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'''李 品仙'''(り ひんせん)は、[[中華民国]]の軍人。[[新広西派]](新桂系)の有力指揮官の1人で、[[北伐 (中国国民党)|北伐]]、反蔣戦争、[[日中戦争]]などを歴戦した。[[字]]は'''鶴令'''。 |
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[[1913年]]([[民国紀元|民国]]2年)、[[保定陸軍軍官学校]]第1期生として入学し、この時に[[白崇禧]]と同学になった。翌年末に卒業し、帰郷して広西軍に入隊、[[護国戦争]]にも従軍している。[[1916年]](民国5年)、所属していた連の連長が[[湖南省 (中華民国)|湖南]]軍(湘軍)に転じたため、李も湘軍に加入した。その後、保定陸軍軍官学校で同学だった[[唐生智]]の配下となり、[[護法運動]]に関連する様々な戦役に参戦、順調に昇進した。[[1924年]](民国13年)、湘軍第4師第8旅旅長に任ぜられている。 |
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同年10月からの[[寧漢戦争]]でも李品仙は唐生智に追従したが、唐は[[新広西派]](新桂系)の[[李宗仁]]らに敗北してしまう。李品仙は翌[[1928年]](民国17年)2月、新広西派に帰順し、4月には国民革命軍第4集団軍第12路軍総指揮兼第8軍軍長に任ぜられた。その後、北伐に再び加わり、灤河で直魯聯軍3万を武装解除し、[[唐山市|唐山]]に駐留している。[[1929年]](民国18年)3月、[[蔣桂戦争]]が勃発すると、蔣介石が唐生智を再起用する。李品仙も唐の下に戻り、第5路軍副総指揮兼第8軍軍長として再び新広西派と戦う。 |
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しかし同年末に唐生智は再び蔣介石に反旗を翻し、李品仙もこれに従った。翌年1月、唐は敗北し、李も下野して[[香港]]に一時逃れている。この年に[[中原大戦]]が勃発すると、李は今度は新広西派から招聘され、湖南善後督弁に起用された。中原大戦で新広西派が敗北すると、李は広西に戻り、第4集団軍総司令部参謀長を務めている。以後、[[南寧市|南寧]]軍官学校校長、広西辺防対汛督弁兼左江区行政監督、竜州区民団指揮官などを歴任し、[[1935年]](民国24年)に再び第4集団軍総司令部参謀長に返り咲いた。[[1936年]](民国25年)1月、陸軍中将に昇進し、7月には広西綏靖公署副主任となっている。翌年3月、陸軍上将銜を授与された。 |
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=== 日中戦争において === |
=== 日中戦争において === |
2020年9月15日 (火) 14:30時点における版
李品仙 | |
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Who's Who in China 5th ed. (1936) | |
プロフィール | |
出生: |
1890年4月22日 (清光緒16年3月初4日) |
死去: |
1987年(民国76年)3月23日 台湾台北市 |
出身地: | 清広西省梧州府蒼梧県 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 李品仙 |
簡体字: | 李品仙 |
拼音: | Lǐ Pǐnxiān |
ラテン字: | Li P'in-hsien |
和名表記: | り ひんせん |
発音転記: | リー ピンシエン |
李 品仙(り ひんせん)は、中華民国の軍人。新広西派(新桂系)の有力指揮官の1人で、北伐、反蔣戦争、日中戦争などを歴戦した。字は鶴令。
事績
湘軍での台頭
郷紳の家庭に生まれる。初めは旧学を学んだが、1907年(光緒33年)に蔡鍔が創設した広西陸軍小学に入学する。1910年(宣統2年)、湖北第3陸軍中学に進学して第2期生となり、その翌年には武昌起義(辛亥革命)に革命派として参加した。その後、帰郷して梧州で軍械局局員となっている。
1913年(民国2年)、保定陸軍軍官学校第1期生として入学し、この時に白崇禧と同学になった。翌年末に卒業し、帰郷して広西軍に入隊、護国戦争にも従軍している。1916年(民国5年)、所属していた連の連長が湖南軍(湘軍)に転じたため、李も湘軍に加入した。その後、保定陸軍軍官学校で同学だった唐生智の配下となり、護法運動に関連する様々な戦役に参戦、順調に昇進した。1924年(民国13年)、湘軍第4師第8旅旅長に任ぜられている。
