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同年末に、褚民誼は帰国して、[[孫文]]率いる中国国民党で教育工作に従事する。広東大学教授、同代理校長、広東医学院院長を歴任した。[[1926年]](民国15年)1月、国民党第2回全国代表大会で中央候補執行委員に選出され、まもなく執行委員に昇格した。以後、汪兆銘の腹心として党政活動に参加し、[[改組派]]と目された。この年の[[北伐 (中国国民党)|北伐]]では、総司令部軍医長として各省を回る。[[1928年]](民国17年)、公衆衛生研究のため欧州に出張した。帰国後、国民衛生建設委員会委員長に任ぜられている。 |
同年末に、褚民誼は帰国して、[[孫文]]率いる中国国民党で教育工作に従事する。広東大学教授、同代理校長、広東医学院院長を歴任した。[[1926年]](民国15年)1月、国民党第2回全国代表大会で中央候補執行委員に選出され、まもなく執行委員に昇格した。以後、汪兆銘の腹心として党政活動に参加し、[[改組派]]と目された。この年の[[北伐 (中国国民党)|北伐]]では、総司令部軍医長として各省を回る。[[1928年]](民国17年)、公衆衛生研究のため欧州に出張した。帰国後、国民衛生建設委員会委員長に任ぜられている。 |
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[[1932年]](民国21年)1月、[[蔣介石]]と和解した汪が行政院院長に就任すると、褚民誼は行政院秘書長に任命された。さらに[[1934年]](民国23年)には、国民党[[新疆省|新疆]]建設計画委員会主任委員も兼任している。しかし[[1935年]](民国24年)11月に、汪が銃撃・負傷により辞任すると、褚も辞任し、上海の中法国立工学院院長等に異動した。 |
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=== 南京国民政府での活動 === |
=== 南京国民政府での活動 === |
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[[1940年]](民国29年)3月、南京国民政府が成立すると、褚民誼は行政院副院長兼外交部部長に任命された。以後、日本との外交折衝を主に担当する。同年12月に、[[在日本中国大使|駐日大使]]となった。[[1941年]](民国30年)10月、外交部長に復帰している。その後も外交事務を引き受け、後に[[昭和天皇]]から[[勲一等旭日大綬章]]を授与されている。南京国民政府では、特に汪兆銘・陳璧君に近い派閥である「公館派」の一員と目された。[[1944年]](民国33年)11月に汪が死去すると、[[陳公博]]が代理主席となった。しかし、陳公博と褚民誼は不仲で対立が激しく、[[周仏海]]の斡旋が必要なほどであったとされる。 |
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[[1945年]](民国34年)7月、[[広東省 (汪兆銘政権)|広東]]省長兼保安司令、広州綏靖主任に任命された。同年8月に日本が敗北すると、褚民誼は、蔣介石に対して従順な姿勢をとった。しかし、結局10月に[[広州市|広州]]で蔣の命により逮捕されてしまう。[[1946年]](民国35年)4月、[[漢奸]]の罪により死刑を宣告され、同年8月23日、[[蘇州市|蘇州]]の監獄で処刑された。享年63。 |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
2020年9月15日 (火) 13:59時点における版
褚民誼 | |
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Who's Who in China 4th ed. (1931) | |
プロフィール | |
出生: | 1884年(清光緒10年) |
死去: |
1946年(民国35年)8月23日 中華民国江蘇省蘇州市 |
出身地: | 清浙江省湖州府(現在の呉興区) |
職業: | 政治家・外交官・医者 |
各種表記 | |
繁体字: | 褚民誼 |
簡体字: | 褚民誼 |
拼音: | Chǔ Mínyì |
ラテン字: | Ch'u Min-I |
和名表記: | ちょ みんぎ |
発音転記: | チュー ミンイー |
