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=== 国民政府時代の活動 ===
=== 国民政府時代の活動 ===
[[1927年]](民国16年)6月、河南省政府委員兼財政庁庁長に任ぜられ、同年8月、[[国民政府]]の初代内政部部長に抜擢された。翌年1月、河南省民政庁庁長(国民政府内政部長と兼任)に転じている。10月には初代の国民政府衛生部部長となった。[[1929年]](民国18年)3月、[[中国国民党]]第3期中央候補執行委員に選出された。[[1930年]](民国19年)、[[北京市|北平]]で反[[介石]]派の中央党部拡大会議が開催されると、薛篤弼もこれに参加し、宣伝部委員に任ぜられた。
[[1927年]](民国16年)6月、河南省政府委員兼財政庁庁長に任ぜられ、同年8月、[[国民政府]]の初代内政部部長に抜擢された。翌年1月、河南省民政庁庁長(国民政府内政部長と兼任)に転じている。10月には初代の国民政府衛生部部長となった。[[1929年]](民国18年)3月、[[中国国民党]]第3期中央候補執行委員に選出された。[[1930年]](民国19年)、[[北京市|北平]]で反[[介石]]派の中央党部拡大会議が開催されると、薛篤弼もこれに参加し、宣伝部委員に任ぜられた。


介石戦争終結後、薛篤弼は中国国民党の主流派に復帰した。以後も中央候補執行委員に選出され、第5期途中の[[1936年]](民国25年)7月に中央執行委員に昇格している。[[1941年]](民国29年)7月、[[中華民国行政院|行政院]]全国水利委員会主任委員に任命された([[1946年]](民国35年)6月、水利委員会委員長に改組)。[[1947年]](民国36年)4月、水利委員会の水利部改組に伴い、そのまま部長となっている。[[1948年]](民国37年)、行憲[[国民大会]]代表に選出された。
介石戦争終結後、薛篤弼は中国国民党の主流派に復帰した。以後も中央候補執行委員に選出され、第5期途中の[[1936年]](民国25年)7月に中央執行委員に昇格している。[[1941年]](民国29年)7月、[[中華民国行政院|行政院]]全国水利委員会主任委員に任命された([[1946年]](民国35年)6月、水利委員会委員長に改組)。[[1947年]](民国36年)4月、水利委員会の水利部改組に伴い、そのまま部長となっている。[[1948年]](民国37年)、行憲[[国民大会]]代表に選出された。


[[中華人民共和国]]成立後、薛篤弼は大陸に留まった。[[中国人民政治協商会議]]全国委員会委員、上海法学会理事、上海律師協会副主任、[[中国国民党革命委員会]](民革)中央委員などを歴任している。
[[中華人民共和国]]成立後、薛篤弼は大陸に留まった。[[中国人民政治協商会議]]全国委員会委員、上海法学会理事、上海律師協会副主任、[[中国国民党革命委員会]](民革)中央委員などを歴任している。

2020年9月15日 (火) 14:17時点における最新版

薛篤弼
国民政府時代の薛篤弼
Who's Who in China 4th ed. (1931)
プロフィール
出生: 1892年光緒18年)
死去: 1973年7月9日
中華人民共和国上海市
出身地: 清の旗 山西省解州
職業: 政治家
各種表記
繁体字 薛篤弼
簡体字 薛笃弼
拼音 Xuē Dǔbì
ラテン字 Hsueh Tu-pi
和名表記: せつ とくひつ
発音転記: シュエ ドゥービー
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薛 篤弼(せつ とくひつ、1892年 - 1973年7月9日)は、中華民国中華人民共和国の政治家。北京政府国民政府(中国国民党)に属し、馮玉祥の配下でもあった。子良

事績

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北京政府時代の活動

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公立山西法政学校を卒業し、1911年宣統3年)に中国同盟会に加入した。1912年民国元年)の中華民国成立直後は、山西省で審判庁の役職を歴任する。

1914年(民国3年)、馮玉祥率いる陸軍第16混成旅で秘書長兼軍法処処長に任ぜられ、以後、薛篤弼は馮配下として活動する。馮が陝西督軍になると、薛は陝西省内で県長を歴任する。1922年(民国11年)4月、署理陝西省財政庁庁長に任ぜられた。翌月、馮が河南督軍に転じたため、薛もそのまま署理河南省財政庁庁長に横滑りしている。

1923年(民国12年)1月、薛篤弼は北京政府中央に召還され、署理司法部次長に任命された。3月、蒙疆善後委員会委員に任ぜられている。5月に国務院秘書長暫定代理、7月に京師税務監督暫定代理も兼ねた。翌年9月、内務部次長となっている。馮玉祥による北京政変(首都革命)勃発後、薛は王芝祥の後任として京兆尹に起用された。1926年(民国15年)9月、五原誓師により国民軍が国民聯軍に改組されると、薛は国民聯軍総司令部財政委員会委員長の要職に就いている。

国民政府時代の活動

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1927年(民国16年)6月、河南省政府委員兼財政庁庁長に任ぜられ、同年8月、国民政府の初代内政部部長に抜擢された。翌年1月、河南省民政庁庁長(国民政府内政部長と兼任)に転じている。10月には初代の国民政府衛生部部長となった。1929年(民国18年)3月、中国国民党第3期中央候補執行委員に選出された。1930年(民国19年)、北平で反蔣介石派の中央党部拡大会議が開催されると、薛篤弼もこれに参加し、宣伝部委員に任ぜられた。

反蔣介石戦争終結後、薛篤弼は中国国民党の主流派に復帰した。以後も中央候補執行委員に選出され、第5期途中の1936年(民国25年)7月に中央執行委員に昇格している。1941年(民国29年)7月、行政院全国水利委員会主任委員に任命された(1946年(民国35年)6月、水利委員会委員長に改組)。1947年(民国36年)4月、水利委員会の水利部改組に伴い、そのまま部長となっている。1948年(民国37年)、行憲国民大会代表に選出された。

中華人民共和国成立後、薛篤弼は大陸に留まった。中国人民政治協商会議全国委員会委員、上海法学会理事、上海律師協会副主任、中国国民党革命委員会(民革)中央委員などを歴任している。

1973年7月9日、上海市で死去。享年82。

参考文献

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北京政府時代の薛篤弼
Who's Who in China 3rd ed. (1925)
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
王芝祥
京兆尹
1924年12月 - 1925年10月
次代
劉驥
 中華民国の旗 中華民国国民政府
先代
(創設)
内政部長
1927年8月 - 1928年10月
次代
閻錫山
先代
(創設)
衛生部長
1928年10月 - 1929年11月
次代
劉瑞恒
先代
(創設)
行政院水利委員会主任委員
1941年9月 - 1946年6月
次代
(水利委員会委員長に
改組)
先代
(水利委員会主任委員から
改組)
行政院水利委員会委員長
1946年6月 - 1947年4月
次代
(水利部長に改組)
先代
(水利委員会委員長から
改組)
水利部長
1946年6月 - 1947年4月
次代
鍾天心