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[[奉天派]]の軍人として経歴を重ねる。[[1925年]]([[民国紀元|民国]]14年)、[[李景林]]率いる第1師で第4混成旅旅長となった。翌年、李が反[[張作霖]]の動きを見せたために武装解除され、失脚する。李の部隊は安国軍第16軍・第17軍に再編され、胡毓坤が第17軍軍長に任命された。 |
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[[1933年]](民国22年)5月、[[国民政府]]軍事委員会北平分会委員に任ぜられる。[[1935年]](民国24年)4月、陸軍中将銜を授与された。同年12月、[[冀察政務委員会]]委員に任ぜられている。[[1936年]](民国25年)12月、[[西安事変]]が勃発した際には、胡毓坤は張学良による蔣介石の捕縛を支持した。そのため、事変解決後に張が逮捕されると、胡はこれに不満を抱くようになる。 |
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そして[[1938年]](民国27年)、[[鮑文エツ|鮑文樾]]の誘いを受けた胡毓坤は、以後、[[汪兆銘]]の反蔣介石活動に与するようになる。[[1940年]](民国29年)3月、[[汪兆銘政権]]が樹立されると、胡は軍事委員会委員に任命される。翌月、蘇豫辺区綏靖司令となった。[[1943年]](民国32年)10月、軍事委員会駐華北委員となり、さらに陸軍上将を授与されている。翌年3月、駐華北軍務長官に任ぜられた。[[1945年]](民国34年)4月、軍事委員会参謀総長に任ぜられた。翌月、軍令部部長にもなっている。 |
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日本敗北後に、胡毓坤は蔣介石の国民政府に逮捕され、[[1946年]](民国35年)5月24日、[[漢奸]]の罪により[[南京市|南京]]で銃殺刑に処された。享年62。 |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
2020年9月15日 (火) 14:15時点における版
胡毓坤 | |
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プロフィール | |
出生: | 1885年(清光緒11年) |
死去: |
1946年(民国35年)5月24日 中華民国南京市 |
出身地: | 清盛京将軍管轄区奉天府海城県 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 胡毓坤 |
簡体字: | 胡毓坤 |
拼音: | Hú Yùkūn |
ラテン字: | Hu Yü-k'un |
和名表記: | こ いくこん |
発音転記: | フー ユークン |
胡 毓坤(こ いくこん)は中華民国の軍人。北京政府、奉天派の軍人で、後に南京国民政府(汪兆銘政権)に参加した。字は凌塵。
事跡
奉天派の軍人として経歴を重ねる。1925年(民国14年)、李景林率いる第1師で第4混成旅旅長となった。翌年、李が反張作霖の動きを見せたために武装解除され、失脚する。李の部隊は安国軍第16軍・第17軍に再編され、胡毓坤が第17軍軍長に任命された。
1928年(民国17年)、張学良が父を後継すると、胡毓坤は東北辺防司令長官公署参議官に転じる。翌年、張学良による中東鉄路の接収強行に端を発して、奉天派とソ連との紛争が発生した。このとき、胡は防俄軍第2軍軍長としてソ連軍に応戦している。1930年(民国19年)、中原大戦が勃発すると、胡は討逆軍第3軍軍長に任命され、張学良に従って関内に入り反蔣介石軍と交戦している。
1933年(民国22年)5月、国民政府軍事委員会北平分会委員に任ぜられる。1935年(民国24年)4月、陸軍中将銜を授与された。同年12月、冀察政務委員会委員に任ぜられている。1936年(民国25年)12月、西安事変が勃発した際には、胡毓坤は張学良による蔣介石の捕縛を支持した。そのため、事変解決後に張が逮捕されると、胡はこれに不満を抱くようになる。
そして1938年(民国27年)、鮑文樾の誘いを受けた胡毓坤は、以後、汪兆銘の反蔣介石活動に与するようになる。1940年(民国29年)3月、汪兆銘政権が樹立されると、胡は軍事委員会委員に任命される。翌月、蘇豫辺区綏靖司令となった。1943年(民国32年)10月、軍事委員会駐華北委員となり、さらに陸軍上将を授与されている。翌年3月、駐華北軍務長官に任ぜられた。1945年(民国34年)4月、軍事委員会参謀総長に任ぜられた。翌月、軍令部部長にもなっている。
日本敗北後に、胡毓坤は蔣介石の国民政府に逮捕され、1946年(民国35年)5月24日、漢奸の罪により南京で銃殺刑に処された。享年62。
参考文献
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
南京国民政府(汪兆銘政権)
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