「趙毓松」の版間の差分
編集の要約なし |
m Bot作業依頼: 繡蔣を含む記事の改名に伴うリンク修正依頼 (蔣介石) - log |
||
22行目: | 22行目: | ||
初めは貴州軍の[[袁祖銘]]や[[直隷派]]の[[呉佩孚]]の配下であった。[[1926年]]([[民国紀元|民国]])11月、反共主義の立場から[[中国青年党]]に加入している。この頃[[国民革命軍]]に転じていた袁の下に戻ると、趙毓松は反共のために呉や[[孫伝芳]]と結び、容共の武漢[[国民政府]]を転覆しようと進言する。袁もこれに応じて計画を準備したとされる<ref>松本・古沢同上、122-133頁。</ref>。しかし翌年1月末に、袁は武漢国民政府に属する湖南軍指導者・[[唐生智]]に謀殺されてしまった<ref>通説によれば、唐生智が袁祖銘を謀殺したのは、袁に湖南省の地盤を脅かされることに恐れを抱いたためとされる。</ref>。趙は[[四川省 (中華民国)|四川]]へ逃れて反共活動を続けている。 |
初めは貴州軍の[[袁祖銘]]や[[直隷派]]の[[呉佩孚]]の配下であった。[[1926年]]([[民国紀元|民国]])11月、反共主義の立場から[[中国青年党]]に加入している。この頃[[国民革命軍]]に転じていた袁の下に戻ると、趙毓松は反共のために呉や[[孫伝芳]]と結び、容共の武漢[[国民政府]]を転覆しようと進言する。袁もこれに応じて計画を準備したとされる<ref>松本・古沢同上、122-133頁。</ref>。しかし翌年1月末に、袁は武漢国民政府に属する湖南軍指導者・[[唐生智]]に謀殺されてしまった<ref>通説によれば、唐生智が袁祖銘を謀殺したのは、袁に湖南省の地盤を脅かされることに恐れを抱いたためとされる。</ref>。趙は[[四川省 (中華民国)|四川]]へ逃れて反共活動を続けている。 |
||
[[ |
[[蔣介石]]が国民政府を掌握した後、趙毓松は中央政治行動委員会委員長、中央検審委員会委員長、『新中国日報』総主筆、討賊聯軍総司令総参賛、川康甘青辺政設計委員会委員などを歴任した<ref name=Xu>徐前掲。</ref>。 |
||
[[1940年]](民国29年)3月<ref>『最新支那要人伝』は、趙毓松が[[重慶]]を1940年8月に脱出した、としている。</ref>、[[汪兆銘]](汪精衛)の[[汪兆銘政権]](南京国民政府)に参加する。なお、中国青年党から汪兆銘政権に参加した要人は、趙毓松のほかに[[張英華]]があげられる。趙は農鉱部部長兼中央政治委員(以後4期務める)に任命された。同年中に、接収日本軍管理工廠委員会副委員長、憲政実施委員会常務委員、全国経済委員会委員を歴任している<ref name=Xu/>。 |
[[1940年]](民国29年)3月<ref>『最新支那要人伝』は、趙毓松が[[重慶]]を1940年8月に脱出した、としている。</ref>、[[汪兆銘]](汪精衛)の[[汪兆銘政権]](南京国民政府)に参加する。なお、中国青年党から汪兆銘政権に参加した要人は、趙毓松のほかに[[張英華]]があげられる。趙は農鉱部部長兼中央政治委員(以後4期務める)に任命された。同年中に、接収日本軍管理工廠委員会副委員長、憲政実施委員会常務委員、全国経済委員会委員を歴任している<ref name=Xu/>。 |
2020年9月15日 (火) 14:09時点における版
趙毓松 | |
---|---|
『写真週報』1940年4月3日号 | |
プロフィール | |
出生: | 1897年(清光緒23年)12月26日[1] |
死去: |
1971年(昭和46年)11月18日 日本東京都 |
出身地: | 清貴州省黎平府 |
職業: | 政治家・ジャーナリスト |
各種表記 | |
繁体字: | 趙毓松 |
簡体字: | 赵毓松 |
拼音: | Zhào Yùsōng |
