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李聖五

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
李聖五
写真週報』1940年4月3日号
プロフィール
出生: 1899年光緒25年)
死去: 1985年
中華人民共和国黒竜江省ジャムス市
出身地: 清の旗 山東省泰安府泰安県
職業: 政治家・外交官・法学者
各種表記
繁体字 李聖五
簡体字 李圣五
拼音 Lǐ Shèngwǔ
ラテン字 Li Sheng-wu
和名表記: り せいご
発音転記: リー ションウー
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李 聖五(り せいご)は中華民国の外交官・政治家・法学者。名は福善だが、聖五で一般に知られる。汪兆銘(汪精衛)の南京国民政府で要職を歴任した人物である。

事跡

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北京大学を卒業し、日本に留学して、東京帝国大学大学院法学部研究員となった。さらにイギリスにも留学し、オックスフォード大学法学士の学位を取得した。帰国後は、曁南大学、復旦大学で教授となる。また、上海商務印書館の編輯や南京『中央日報』主編も勤めた。

1932年民国21年)7月、国民政府行政院参事に就任した。翌年12月、外交部総務司司長、中央政治会議特務秘書、『東方雑誌』総編集を兼任した。1935年(民国24年)に香港の国際問題研究所研究員に転じる。このとき、汪兆銘(汪精衛)と親しくなった。1937年(民国26年)6月、外交部顧問に転じている。

1940年(民国29年)3月、汪兆銘の南京国民政府に加入し、司法行政部部長、中央政治委員会指定委員に任命された。6月、憲政実施委員会常務委員となる。翌年3月、清郷委員会委員となり、8月、教育部部長兼社会行動指導委員会常務委員に転じた[1]。9月、駐ドイツ大使に任命され[2]、11月には文物保管委員会委員兼図書専門委員会主任委員となった。

1942年(民国31年)2月、ドイツ大使に加え、デンマーク公使も兼任した[2]。6月、新国民運動促進委員会常務委員に任じられる。1945年(民国34年)4月、外交部部長を兼任し、翌月には、文物保管委員会委員長と各国在華治外法権撤廃委員会委員長も兼任している。

日本敗北後の同年9月26日、蔣介石の国民政府により逮捕され、南京で収監された。1947年(民国36年)12月9日、懲役15年の判決を受けた[3]。しかし後に釈放されて香港に隠居し、香港中文大学で法学の教鞭をとった。1979年以降、何度か帰郷する。1984年からは黒竜江省ジャムス市に住む長女の下で暮らした。

1985年、病没。享年87。

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  1. ^ 劉寿林ほか編『民国職官年表』、1097頁では、以後、李聖五が南京国民政府崩壊まで教育部長を務めたことになっている。しかし、ここでは徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』の「陳春圃」の項に従い、1944年(民国33年)2月までの在任とする。
  2. ^ a b 郭卿友『中華民国時期軍政職官誌 下巻』1919頁によれば、着任はしていない。
  3. ^ 余子道ほか『汪偽政権全史 下巻』1617頁。

参考文献

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  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 余子道ほか『汪偽政権全史 下巻』上海人民出版社、2006年。ISBN 7-208-06486-5 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 郭卿友主編『中華民国時期軍政職官誌 下』甘粛人民出版社、1990年。ISBN 7-226-00582-4 
  • 「叛首伝」「山東省情網」(山東省地方志弁公室ホームページ)内「山東省省情資料庫」

関連文献

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  • Li, Charles N (2008). The Bitter Sea: Coming of Age in a China Before Mao. HarperCollins. ISBN 0061346640  (李聖五の子で米国に帰化した言語学者チャールズ・N・リー(李訥)の自伝、父親についても詳しく記す)
  南京国民政府(汪兆銘政権
先代
(創設)
司法行政部長
1940年3月 - 1941年8月
次代
趙毓松
先代
趙正平
教育部長
1941年8月 - 1944年2月
次代
陳春圃
先代
褚民誼
外交部長
1945年4月 - 8月
次代
(廃止)