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[[1931年]](民国20年)、馬仲英は河西行政委員会を組織し、さらに甘州4県と粛州7県を河西省として、同省政府主席を自称する挙に出る。しかし同年4月に、青海省の[[馬歩芳]]の攻撃を受け、[[酒泉市|酒泉]]へ逃れた。同年中に、今度は[[新疆省]]へ軍を率いて進入し、同省政府主席[[金樹仁]]と交戦した。しかし、[[クムル市|クムル]](哈密)を攻略できず、河西へ退却した。 |
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2020年9月15日 (火) 14:04時点における版
馬仲英 | |
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プロフィール | |
出生: | 1912年(1908年または1910年説有り) |
死去: |
1937年(1936年または1935年説有り) ソビエト連邦 |
出身地: | 清甘粛省蘭州府河州城 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 馬仲英 |
簡体字: | 马仲英 |
拼音: | Mǎ Zhòngyīng |
ラテン字: | Ma Chung-ying |
和名表記: | ば ちゅうえい |
発音転記: | マー ジョンイン |
馬 仲英(ば ちゅうえい、?——1937年[1])は中華民国の軍人。馬麟の甥で、馬家軍の有力頭領である。旧名は歩英。字は子才。回族出身。生没年不詳。[2]
事跡
青海軍事学校に入学する。1925年(民国14年)、寧海軍騎兵第11営の幇帯となった。1928年(民国17年)、馮玉祥に反旗を翻した。しかし国民軍の劉郁芬に敗北して、河西に逃れた。
1929年(民国18年)、蔣介石から討逆軍第15路軍第2路縦隊司令に任命され、反蔣軍と戦う。1930年(民国19年)、山東省に赴いて馬鴻逵の参議となった。同年中に寧夏省に引き返し、引き続き馬鴻逵の下で教導大隊長をつとめている。
1931年(民国20年)、馬仲英は河西行政委員会を組織し、さらに甘州4県と粛州7県を河西省として、同省政府主席を自称する挙に出る。しかし同年4月に、青海省の馬歩芳の攻撃を受け、酒泉へ逃れた。同年中に、今度は新疆省へ軍を率いて進入し、同省政府主席金樹仁と交戦した。しかし、クムル(哈密)を攻略できず、河西へ退却した。
1932年(民国21年)、馬仲英は、蔣介石により国民革命軍新編第36師師長に任命された。翌1933年(民国22年)5月、またしても新疆へ進攻し、同省政府主席盛世才と交戦した。馬は、トルファンなど13の県城を占領し、9月には、新疆省政府委員にも任命されている。しかし、1934年(民国23年)、盛の反撃に敗北してしまう。馬は退却途中に、東トルキスタン共和国(第1次)とホータンのイスラム教政権を攻め滅ぼしている。同年7月、馬仲英は、部隊の200人とともに、ソビエト連邦へ向かい、空軍に加入した。
1937年(民国26年)、飛行機事故により死亡。
逸話
新疆での馬仲英の戦いには、スヴェン・ヘディンも巻き込まれ、彼自身は馬に面会したことがないが、この件に関する詳細な記録を残している。この記録の邦訳に、小野忍訳『馬仲英の逃亡』(初版;改造社、1938年。新版:中公文庫、2002年)がある。
脚注
- ^ 再论马仲英赴苏及其下落.pdf
- ^ “《马仲英》_关天茶舍_论坛_天涯社区”. bbs.tianya.cn. 2019年8月11日閲覧。
参考文献
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- スヴェン・ヘディン、小野忍訳『馬仲英の逃亡』中央公論新社(中公文庫BIBLIO)、2002年。ISBN 978-4122040151。
- スヴェン・ヘディン、宮原朗訳『戦乱の西域を行く (スウェン・ヘディン探検記)』白水社、1988年。ISBN 978-4560031315。ほかもある。