ラテン字: | Chao Yü-sung |
和名表記: | ちょう いくしょう |
発音転記: | ジャオ ユーソン |
趙 毓松(ちょう いくしょう)は、中華民国の政治家・ジャーナリスト。南京国民政府(汪兆銘政権)の要人。変名は邵松。
事跡
中国青年党、汪兆銘政権への参加
初めは貴州軍の袁祖銘や直隷派の呉佩孚の配下であった。1926年(民国)11月、反共主義の立場から中国青年党に加入している。この頃国民革命軍に転じていた袁の下に戻ると、趙毓松は反共のために呉や孫伝芳と結び、容共の武漢国民政府を転覆しようと進言する。袁もこれに応じて計画を準備したとされる[2]。しかし翌年1月末に、袁は武漢国民政府に属する湖南軍指導者・唐生智に謀殺されてしまった[3]。趙は四川へ逃れて反共活動を続けている。
蔣介石が国民政府を掌握した後、趙毓松は中央政治行動委員会委員長、中央検審委員会委員長、『新中国日報』総主筆、討賊聯軍総司令総参賛、川康甘青辺政設計委員会委員などを歴任した[4]。
1940年(民国29年)3月[5]、汪兆銘(汪精衛)の汪兆銘政権(南京国民政府)に参加する。なお、中国青年党から汪兆銘政権に参加した要人は、趙毓松のほかに張英華があげられる。趙は農鉱部部長兼中央政治委員(以後4期務める)に任命された。同年中に、接収日本軍管理工廠委員会副委員長、憲政実施委員会常務委員、全国経済委員会委員を歴任している[4]。
翌1941年(民国30年)2月、趙毓松は東亜聯盟中国総会常務理事、清郷委員会委員を歴任する[4]。8月、司法行政部長に異動したが、調査統計部長・李士群と対立したため1942年(民国31年)3月に同部長を辞任、閑職の銓叙部長に移った。翌1943年(民国32年)8月、自ら望んで国民政府委員のみの地位をつとめた[6]。
晩年
1945年(民国34年)8月、汪兆銘政権が崩壊すると、趙毓松は素性を隠して山東省の済南に移り住んだ。中国人民解放軍が済南に迫ると、趙は香港へ逃れ、さらに1950年末に日本へ亡命している。日本では、満州国で経済大臣をつとめた韓雲階と知り合い、閻錫山の指示とされる反共の言論活動に従事した。また、満州国国務総理秘書官長をつとめた松本益雄とも親交を結び、その援助を受けている[7]。
1971年(昭和46年)9月、趙毓松はリチャード・ニクソンの訪中表明(ニクソン・ショック)に衝撃を受け、抗議の服毒自殺を図る。この際には辛うじて一命を取り留めたものの、結局これが原因で体調を崩し、同年11月18日、東京都にて死去した。享年75(満73歳)[8]。
1978年(昭和53年)、松本益雄と古沢敏雄は、趙毓松の手記「三十年政治風濤親歴記」(松本訳)を底本として、『迎春花-趙毓松の中国革命回顧録』(明徳出版社)を刊行した。
注
- ^ 松本益雄・古沢敏雄『迎春花-趙毓松の中国革命回顧録』246頁による。東亜問題調査会『最新支那要人伝』132頁は1889年(光緒15年)生まれ、徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』2295頁は1899年(光緒25年)生まれとする。
- ^ 松本・古沢同上、122-133頁。
- ^ 通説によれば、唐生智が袁祖銘を謀殺したのは、袁に湖南省の地盤を脅かされることに恐れを抱いたためとされる。
- ^ a b c 徐前掲。
- ^ 『最新支那要人伝』は、趙毓松が重慶を1940年8月に脱出した、としている。
- ^ 松本・古沢前掲、208-210頁。
- ^ 松本・古沢前掲、238-242頁。
- ^ 松本・古沢前掲、242-243、252頁。
参考文献
- 松本益雄・古沢敏雄『迎春花-趙毓松の中国革命回顧録』明徳出版社、1978年。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。
南京国民政府(汪兆銘政権)
|
---|