校した朝鮮人生徒の一人[1][† 1]。第2次上海事変、第三次長沙会戦など主要な戦闘に参加し、朝鮮出身の将校では数少ない少将にまで上がった。
経歴
1925年1月、黄埔軍官学校に入学し、第3期歩兵隊に配属された[2]。1926年1月、卒業。同年3月、第5期区隊長[3]。第4軍中尉代連長を経て[4]、1928年5月当時、国民政府警衛旅第3団(旅長:兪済時、団長:馮聖法)第2営第7連連長(上尉)として蔣介石の護衛に当たる。その後、少校に昇進して第11師第32旅62団団附となり、1929年8月23日に陳誠が蔣介石に充てた電報で、廉正勤奮である事から営長候補者に名前が挙がっている[5]。
1935年、中央陸軍軍官学校高等教育班第3期卒業[4][6]。1936年3月27日、陸軍歩兵少校[7]。
1937年5月15日、陸軍歩兵中校[8]。日中戦争勃発時は武漢の第98師第292旅(師長:夏楚中、副師長:王甲本、旅長呂国銓)第583団副団長であった[6]。8月11日より南京衛戍を担当するが、第二次上海事変が勃発すると14日より上海に投入され、翌15日より上海派遣軍との戦闘に参加[9]。9月7日、天谷支隊の猛攻を受け、宝山県城守備隊の姚子青以下第3営将兵が玉砕。9月10日、月浦鎮の戦いで団長の路景栄が戦死すると、同年10月15日附で団長[10]。同月20日深夜から翌日未明にかけ、第160師(葉肇、軍長兼任)と共同での薀藻浜南岸奪還作戦に従事するも、最前線を担っていた営長・蔣偉才以下第2営が壊滅[11]。
その後、第98師は第18軍から第54軍の管轄となり、湖南省に移る。また、夏楚中が軍長に転任した。1939年、第98師第293団団長。1941年ごろ、王甲本が第98師師長に就任したため第98師副師長。同年12月26日、第98師は常徳を出発して第三次長沙会戦に参加、28日より翌年1月までの間、決戦地区に指定された撈刀河にて第6師団(長:神田正種)などと激戦を繰り広げた[12]。1942年8月6日、陸軍歩兵上校[13]。
終戦後は本籍を湖南省桃山県に変え、中央訓練団将官班で訓練を受ける。1946年9月13日、中央訓練団少将団員[4]。1947年4月、韓国独立党東北特別委員会や韓国臨時政府駐華代表団東北総弁事処(処長:李光、副処長:金学奎)の支援で東北部の朝鮮人を中心に長延区民主自衛軍が創設されると指揮官に就任したが、功績を挙げられず翌年に部隊は消滅した。
1951年5月30日、釜山日報は香港のとある週刊誌から翻訳転載したとする消息筋の話を掲載した。それによると、瀋陽陥落後の1948年12月9日、李は北平から天津に向かおうとしたが平津線が止まっており、数週間北平で潜伏したのち徒歩で華南へ向かおうとしたが、山東省で捕らえられたという。その後の行方は分からず、処刑された可能性が高い[14]。
叙勲
脚注
出典
- ^ “不滅の足跡(9)―黄埔軍官学校朝鮮革命家達” (朝鮮語). 吉林新聞. (2011年8月10日) 2016年6月4日閲覧。
- ^ 中国黄埔軍校網. “黄埔本校第三期歩兵隊学員姓名籍貫表” (中国語). 2016年6月4日閲覧。
- ^ 中国黄埔軍校網. “黄埔本校第五期入伍生部、学生隊成員学員姓名籍貫表” (中国語). 2016年6月4日閲覧。
- ^ a b c d e “現役軍官資績簿 第二冊” (PDF) (中国語). 臺灣華文電子書庫. pp. 100. 2018年2月28日閲覧。
- ^ 国史館『陳誠先生回憶録-北伐平乱』国史館、2005年、286頁。ISBN 986-00-1456-6。
- ^ a b c 陳 2017, p. 357.
- ^ “国民政府広報第2007号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2016年6月4日閲覧。
- ^ “国民政府広報第2355号(民国26年5月17日)” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2020年3月17日閲覧。
- ^ “〖湖南阵亡将士事略〗蔣伟才” (中国語). 抗日战争纪念网. 2020年4月26日閲覧。
- ^ “国民政府広報第2485号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2016年6月4日閲覧。
- ^ 桃江县人民政府. “一湾双烈蔣氏昆仲” (中国語). 2018年3月3日閲覧。
- ^ 民革长沙市委员会. “朱建军主委赴开福区调研 再推秀峰山抗战烈士陵园建设” (中国語). 2018年3月3日閲覧。
- ^ “国民政府広報渝字第490号(民国31年8月8日)” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2020年3月17日閲覧。
- ^ “허덕이는 傀儡中國” (朝鮮語). 부산일보. (1951年5月30日) 2020年4月26日閲覧。
参考文献
- 葉泉宏 (2010),黄埔軍校与韓国独立運動 (PDF)
- 陳予歡 (2017). 黃埔軍校第三期生全記錄 上巻. 思行文化傳播有限公司. ISBN 978-986-92736-7-1
外部リンク
- “黄埔軍校同学録-李逸泰” (中国語). 浙江档案网. 2016年12月18日閲覧。
- “李逸泰” (中国語). 中国档案. 2016年12月25日閲覧。