褚 民誼(ちょ みんぎ)は、中華民国の政治家、外交官、医者。国民党員として国民政府に参加し汪兆銘の腹心の1人であった。後に南京国民政府に参加し要職を歴任した。原名は明遺。字は重行。
事跡
欧州での活動
士大夫の家柄に生まれる。父の褚吉田は、名医として評判があった。褚民誼は最初旧学を学んだが、後に英語や理数系の学問に親しんだ。1903年(光緒29年)、日本へ留学し、日本大学で政治経済学を学ぶ。この時、革命思想に傾倒し、1906年(光緒32年)、同郷の張静江とともにフランスへ向かう途中のシンガポールで、中国同盟会に加入した。フランスでは、呉敬恒(呉稚暉)・李石曽・蔡元培らとともに中国印書局を創設している。『新世紀月刊』『世界画報』などの刊行物を発行して、革命思想の宣伝に努めた。
1911年(宣統3年)11月、褚民誼は、辛亥革命により革命派が掌握した上海に戻る。この時、黄興の紹介により、汪兆銘・陳璧君夫婦と知り合った。褚は、陳璧君の義妹である陳舜貞と結婚している。1912年(民国元年)4月、褚は同盟会本部駐上海機関部の総務長に就任した。しかし、まもなく宋教仁が国民党に改組すると、これに失望してベルギーに留学する。ブリュッセル自由大学で学んだ。
その後、1915年(民国4年)に、袁世凱打倒活動のため一時帰国した。まもなく欧州に戻り、フランスで蔡元培・汪兆銘らと「華法教育会」を立ち上げ、中国人留学生の支援組織とした。1920年(民国9年)、呉敬恒・李石曽らとリヨン中法大学を創設した。褚自身は、同年にストラスブール大学で医学を学ぶ。1924年(民国13年)、医学博士号を取得した。
国民党での活動
同年末に、褚民誼は帰国して、孫文率いる中国国民党で教育工作に従事する。広東大学教授、同代理校長、広東医学院院長を歴任した。1926年(民国15年)1月、国民党第2回全国代表大会で中央候補執行委員に選出され、まもなく執行委員に昇格した。以後、汪兆銘の腹心として党政活動に参加し、改組派と目された。この年の北伐では、総司令部軍医長として各省を回る。1928年(民国17年)、公衆衛生研究のため欧州に出張した。帰国後、国民衛生建設委員会委員長に任ぜられている。
1932年(民国21年)1月、蔣介石と和解した汪が行政院院長に就任すると、褚民誼は行政院秘書長に任命された。さらに1934年(民国23年)には、国民党新疆建設計画委員会主任委員も兼任している。しかし1935年(民国24年)11月に、汪が銃撃・負傷により辞任すると、褚も辞任し、上海の中法国立工学院院長等に異動した。
南京国民政府での活動
1937年(民国26年)に上海が日本軍により陥落したが、褚民誼は、中法国立工学院の事務に係り、そのまま上海に留まった。1939年(民国28年)5月、上海を秘密裏に訪問した汪兆銘の誘いに応じ、褚も親日政府樹立に動くことになった。同年8月、汪が上海で国民党第6回全国代表大会を開催する。褚は中央監察委員会常務委員、中央党部秘書長に選出された。
1940年(民国29年)3月、南京国民政府が成立すると、褚民誼は行政院副院長兼外交部部長に任命された。以後、日本との外交折衝を主に担当する。同年12月に、駐日大使となった。1941年(民国30年)10月、外交部長に復帰している。その後も外交事務を引き受け、後に昭和天皇から勲一等旭日大綬章を授与されている。南京国民政府では、特に汪兆銘・陳璧君に近い派閥である「公館派」の一員と目された。1944年(民国33年)11月に汪が死去すると、陳公博が代理主席となった。しかし、陳公博と褚民誼は不仲で対立が激しく、周仏海の斡旋が必要なほどであったとされる。
1945年(民国34年)7月、広東省長兼保安司令、広州綏靖主任に任命された。同年8月に日本が敗北すると、褚民誼は、蔣介石に対して従順な姿勢をとった。しかし、結局10月に広州で蔣の命により逮捕されてしまう。1946年(民国35年)4月、漢奸の罪により死刑を宣告され、同年8月23日、蘇州の監獄で処刑された。享年63。
参考文献
- 黄美真・張雲「褚民誼」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第9巻』中華書局、1997年。ISBN 7-101-01504-2。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。
南京国民政府(汪兆銘政権)
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