コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「聞承烈」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
Cewbot (会話 | 投稿記録)
22行目: 22行目:
陸軍大学を卒業し、禁衛軍に加入する。民国成立後の[[1914年]]([[民国紀元|民国]]3年)、馮玉祥率いる陸軍第16混成旅に配属された。[[1923年]](民国12年)、第42団団長に昇格し、[[1926年]](民国15年)、国民軍軍官教導団団長に任ぜられている。以後、第21混成旅旅長、第32混成旅旅長、西北軍兵站総監などを歴任した。
陸軍大学を卒業し、禁衛軍に加入する。民国成立後の[[1914年]]([[民国紀元|民国]]3年)、馮玉祥率いる陸軍第16混成旅に配属された。[[1923年]](民国12年)、第42団団長に昇格し、[[1926年]](民国15年)、国民軍軍官教導団団長に任ぜられている。以後、第21混成旅旅長、第32混成旅旅長、西北軍兵站総監などを歴任した。


[[1929年]](民国18年)、国民革命軍第2集団軍兵站総監、第7軍副軍長に任ぜられる。反[[介石]]戦争で馮玉祥が敗北した後、聞承烈は韓復榘に随従して[[山東省 (中華民国)|山東省]]入りし、[[済南市]]市長に任ぜられた。[[1936年]](民国25年)9月、陸軍中将銜を授与され、11月、山東省政府顧問となる。[[日中戦争]](抗日戦争)期間は、第6戦区司令長官部兵站中将総監などをつとめた。
[[1929年]](民国18年)、国民革命軍第2集団軍兵站総監、第7軍副軍長に任ぜられる。反[[介石]]戦争で馮玉祥が敗北した後、聞承烈は韓復榘に随従して[[山東省 (中華民国)|山東省]]入りし、[[済南市]]市長に任ぜられた。[[1936年]](民国25年)9月、陸軍中将銜を授与され、11月、山東省政府顧問となる。[[日中戦争]](抗日戦争)期間は、第6戦区司令長官部兵站中将総監などをつとめた。


[[1946年]](民国35年)11月、制憲[[国民大会]]代表に当選している。[[中華人民共和国]]成立後も大陸にとどまり、中央文史館館員となった。
[[1946年]](民国35年)11月、制憲[[国民大会]]代表に当選している。[[中華人民共和国]]成立後も大陸にとどまり、中央文史館館員となった。

2020年9月15日 (火) 14:22時点における版

聞承烈
プロフィール
出生: 1889年光緒15年)
死去: 1976年
中華人民共和国の旗 中国
出身地: 清の旗 山東省威海衛
職業: 軍人
各種表記
繁体字 聞承烈
簡体字 闻承烈
拼音 Wén Chéngliè
ラテン字 Wen Ch'eng-lie
和名表記: ぶん しょうれつ
発音転記: ウェン チョンリエ
テンプレートを表示

聞 承烈(ぶん しょうれつ)は中華民国の軍人。北京政府国民軍国民政府国民革命軍)に属した。馮玉祥配下の「十三太保[1]の1人としても知られる。樸庭

事跡

陸軍大学を卒業し、禁衛軍に加入する。民国成立後の1914年民国3年)、馮玉祥率いる陸軍第16混成旅に配属された。1923年(民国12年)、第42団団長に昇格し、1926年(民国15年)、国民軍軍官教導団団長に任ぜられている。以後、第21混成旅旅長、第32混成旅旅長、西北軍兵站総監などを歴任した。

1929年(民国18年)、国民革命軍第2集団軍兵站総監、第7軍副軍長に任ぜられる。反蔣介石戦争で馮玉祥が敗北した後、聞承烈は韓復榘に随従して山東省入りし、済南市市長に任ぜられた。1936年(民国25年)9月、陸軍中将銜を授与され、11月、山東省政府顧問となる。日中戦争(抗日戦争)期間は、第6戦区司令長官部兵站中将総監などをつとめた。

1946年(民国35年)11月、制憲国民大会代表に当選している。中華人民共和国成立後も大陸にとどまり、中央文史館館員となった。

1976年、病没。享年88。

  1. ^ 聞承烈に加え、孫良誠韓復榘石友三張維璽過之綱劉汝明佟麟閣孫連仲韓多峰程希賢葛金章趙席聘の13人を指す。

参考文献

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1