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[[1938年]]3月、[[台湾軍 (日本軍)|台湾軍]]司令部付(特務工作)、参謀本部付(特務工作)。日本陸軍は[[日中戦争]]の戦局打開のため、[[蔣介石]]のライバルと目される要人たちの懐柔を図り、[[大本営]]直轄の[[土肥原賢二|土肥原機関]]の指揮下に、[[北京]]では[[大迫通貞]]大佐が「竹工作」を、[[福建省]]に対しては[[台湾]]を拠点に[[山本募]]大佐が「菊工作」を、[[重慶]]に対しては参謀本部の[[影佐禎昭]]大佐が「梅工作」を、[[上海]]では和知が「蘭工作」を行った<ref>『謀略の昭和裏面史 <small>特務機関&右翼人脈と戦後の未解決事件!</small>』別冊宝島Real、[[宝島社]]、2006年、100-101頁 </ref>。その後、[[第21軍 (日本軍)|第21軍]]司令部付兼[[中支那派遣軍]]司令部付、[[支那派遣軍]]総司令部付を経て、[[1940年]](昭和15年)3月、陸軍[[少将]]に進級。同年11月、参謀本部付となり、台湾軍参謀長、兼台湾軍研究部長として[[太平洋戦争]]を迎えた。 |
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[[1942年]](昭和17年)2月、[[第14軍 (日本軍)|第14軍]]参謀長に就任し、[[フィリピン]]・[[フィリピンの戦い (1941-1942年)#第二次バターン半島の戦い|バターン攻略]]に参加し、兼比島軍政監となり、[[1943年]](昭和18年)6月、陸軍中将に進んだ。[[1944年]](昭和19年)3月、[[南方軍 (日本軍)|南方軍]]総参謀副長に就任し、さらに[[第35軍 (日本軍)|第35軍]]参謀長へ転出し[[レイテ島の戦い]]に参戦したが敗退。次いで南方軍総司令部付となり、南方軍総参謀副長兼南方軍交通隊司令官を経て、中国[[憲兵 (日本軍)|憲兵隊]]司令官として終戦を迎えた。 |
[[1942年]](昭和17年)2月、[[第14軍 (日本軍)|第14軍]]参謀長に就任し、[[フィリピン]]・[[フィリピンの戦い (1941-1942年)#第二次バターン半島の戦い|バターン攻略]]に参加し、兼比島軍政監となり、[[1943年]](昭和18年)6月、陸軍中将に進んだ。[[1944年]](昭和19年)3月、[[南方軍 (日本軍)|南方軍]]総参謀副長に就任し、さらに[[第35軍 (日本軍)|第35軍]]参謀長へ転出し[[レイテ島の戦い]]に参戦したが敗退。次いで南方軍総司令部付となり、南方軍総参謀副長兼南方軍交通隊司令官を経て、中国[[憲兵 (日本軍)|憲兵隊]]司令官として終戦を迎えた。 |
2020年9月15日 (火) 13:59時点における版
和知 鷹二 | |
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生誕 |
1893年(明治26年)2月1日 日本 広島県 |
死没 | 1978年(昭和53年)10月30日 |
所属組織 | 日本陸軍 |
軍歴 | 1914年(大正3年) - 1945年(昭和20年) |
最終階級 | 陸軍中将 |
和知 鷹二(わち たかじ、1893年2月1日 - 1978年10月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。本人は対ロシアを重視し北進重視の人物であり、中国政権には懐柔策を持つ人物であったため、1932年に大連出身で京大院卒のスパイ夏文運(中華民国初代副大統領 李宗仁のスパイ)と頻繁に接触して軍情報を漏らすようになり、山東省台児庄戦役では自軍に5000人の死者をもたらした。[要出典]
経歴
広島県出身。旧中津藩士、陸軍中佐・和知蓁一郎の二男として生まれる。広島高等師範学校附属中学校、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第3連隊付となる。1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。
1923年(大正12年)8月、歩兵第3連隊中隊長となり、参謀本部付勤務、参謀本部員(支那課)、参謀本部付(支那研究員・南支駐在)、参謀本部員、第6師団司令部付(済南特務機関)、済南駐在武官などを歴任し、1929年(昭和4年)3月、歩兵少佐に昇進。同年8月、歩兵第63連隊大隊長に就任し、参謀本部員、関東軍参謀、広東駐在武官などを歴任。
1933年(昭和8年)8月、歩兵中佐に進級。1934年(昭和9年)12月、参謀本部員となり、支那駐屯軍司令部付(太原機関長)を経て、1936年(昭和11年)8月、支那駐屯軍参謀となり日中戦争に出征。1937年(昭和12年)8月、歩兵大佐に昇進し歩兵第44連隊長に発令された。
1938年3月、台湾軍司令部付(特務工作)、参謀本部付(特務工作)。日本陸軍は日中戦争の戦局打開のため、蔣介石のライバルと目される要人たちの懐柔を図り、大本営直轄の土肥原機関の指揮下に、北京では大迫通貞大佐が「竹工作」を、福建省に対しては台湾を拠点に山本募大佐が「菊工作」を、重慶に対しては参謀本部の影佐禎昭大佐が「梅工作」を、上海では和知が「蘭工作」を行った[1]。その後、第21軍司令部付兼中支那派遣軍司令部付、支那派遣軍総司令部付を経て、1940年(昭和15年)3月、陸軍少将に進級。同年11月、参謀本部付となり、台湾軍参謀長、兼台湾軍研究部長として太平洋戦争を迎えた。
1942年(昭和17年)2月、第14軍参謀長に就任し、フィリピン・バターン攻略に参加し、兼比島軍政監となり、1943年(昭和18年)6月、陸軍中将に進んだ。1944年(昭和19年)3月、南方軍総参謀副長に就任し、さらに第35軍参謀長へ転出しレイテ島の戦いに参戦したが敗退。次いで南方軍総司令部付となり、南方軍総参謀副長兼南方軍交通隊司令官を経て、中国憲兵隊司令官として終戦を迎えた。
1945年(昭和20年)12月、予備役に編入。1946年(昭和21年)1月、戦犯容疑(橘丸事件)で逮捕され巣鴨拘置所に拘留。1948年(昭和23年)4月13日、重労働6年の判決を受け、1950年(昭和25年)8月17日付けで仮釈放された[2]。この間に公職追放となった[3]。