1926年(民国15年)6月、唐生智が国民革命軍の序列に加わったことに伴い、李品仙は第8軍第3師師長に任ぜられた。北伐に際しては、湖南省各地の攻略と湖北省での呉佩孚軍撃破に貢献している。翌年2月、第8軍副軍長、さらに4月には軍長に昇進し、武漢三鎮衛戍総司令や湖北省政府委員も兼任した。上海クーデター(四・一二政変)が勃発すると、蔣介石を支持して中国共産党の粛清に従事している。
新広西派へ
同年10月からの寧漢戦争でも李品仙は唐生智に追従したが、唐は新広西派(新桂系)の李宗仁らに敗北してしまう。李品仙は翌1928年(民国17年)2月、新広西派に帰順し、4月には国民革命軍第4集団軍第12路軍総指揮兼第8軍軍長に任ぜられた。その後、北伐に再び加わり、灤河で直魯聯軍3万を武装解除し、唐山に駐留している。1929年(民国18年)3月、蔣桂戦争が勃発すると、蔣介石が唐生智を再起用する。李品仙も唐の下に戻り、第5路軍副総指揮兼第8軍軍長として再び新広西派と戦う。
しかし同年末に唐生智は再び蔣介石に反旗を翻し、李品仙もこれに従った。翌年1月、唐は敗北し、李も下野して香港に一時逃れている。この年に中原大戦が勃発すると、李は今度は新広西派から招聘され、湖南善後督弁に起用された。中原大戦で新広西派が敗北すると、李は広西に戻り、第4集団軍総司令部参謀長を務めている。以後、南寧軍官学校校長、広西辺防対汛督弁兼左江区行政監督、竜州区民団指揮官などを歴任し、1935年(民国24年)に再び第4集団軍総司令部参謀長に返り咲いた。1936年(民国25年)1月、陸軍中将に昇進し、7月には広西綏靖公署副主任となっている。翌年3月、陸軍上将銜を授与された。
日中戦争において
1937年(民国26年)7月に日中戦争が勃発し、12月には李品仙は第11集団軍総司令(3個軍統轄)に任命される。李品仙は李宗仁が管轄する第5戦区に赴任し、台児荘の戦いや徐州会戦に参戦、日本軍に大打撃を与える軍功をあげた。翌1938年(民国27年)6月には武漢会戦に参戦し、武漢防衛軍第4兵団司令に任ぜられている。最終的に10月に武漢は陥落したが、李品仙率いる軍は他の友軍に比べ善戦し、その後湖北省で休養・再編に努めた。1939年(民国28年)4月には、随棗会戦(日本側呼称は襄東会戦)に参戦、日本軍の4個師団などと激戦を展開し、攻勢を食い止める軍功をあげた。
1939年(民国28年)11月、李品仙は安徽省政府主席に任命され、更に第21集団軍総司令に昇進した。安徽省では抗日体制の整備に取り組み、1940年(民国29年)5月の第2次随棗会戦(随宜会戦とも。日本側呼称は宜昌作戦)や1941年(民国30年)8月の第2次長沙会戦でも、日本軍への効果的な反撃に成功している。その一方で、李は共産党への弾圧・粛清も強力に遂行し、1941年(民国30年)1月には新四軍を包囲・攻撃、これを殲滅した(皖南事変)。これらの軍功もあって、1945年(民国34年)1月、第10戦区司令長官に昇進し、6月には中国国民党第6期中央執行委員に選出されている。終戦に際しては、徐州方面で日本軍の降伏受諾事務に従事した。
晩年
1946年(民国35年)4月より、李品仙は安徽省政府主席に専任となったが、同年中に徐州綏靖公署副主任を兼任し、国共内戦での迎撃作戦にも参与している。1948年(民国37年)、李宗仁が副総統選挙に出馬すると、これを全面的に支援した。同年、李品仙は華中軍政長官公署副長官(長官:白崇禧)に任ぜられ、翌1949年(民国38年)5月には桂林綏靖公署主任となった。しかし中国人民解放軍の攻勢を食い止めることはできず、同年12月、台湾へ逃亡した。
台湾での李品仙は、総統府戦略顧問委員会顧問に任ぜられている。1953年(民国42年)に退職し、台北市水源里の隣長(隣組の長)として余生を送った。
1987年(民国76年)3月23日、台北市にて病没。享年98(満96歳)。
参考文献
- 蕭棟梁「李品仙」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第12巻』中華書局、2005年。ISBN 7-101-02993-0。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(国民政府)
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