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16歳で南京金陵大学に入学する。後に日本に留学し、[[中国同盟会]]にも加入した。民国成立後、[[中国国民党]]に参加して文書起草を担当し、[[1924年]](民国13年)1月の国民党第1回全国代表大会の準備に従事した。[[北伐 (中国国民党)|北伐]]に際しては、[[国民革命軍]]第11軍秘書長を務めている。 |
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[[1935年]](民国24年)10月、孫希文は[[甘粛省 (中華民国)|甘粛省]]政府委員兼民政庁庁長に任ぜられた。[[1937年]](民国23年)8月、[[貴州省 (中華民国)|貴州省]]政府委員兼民政庁庁長に任ぜられ、同年9月から11月まで省政府主席代理も務めた。[[1940年]](民国29年)12月、貴州省を離れ、翌年5月に[[中華民国行政院|行政院]]参事に任ぜられている。[[日中戦争]](抗日戦争)終結後は国民党中央に移り、党中央参事や蔣介石の文書起草担当秘書などを務めた。 |
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[[1948年]](民国37年)、[[南京市]]にて病没。享年57。 |
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2020年9月15日 (火) 14:34時点における版
孫希文 | |
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プロフィール | |
出生: | 1892年(清光緒28年)[1] |
死去: |
1948年(民国37年) 中華民国南京市 |
出身地: | 清安徽省鳳陽府懐遠県 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 孫希文 |
簡体字: | 孙希文 |
拼音: | Sūn Xīwén |
ラテン字: | Sun Hsi-wen |
和名表記: | そん きぶん |
発音転記: | スン シーウェン |
孫 希文(そん きぶん、繁体字: 孫希文; 簡体字: 孙希文; 繁体字: 孫希文; 拼音: Sūn Xīwén; ウェード式: Sun Hsi-wen)は、中華民国の政治家。中国同盟会以来の中国国民党人士である。
事績
16歳で南京金陵大学に入学する。後に日本に留学し、中国同盟会にも加入した。民国成立後、中国国民党に参加して文書起草を担当し、1924年(民国13年)1月の国民党第1回全国代表大会の準備に従事した。北伐に際しては、国民革命軍第11軍秘書長を務めている。
1928年(民国17年)12月、広東省政府秘書長に任ぜられ、翌年7月には同省政府委員に転じた。1932年(民国23年)12月、福建省政府委員に任ぜられ、同省秘書長や建設庁庁長を歴任している。1933年(民国23年)11月、李済深が中華共和国を樹立すると(福建事変)、孫希文はこれに与することを拒否し、南京に逃れた。これにより蔣介石の信任を得ることとなる。
1935年(民国24年)10月、孫希文は甘粛省政府委員兼民政庁庁長に任ぜられた。1937年(民国23年)8月、貴州省政府委員兼民政庁庁長に任ぜられ、同年9月から11月まで省政府主席代理も務めた。1940年(民国29年)12月、貴州省を離れ、翌年5月に行政院参事に任ぜられている。日中戦争(抗日戦争)終結後は国民党中央に移り、党中央参事や蔣介石の文書起草担当秘書などを務めた。
注
参考文献
- 孫為忠「民国貴州省代主席孫希文」2008.11.27.安徽文化網
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(国民政府)
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