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まもなく、于学忠は[[北京市|北京]]に赴いて[[張作霖]]・[[張学良]]父子と面会し、[[奉天派]]に加入して鎮威軍第4方面軍団第20軍軍長に任ぜられた。[[1928年]](民国17年)6月、[[張作霖爆殺事件]]の後に于は東北へ逃れ、東北保安司令長官公署軍事参議官兼臨綏駐軍司令として[[山海関]]を守る。同年末に張学良が[[易幟]]を行うと、于はそのまま地位に留任しつつ[[国民革命軍]]に組み込まれた。<ref>黄・王(1980)、100頁。</ref><ref name=Xu/><ref name=Liu>劉国銘主編(2005)、22頁。</ref> |
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[[1930年]](民国19年)の[[中原大戦]]では、9月18日に張学良が関内に進軍した際に于学忠は第1軍を率いて[[北京市|北京]]に進駐した。中原大戦で[[蔣介石]]が勝利すると、平津衛戍司令に任ぜられた。<ref name=Xu/><ref name=Liu/>なお張の進軍前に、蔣は于を買収して早期から中原大戦に参加させようとしたが、于はこれを拒否し、張が正式に参戦を表明するまで決して動かなかった。[[1931年]](民国20年)7月、[[石友三]]が突然反蔣の兵変を起こすと、于はその鎮圧に参加している。<ref>黄・王(1980)、100-101頁。</ref> |
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=== 満州事変後の活動 === |
=== 満州事変後の活動 === |
2020年9月15日 (火) 14:24時点における版
于学忠 | |
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Who's Who in China Suppl. to 4th ed. (1933) | |
プロフィール | |
出生: |
1890年11月19日 (清光緒16年10月27日) |
死去: |
1964年9月22日 中国北京市 |
出身地: | 清盛京将軍管轄区旅順 |
職業: | 軍人・政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 于學忠 |
簡体字: | 于学忠 |
拼音: | Yú Xuézhōng |
ラテン字: | Yü Hsueh-chong (Yü Hsueh-tsung) |
和名表記: | う がくちゅう |
発音転記: | ユー シュエジョン |
于 学忠(う がくちゅう)は、中華民国・中華人民共和国の軍人・政治家。北京政府では直隷派の呉佩孚の腹心であった。後に奉天派の軍人となるが、張学良の易幟後は国民政府(国民革命軍)に転じた。河北省政府主席として、満州事変(九・一八事変)後の関東軍と折衝を繰り広げたことでも知られる。字は孝侯。祖籍は山東省登州府蓬莱県。
事績
呉佩孚の腹心
父の于文孚は宋慶率いる毅軍の幇統であった。于学忠も幼年時代から父に従って毅軍に加わり、1904年(光緒30年)、毅軍の随営学堂を卒業した。次いで1908年(光緒34年)に通州速成随営学堂歩兵科に入学し、1911年(宣統3年)に卒業している。[1][2][3]
中華民国成立後も、毅軍を率いる米振標の下で于学忠は昇進を重ね、湖北省や四川省で転戦する。1922年(民国11年)、直隷派の呉佩孚により第18混成旅旅長に任命された。1925年(民国14年)10月、武漢で呉が14省討賊聯軍総司令を称すると、于は第26師師長に任命されている。1926年(民国15年)10月、国民革命軍により武昌を失陥させられた呉が河南省へ撤退すると、于もこれに随従し、河南で第9軍軍長兼荊襄警備総司令に任ぜられた。しかし翌年5月に呉は最終的な敗北を喫し、呉・于は四川に逃れた後に下野した。[4][2][5]
張学良を支えて
まもなく、于学忠は北京に赴いて張作霖・張学良父子と面会し、奉天派に加入して鎮威軍第4方面軍団第20軍軍長に任ぜられた。1928年(民国17年)6月、張作霖爆殺事件の後に于は東北へ逃れ、東北保安司令長官公署軍事参議官兼臨綏駐軍司令として山海関を守る。同年末に張学良が易幟を行うと、于はそのまま地位に留任しつつ国民革命軍に組み込まれた。[6][2][7]
1930年(民国19年)の中原大戦では、9月18日に張学良が関内に進軍した際に于学忠は第1軍を率いて北京に進駐した。中原大戦で蔣介石が勝利すると、平津衛戍司令に任ぜられた。[2][7]なお張の進軍前に、蔣は于を買収して早期から中原大戦に参加させようとしたが、于はこれを拒否し、張が正式に参戦を表明するまで決して動かなかった。1931年(民国20年)7月、石友三が突然反蔣の兵変を起こすと、于はその鎮圧に参加している。[8]
満州事変後の活動
満州事変勃発後の1932年(民国21年)8月17日、于学忠は河北省政府主席に異動した。翌1933年(民国22年)3月に熱河省を失陥し、翌月に張学良が下野すると、残された東北軍のほとんどは于の指揮下に入った。日本側は于を篭絡しようと様々な工作を仕掛けたが、于は一切拒否している。そのため、1935年(民国24年)6月の梅津・何応欽協定(何梅協定)の交渉における覚書第1条では、真っ先に于の河北省政府主席からの罷免が掲げられることになった。[9]
結局、于学忠は省政府主席を罷免され、11月に甘粛省政府主席に異動した。また、中国国民党第5回全国代表大会で中央執行委員に選出されている。[2][7]1936年(民国25年)12月、于は西安を訪れ、西安事変を起こそうとする張学良と会談することになる。このとき、于は慎重論を最初は唱えたものの、最終的には決行に同意し、蘭州で張の行動を支援した。西安事変解決後、張が南京で拘留されることになると、張の指示により于が東北軍の指揮に責任を負うことになる。張の逮捕の影響もあって、東北軍では不穏な動きが相次いだが、于は楊虎城と協力して再度の兵変勃発という最悪の事態は防いだ。[10]
日中戦争とその後
1937年(民国26年)4月、于学忠は第51軍を率いて江蘇省に向かい、江蘇省綏靖公署主任に任ぜられた。7月、山東省の海防を担当することになり、翌月、第3集団軍副総司令に任ぜられた。翌1938年(民国27年)1月には同集団軍総司令に昇進し(同年中に第5集団軍総司令となる)、台児庄戦役(台児庄の戦い)や武漢会戦を戦う。しかし戦闘を経ても、東北軍の于学忠は中央直系ではないとして、補給で差別を加えるなどされ、次第に于の軍は消耗していった。それでも1939年(民国28年)には蘇魯戦区総司令となり、1942年(民国30年)には魯南遊撃総司令も兼任している。1944年(民国33年)3月、前線から退き、軍事参議院副院長に異動した。[11][2][7]
国共内戦においては1947年(民国36年)5月に軍事戦略顧問委員会委員をつとめた他、行憲国民大会代表にも選出されている。内戦末期は台湾へ逃れることを拒み、四川省で隠居した。中華人民共和国建国後の1952年12月に、河北省人民政府委員に任命される。1954年8月には第1期全国人民代表大会代表に選出され、翌月、国防委員会委員に任ぜられた。1956年、中国国民党革命委員会(民革)第3期中央委員に選出されている。1964年9月22日、北京にて病没。享年75。[12][2][7]
注
参考文献
- 黄徳昭・王秦「于学忠」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第2巻』中華書局、1980年。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(国民政府)
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